そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。(マルコ14・43)
『弟子のひとり』と書いたのはマルコがユダの罪を如何に苦しく感じたかを示している。ああイエス御自身が選び給うた十二人の中からさえも反逆者が起こったのだ、と言う嘆息の気分が見える。
しかも彼は十一弟子が決死の防御をするであろうことを虞れて、あるいはホザナを叫んだガリラヤ人のある者がイエスの周囲に集まっているかをも考慮して、周到なる用意のもとに『剣や棒を手にした群衆』を連れて来た。
ユダの反逆は一時の出来心ではない。充分に用意してかかっている。犯行の後に縊死(いし)した時の半分の反省があったならば、かかる大罪を犯さなかったであろうが、これが罪の恐るべき性質である。犯すまでは反省することが出来ないほどの力をもって迫って来るのである。
祈祷
主よ、あなたは十字架によって罪を滅ぼし、私たちをその威力から救い出して下さったことを感謝申し上げます。私たちの罪はユダのそれよりも暗くして醜いです。しかしあなたは私たちに悔い改めを与えて下さったことを感謝申し上げます。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著335頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌542https://www.youtube.com/watch?v=PngmjEn6pyU
ここで、David Smithの『The Days of His Flesh』の詳細な記述を読んでみたい。11/25『ゲッセマネの祈り(2)』所収の 8 イエスの憂悶 に続く個所である。邦訳884頁 原著458頁
9 ユダとその団体
斯く仰せられる間にイエスが予想された一団は進んで、眼前に現われた。楼上の客室から出たユダは有司に赴いて、その約束を当夜果たすべきを報告したので、彼らはイエスを逮捕のため一団体を招集した。先づ第一に神殿の役人のあるものを集めた。これで十分であるのに、彼らはなおローマ兵の一分隊を応援せしめた。過越の祝いの間に武器を携帯するのはユダヤの律法の許さざる所である。かつイエスは何の防御の手段のないことは明らかであったけれども警戒を加えることは必要であって、群衆がその中心人物を逃れしめんがために集合するかも計り難いからであった。ただにそれのみならず、常に秩序を維持するに汲々と心を砕く知事が、ことに祭典の季節で市内の雑踏せる折り柄、一閃の火もたちまちに大火となるべきを恐れて、斯くの如き計画をただユダヤ人の手にのみまかせて置くことを許さなかった。而して彼の好意と協同とを得るのは、彼らの計画を確実に遂げる最上の策であったので、彼らは寸刻を焦りつつ彼に請うて、保民官の命令の下にアントニヤ要塞から一分隊の兵を借り受けたのであった。兵卒は甲冑を纏って、列を整えて来たが、訓練のない神殿の奴僕どもは、棒を握って提灯や炬火を手にしつつ不秩序な団体を組んでいた〈マタイ26・47、マルコ14・43、ルカ22・47、ヨハネ18・3〉。ユダは先導に立った。蓋し彼はその主や同輩に弟子たちと共に毎夜ここへ来たのでこの隠れ家をよく知っていた。雑漠たる団体はユダの後に続いた。而してその内には熱心のあまりにその威儀を繕うことすら忘れた祭司長、神殿の役人長老らのあるものが加わっていたのであった。
10 謀反
逮捕するのは兵士の役であったけれども、彼らはイエスを知らなかった。而して彼らの近づくや提灯と炬火との光の前に一人ならずして十二人の人物が現れたので、何れを逮捕すべきやに惑った。ユダはこれを助けんとして『私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ』と合図した。斯くて進んで恭敬の状を装いつつ挨拶して『先生。お元気で』と強く口づけした。実に恥を知らず、冷酷にして厚顔な所業であったが、イエスは憤怒と侮蔑にわななかれつつ、制するような宣告を下して『友よ』との一句に謀反人の下劣なことを示し「汝の使命を遂げよ」と仰せられた。ユダを傍に押しやってイエスは進んで兵士に問われた。『だれを捜すのか』と。その調子にも態度にも自ら彼らを圧するものがあったので、彼らは震えながら『ナザレ人イエスを』と答えた。彼らは悪逆な謀反人の側に躊躇しつつ立っていたがイエスが『それはわたしです』と自ら進んで彼らの手に己を委ねられたとき、驚駭に打たれて、地上に倒れた。これは決して奇蹟ではなかった。ある日ジョン・バンヤンの説教中に警官の一隊が家に入り来たって、そのうちの一人が、彼を逮捕せよと命令した。彼は聖書を開いて手に載せつつ正面に警官の顔を見詰めると、警官は色を失って後ろに倒れた。バンヤンは侶伴を顧みて『見よ、この人の神の人に戦慄する様を』と叫んだと言う。またジョン・ウェスレーは迫害の起こったとき、無頼漢の一隊に囲まれた。彼らはその犠牲の顔を知らないので、群衆の中を『何れか彼なりや』『何れか彼なりや』と叫び求めた。神の人は前に歩み出て大胆に彼らに相対して『私はそれなり』と言うや、彼らは驚いて退き去ったと伝えられる。従ってイエスの敵が人の子の権威に打たれて頭を垂れたのを怪しむ要はないであろう。その権威には凶暴なナザレ人も圧伏せられた〈ルカ4・29〜30〉。而して断崖の頂上からイエスを投げ落とそうとした。その毒手を控えたのであった。しからば今ゲッセマネの夜の妖気の下に、イエスが面前に立たれたのにこの一団が逡巡したのは怪しむに足るまい。
