ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエスは別の姿でご自分を現わされた。そこでこのふたりも、残りの人たちのところへ行ってこれを知らせたが、彼らはふたりの話も信じなかった。(マルコ16・11〜13)
最後まで弟子らの心を頑固にしたものは『不信仰』であった。イエスはその御伝道の当初から御復活後に到るまで不信仰と戦い給わねばならなかった。弟子らとともに在した時に、あれほどに幾度も幾度も不信仰をお責めになったのに、彼らはまだ不信仰に停滞している。しかし神の御摂理の手は行き届く。
彼らは最初あれほどに御復活を信じなかったのに、ついに御復活の証人となり宣伝者となったことは私どもにとっては御復活の事実を確実にするものであって誠にありがたい。とにかく主の最も嫌い給うことは不信仰であって、主はいつもこの点に私どもの注意を喚び給うことを忘れてはいけない。
祈祷
主よ、私たちの不信仰を憐んでください。私たちは度々無信仰にさえ陥らんとします。願わくは、あなたの霊を遣わして、常に私たちの衷に住ませ、あなたが私たちとともに在すことを鮮やかに認めさせて下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著363頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。
クレッツマンの『聖書の黙想』より
しかし、近づいて見ると、石はすでに、わきへころがしてあった。マグダラのマリヤはこのことを弟子たちに知らせに、すぐに走って行った。後に残った女たちは、恐れおののきながら、墓へ近寄って行ったが、長い真っ白な衣につつまれたみ使いの姿を見て、ただ驚くばかりだった。このみ使いはほとんど信じられない言葉を伝えたのである。
「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。ですから行ってお弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」
このように全く予期しない言葉を聞いたとしたら、私たちは何をしただろうか。おそらくこの女たちがしたと同じことだったに違いない。彼女らは考えが混乱してしまっていたので、この言葉の意味をよく理解することはできなかったが、急げるだけ急いで、この話を伝えようとした。が、神秘にうたれて、ただ茫然となるばかりで、「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
イエスが、泣いているマグダラのマリヤの所へ、どんな風にして姿を現わされたかーーこの女からイエスは七つの悪霊を追い出されたことがあるので、彼女は感謝と私の強い絆によってイエスに結ばれていたーーそして、彼女は主のお言葉通りの復活を弟子たちに伝える役を、どんな風に果たしたものかーー弟子たちは今なお、泣き悲しんでいて、彼女の報告をまだ信ずることができなかったのに・・・。
この点については、聖ヨハネがもっと詳細にわたって記録しているが、この福音書の著者〈マルコ〉はそれを簡単にほのめかすにとどめている。この記者はさらに、イエスがその日の午後、エマオへ行く途中の二人の弟子の前に姿を現わされ、晩餐の席で御自身を明らかにされたあの美しい物語に触れている。この出来事を記しても、主が本当に死からよみがえったのを他人に信じさせることは、記者にとってむずかしいことだった。この点は私たちが十分考慮すべきところである。弟子たちには主がよみがえられたと言うことを、少しも信じようとする気がなかったのだ。従って、他の人々を欺すために、この物語を創作したのではなかったことは確かである。
弟子たちが戸を閉して集まっていた時、主が、最初の復活の夜、十人の弟子のもとに、次はあくる日曜日、十一人の弟子のもとにみ姿を現わされたということは、きわめて意味深いことだった。主が弟子たちや、弟子たちと共にある者に、「鍵の権威」ーー罪を主の名のもとに抑え止める力ーーをお授けになったのはこの時である。これは今なお教会の力であり、務めとなっている。
さて、最後に、物語は、主がかねてから弟子たちに約束されていたガリラヤでの再開の場面に至る。彼らが世界中に別れ入って、あらゆる人々に福音の御言葉を宣べ伝えるよう、主から、決定的な大委任状を託されたのはこの時であった。信じない者は滅びなければならないが、悔い改めて信ずる者は、単に福音の言葉が伝えられるだけで、救いをもたらされるのだ。救いの徴として、主はさらに、あらゆる民に、老いも若きも、差別なく、あらゆる人々に、彼らが贖いに関する福音の御言葉を受け容れる限り、洗礼を授けるよう、弟子たちに命じられた。その使者たちは悪魔を支配する力や、新しい言葉を語る賜物、危険に抗する力、病気を癒す奇跡の力などを授けられて、神の信任状を整えていただいた。すべてこのような神のわざを通して、福音の御言葉は全世界に打ち建てられたのである。従って、何人といえども、これ以上の証を求めなければならない理由は全くない訳であり、まさに、その通り、私たちは、福音の御言葉がもたらす力と祝福に心を閉ざす者ではない。
さて、私たちの主があらわにこの地上を去られて、天国に入られる時は訪れた。今一度、彼はオリブ山に弟子たちを集めて、祝福された後、天国へ迎え入れられ、座すべき位ーー主の人間としてのみ姿にも相応しい、神の右ーーに座し、教会の頭として、すべてを支配し、すべてをみたし、永遠に御自身のみもとに置くために、その子らを連れもどしに来られるあの輝かしい日に備えて、私たちの席を整えてくださることになった。
弟子たちは喜びと決意とをもって、主の求めを果たすために旅立って行く。そして、彼らが福音の御言葉を地の果てまで伝えた時、主の御約束はその御言葉通り、十分に果たされていったのである。私たちがこの務めに従って行くとは、なんと素晴らしいことではないだろうか!
祈り
主に冠を捧げよ
天上にて、神の右に座すかたに
王の冠を捧げよ
驚くべき「愛」なる御名を
授けられしおかたに
ありとあらゆる冠を捧げよ
彼の前に、 地上の王座が倒れる時
汝、王たちよ、彼に冠を捧げよ
彼こそは、 とこしえまでも
すべての王の王なればなり
アーメン)
0 件のコメント:
コメントを投稿