2022年12月30日金曜日

復活の主に見(まみ)ゆる喜び

全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。・・・信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し・・・(マルコ16・15〜17)

 『すべての造られた者』すなわちクチシスという字は人間のみを指すのでない。神の創造し給うた万物を指すのである。福音を伝えるのは人間のみではない。福音の恩恵には万物が浴すのである。

 アッシジのフランシスは鳥や獣にまで説教したと言う。福音の宣伝はそこまで行くべきであろう。もちろん私たちの言語を解することはできまいが、愛の福音はそこまで行くべきである。キリストの福音は人類を救うのみに止まらないで、ついに禽獣にまで及び、世界は真の楽園と化するに至るのである。

 これを成就するために主は信ずる者と共に在って、人間が見て奇跡と思う『しるし』をさえ与えて下さる。私たちが必要とするところはこれを握る信仰である。主よ、願わくは私たちに何は無くとも信仰を豊かにお与え下さい。

祈祷
パンは無くとも、石をもパンとする信仰をお与え下さい。かくて世界の隅々まで楽園となる時を急がせ給え。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著364頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌144https://www.youtube.com/watch?v=dqxolE1nmE0 

David Smithの『The Days of His Flesh(受肉者耶蘇)』の最終記事、日高善一訳1012頁、原書525頁より引用

20 復活の主の不易の現在

 この思想を光明として世の末期までその民とともに在すと言う主の約束の意義が確実となるのである。『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです』『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます』〈マタイ28・20〉これらの聖語は文字そのままの真理である。主がオリーブ山上において十一人の使徒に別れ給うたとき、地を見棄てられて、はるかの天界に移住せられたのではない。主は自らを示さるることを廃された。しかも現に存在し、世紀また世紀を重ねてもこの世を去られたのではない。主はその復活四十日間と異ならず、今日にもなお在し給うのである。いずれの時にも主は我らの心の幔幕〈まんまく veil〉を取り去って、マリヤにまたペテロ、ヨハネに対せらるると等しく、我らにも己を現わし給うのである。

 タルソのサウロがダマスコの途上において主に接した、かの記念すべき日に主は同じ奇蹟を行なわれた〈使徒9・1〜9〉。聖パウロはこの不思議な機会に我らの主イエスに接したことを疑わなかった 〈1コリント9・1〉。これは決して幻ではなかった。実際の姿で四十日の間に前の弟子たちに示された所と何の相違もなかった。サウロは主を見た。しかし証拠の与えられるまでは主なりと認めることを得なかった。蓋し彼はその在世の日にイエスを知らなかったので、その証拠もまた過去を回想すべきものではなく『わたしはあなたが迫害しているナザレのイエスだ』〈使徒22・8〉と言う力を罩〈こ〉めた宣言であった。サウロはその心の幔幕が除かれたので主に見(まみ)ゆるを得たけれども、従者は何人をも見なかったのである。

 イエスはその民と今も共に在まし給う。『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです』とは『弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあった』かの復活の週の首〈はじめ〉の日においてエルサレムに集まれる団体のうちに現われ給うたのと同じ意義である。『どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください』と古えの預言者は祈った。而して主が青年の眼を開き給うや、見よ山にはエリシャの周囲に火の馬と火の車が盈ちていた〈2列王紀6・17〉。斯く我らも主の恩寵溢れる聖名により信じて集まり、ただ心の幔幕だに掲げられなば、我らはさらに驚くべき光景に接すべきである。我らはすなわちイエスに接し得るのである。)

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