11 逮捕
イエスはさらにその問いを繰り返して『だれを捜すのか』と尋ね給うたので彼らも再び『ナザレ人イエスを』と答えた。『それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。』とイエスは宣い、さらに加えて『もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい』とこの危機迫る恐ろしき時期にすらなお弟子に対して心を砕かれた。恐怖がさると、兵士らはイエスにその手を加えて、その弱点を見透かされたる恥ずかしさに一層残忍にこれを縛したことであろう。十一人は恐怖に縮み上がった。しかしその慕い奉る主を彼らが斯くも無礼に扱うのを見てペテロはこれを控えることが出来なかった。
ペテロ、マルコスを斬る
絶望的な勇を揮って、彼はその外套の下に隠し持った剣を抜き、最も近い男を目掛けて打ち降ろし、その右の耳を切った。この不運な男は祭司長の奴隷のマルコスと言うものであったと言う。彼はイエスと兵士とが問答を交わされている間に、後ろに立っていた。而して兵士がイエスを捕らえて、これを縛するときに同輩らと近く寄って来て、群衆の肩の上から成り行きを眺めている所に、ペテロが後ろから切りつけたのであった。この軽率な弟子の運命はその無謀な行為で定まったものと思われた。瞬間ならずしてペテロは地上に切り倒されるべきはずであったが、しかし敵の刃が鞘を離れて飛ぶまもなく、イエスは遮って『剣をさやに収めなさい』とペテロに命じなお未だ捕縛のかからない右の手を伸べて『わたしを彼処まで行かしめよ』と兵士に命じ、マルコスの許に近づいて、切られた耳に触れ、その傷を癒された。奇蹟によってペテロの生命は助かった。しからずんば雨の如き復讐の刃は降って彼は寸断せられたに相違はない。
12 主、ペテロを叱責せらる
マルコスの同僚が群がり寄って来て傷を調べて祝している間にイエスはペテロを叱責して『剣を取る者はみな剣で滅びます』と諺の如き名句をもって仰せられ、なお『それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことが出来ないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう』と宣うた。聖クリソストムは旧約全書中のセナケリブの軍隊の滅亡をイエスが引照せられた者であろうと想像している〈2列王紀19・35〉。一軍団は六千人であって、もし一人の天使にして能く一八万五千人を撃ち殺したりとせば七万二千の天使に対してこの賎民の一群が果たして物の数とも思われようか。
13 イエスの風刺
主の平静な自制力は、この恐るべき危機に際してすら、ペテロを叱責せらるるのみならず、なお、この後に続いて言われた言葉のうちに現われている。すなわち祭司とパリサイ人の団体を団体を顧みて侮蔑をもって『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか』と詰められた。彼らが斯く武装せる者を率いて、さながら暴虐な凶漢を遇する如き策を取るほど、イエスが、彼らに恐ろしく見ゆる理由があったろうか。イエスは骨を刺すような言葉をもって『わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです』と宣うた。一句彼らの胸を貫く感があったことであろう。彼らは群衆を恐るるが故に、神殿においてはイエスを捕らえなかった。臆病な彼らは、ここでも臆病で、孤独な赤手のイエスに対し武装の団体を率いて来た。この御言葉に彼らが憤慨したか、あるいは喧々諤々脅迫したか、この間にともかく弟子の心を畏縮せしむべき事件が起こった。
遁逃
『弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった』。
14 麻の夜具を破れる若者
ここに聖マルコのみが一事件を紹介している。不思議な姿をした一人の影が後ろを徘徊して従って来たーーすなわち『裸で』麻の敷布に包まった若者であったと言う。彼は主の一団ではなかったけれども、その同情者で心を寄せていたものに相違はない。脅迫された弟子たちが驚いて逃げ去ったので、余憤に燃えた有司たちはその男を捕らえたが、彼は敷布を棄て、それを彼らの手に残したまま裸で逃げ去った。ある人は斯くの如き事件が後年に残ったことを怪しむのである。さながら悲劇の中に不似合いな喜劇を挿入したと言う他に、この滑稽な青年を引き出す必要はないようである。これをことさら記すには特別の理由がなければならぬ。これは畢竟聖マルコその人であって、聖書の記者の例に漏れず、自己の名はこれを曖昧にして事件を添えたものと推測せらるるのである。この青年はイエスが過越の祝いの晩餐を取られた家から来たものと昔からせられているのであるが、それが果たしてマリヤの家であったとすれば彼はその息子であったものとするのが至当である(※)。
