彼らがイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来た。・・・さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。(マルコ14・53、55)
『大祭司』とは多分蛇の如く狡猾なアンナスであろう。『連れて行く』の文字は罪人を獄に投ずべく『引っ立てて行く』という有様を如実に示している。随分手荒く取り扱ったのであろう。これは木曜日の深夜であったにかかわらず、『祭司長、長老、律法学者たち』すなわち『議会』の議員らは皆集まって来たのである。
深夜に議会を開くのは合法でない。彼らが如何に速やかにイエスを処分せんと欲したかがわかる。民衆を憚ったのであろう。私怨が人を駆って公法を濫用せしめたのである。これは恐ろしい曲事であるが、私たちにも、私怨に正義の仮面を被らせたい心が無いだろうか。嫌いな人は悪人に見えるのは彼らと共通なものを持っている証拠ではあるまいか。
祈祷
主イエス様、私たちはあなたを罪人扱いにせる祭司大祭司らを憎しみかつ卑しみます。しかし自ら顧みて、彼らの持っているものが私の衷ににあることを否定できないことを悲しみます。主よ、願わくは私怨を忘れて、仇である人の善を見出す心を私たちにお与え下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著339頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。
クレッツマンは、マルコ14:53〜72をまとめて、35 主を傷つけたのは何か と題して以下のことを記している。まずは総論の部分である。『聖書の黙想』229頁より引用
キリストの偉大な受難についての瞑想に入るに際して、わたしたちは次のことを心に銘記しておこうではないか。
神の民、神によって選ばれた民の手で、神の汚れない仔羊の上にもたらされた苦難は、偉大なものであった。筆舌に尽くせない程に、偉大なものであった、しかし、キリストの愛する友の不信と、神の子らであるべき者ーーこの者のためにこそ、彼、神の罪なき独り子は、恥と悲しみと死を忍ばなければならなかったのであるがーーの罪の故に、キリストが心に受けたかなしみと痛手は更に更に深いものであったのである。)
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