また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。・・・イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。(マルコ15・40〜41)
四福音書がことごとく筆を揃えて『女たち』の十字架を見ていたことを書いている。何のためであろう。世の中には女の出られぬ幕がある。凶暴の手がイエスを十字架につけているときに女らには手が出せない。また手を出すべきときでもない。遠くから眺めるのが関の山である。
けれどもその眺めている眼には涙が宿っていなかったであろうか。彼らの心は十字架の上まで行っていなかったであろうか。彼らのながめていたことがイエスにどう響いたであろうか。沈黙が言語や行動より深い意味のあることがある。
福音書記者は四人とも、この沈黙を読まずにはおられなかったであろう。但しヨハネは補足の意味で『イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤ』が十字架のそばに立っていた書いている。
祈祷
あるいは十字架のそばに立ちて、あるいははるかに立ちて十字架を見上げし女らの心には百人隊長のように『実に神の子なり』との信仰が動いたでありましょう。どうか私どもも十字架のもとに立ち、心と涙を御許に注ぐ静思の時を味わせてください。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著355頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌307 https://www.youtube.com/watch?v=95C7Eqn2xVM
クレッツマンもその『聖書の黙想』で次のように記している。
福音書記者は一群の女たちの信仰の深さについて、彼らの永遠の名誉のために、記している。この女たちは主の屈辱と死の際に、遠くに立っていることを余儀なくされてはいても、主を見捨てることはなかった。彼女たちが過ぎ去った幸福な日々を主に従い、主に仕えたのは、信仰による行いだった。その信仰はあの大いなる困難の時が訪れた時、弟子たちの信仰よりも、はるかに輝かしい光を放ったのである。
目立たない所に控えている者をさげすんだり、その信仰を軽んじたりしてはならない。試みの時にはあとの者が先になるだろう。)
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