恐らくヨハネ・マルコ
彼の被った麻の敷布は寝床に用いるものであって、マルコは晩餐後に寝たのであろうが、凶事前の不安の思いに眠りもやらず、イエスが十一人と共に楼上を降りて家を出られるのを聞いて、彼も起き出で、とりあえず敷布を被りつつ、何事を起こるのかを見るために一同の後に尾いて来たものと総合せられるのである。
15 指を断たれたマルコ
事件は一小些事に過ぎない。しかもマルコの記憶には明確であって、福音記者としてその光景を自ら目撃したことを示すにおいて特別の価値があるのである。彼の謙譲よりそれを些事に取り扱ったので、実は記事以上の価値があるであろう。初代の教会のうちにマルコについて奇妙な物語が伝えられる。すなわち彼は「指を断たれた」マルコと称せられていることであって、その由来の信ずべき説明を欠く所から、この忘るべからざる夜に敵と取っ組み合って、ついに刃をもって指を切り落とされたものであろうと推せられるのである。もし然りとせば彼はその主の危急の場合、これに忠誠を献げたことを得意として紹介し、その負傷は名誉としても差し支えないはずであった。
※David Smithのこのような推測は必ずしも彼独自のものではないようだ。英文ではあるがオースティン・スパークスの以下の論考にもこれを肯定する記事があるので紹介しておく。https://www.austin-sparks.net/english/books/000945.html なお、上記の10 謀反 の記事中「 」で示した語句は聖書中に見当たらない。David Smithの想像ではないかと思う。念のために、英文は「to thine errand!」である。
併せて、繰り返しになるが、クレッツマンの昨日の続きを読むのも無駄ではあるまい。
彼らがある不幸な裏切り者に先導されて来た時、主はこれを迎えに出られた。
かくして、二人の者は顔を合わせる。身を低めて、人の姿をとってはいても、罪に手を染めたことのない天から来られた主と、「滅びの子」であり、サタンのずるさと残忍さの前に捧げられた最も痛ましい生贄〈いけにえ〉の一つであり、「十二弟子の一人」なるユダと。キリストに属するものの一人であるということは、キリストから脱落しないことの保証ではない。
「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい〈1コリント1 ・12〉」。
ユダはユダヤの議会に雇われて、剣や棒で身をかためた兵卒や僕たちの大勢を引き連れて来たが、これは彼にとって、あまり心安らかなことではなかったに違いない。彼は、主が実際に示されたように、一言口にされるだけで、彼らみんなを地に打ちのめすことができるのを知っていたが、どういうものか、主は御自身を守る努力をなさらなかったので、こんなおかたを捕らえてとくとくとする訳にゆかなかった。裏切りの合図でありしるしである、偽りの親しさを込めた接吻は、にがさ以外の何ものもなかったにちがいない。
こうして、生命の主は、その定められた死を迎えようとされる。みずからの意志で、主は、彼らがそのけがれた手を触れて、捕らえるにまかせたのである。剣で師を守ろうとしたペテロの、つたない試みはすぐに退けられた。敵たちは主を捕らえて、満足を味わうはずだったが、主は彼らの剣や棒が権力のむなしい誇示にすぎないと指摘なさったので、その満足はすべてだいなしにされてしまった。もし彼らに正当な理由があるなら、主が宮で教えておられる時に、正々堂々と捕らえることができた訳だが、彼らは卑怯にも、そういう方法では捕えに来なかった。今、彼らが主を縛って引いて行くことができる唯一の理由は、それが神の御前において定められたことであり、主御自身の意志による、ということだけだった。
主がご自身を渡されたのを見た時、ペテロやその他の人々のあの誇らかに勇気や信仰心は、みんなどこかに消え失せてしまった。彼らは夜の闇の中へ逃げこんだ。この騒ぎに接して、おそらく、眠りから覚まされたのであろうか、たった一枚の布を身にまとっただけで、そばへ近寄って見ようとした一人の若者がいた。人々はこの若者も捕らえようとしたが、彼は最後の被いまでも捨てて、これまた闇の中へ姿を消してしまうのである。かくして、イエスは敵の手中に唯一人、残される。主に対する私たちの信仰は、全くあてにならない。それに反して、私たちに対する主のまことの心は、決してそこなわれることがないのである。)
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