さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。(マルコ16・1〜2)
ヨハネ伝には『朝早くまだ暗いうちに』とある(20章1節)。ほのぼのと夜の明けがたころと思われる。『まだ暗いうちに』女だけで墓場に往くのは、しかも死刑に処せられた人の墓場に往くのは、淋しいが、主の愛を憶い、主を愛するがためにそんなことは忘れている。
一昨日夕ニコデモがヨセフとともに香料で御死体を包んだけれども、男の不器用な手、しかも貴族でそのようなことに慣れていないので不充分であった。彼らは粉末の香料で包んだけれども、香油を塗っていない。
それを目撃して帰った女たちは『戻って来て、香料と香油を』準備しておいた(ルカ23・56)。今それを携えてお墓へと急いだのである。自分たちの手で愛しまつる主のおからだに最後のご奉仕をしたかったのであろう。
祈祷
主イエス様、願わくは私にも豊なる愛の香料をもってあなたのおからだに塗る心をお与えください。あなたのためには微細なることをも見落とさず、些細なることにも注意せざるを得ざる細かき愛を与えて奉仕できるようにして下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著357頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。クリスマス讃美歌https://www.youtube.com/watch?v=oKEcUXIHu34 )
クレッツマンの『聖書の黙想』より
弟子たちが男も女も、深い落胆の中に沈みこんで、戸を閉ざしていた時、あの安息日の一日がどんなに緩慢な時を運んで行ったことかは想像に難くない。
突然の打撃はあまり激しいものだったので、ほとんど耐え難いほどだった。彼らの主であり、救い主であるおかたが死んでしまったのだ。女たちには、主のために何かしようと計画できただけでも、わずかながらの慰めとなったに違いない。彼らは主の体に油を塗りに行くことになった。そこで土曜日の夕方になると、さっそく出かけて行って、必要な香料を買い求めた。あくる日曜日、女たちの一行は朝まだき道を辿って、太陽がオリブ山の上に昇る頃には、墓の近くに到着した。彼女らは男たちが墓の入り口の前にころがして行った重い石のことを案じていた。女のか弱い手で、一体どうしてその石を入り口から取り除くことなど望めよう。
David Smithの『The Days』はその長い叙述をいよいよ最終章 第50章 復活 と題して 1 弟子の失望 2 空の墓 3 マリヤに現れる 4 エマオに現れる 5 途上にて 6室内にて 7 エルサレムにて シモンペテロに現れる 8 使徒並びに他の弟子に現れる 9 十一人に顕現 10 ガリラヤ湖畔の顕現 11 ペテロとの問答 12 その目的 13 ペテロの十字架の預言 14 ヨハネは不死なりとの妄想 15 ペテロとヨハネとに密かに顕現 16 以上の他の顕現 エルサレムにて最後の顕現 『エルサレムにおいて始む』 17 決別 18 主の肉体真に復活せり 19 復活せる肉体 (1)変貌 (2)普通の物的法則に従わず (3)肉眼には見る能わず 20 復活の主の不易の現在 と、以上20項目に分けて詳述している。この際、繁を厭わず、以下分載して行く。
1 弟子の失望
イエスの死はその弟子のためには再び立つことのできない最大の打撃であった。彼らはイエスをメシヤと認識した。而して繰り返し力を込めて訂正される聖語を軽侮し、彼らのユダヤ的理想に頑迷に執着し、その父祖ダビデの王座を要求し、自由の民となり、新たな時代となったイスラエル国民をエルサレムのおいて統治せらるべき外形の壮大をもって、世に出現せられることと深くも信じて期待したのであった。しかるに十字架は彼らの夢を粉砕した。これ実に深刻な略奪なるのみならず、残酷な弁妄の試練であった。彼らは恥辱を被るほかはなかった。彼らは独り同胞の目に責むべきものと映ずるのみならず、自らの目にも愚かこの上なき妄想に魅せられていたものと見なされた。彼らにとっては昔の我が家に這い帰って、その知人の愚弄の只中に、天国を得んとしてかつて捨て去った職業を重ねて営むの他にとるべき道はなかった。彼らはその主の縛につかれるや恐怖に打たれて逃げ去った。而して彼らの心にまず起こった感覚はガリラヤに帰って凶悪な有司たちより距った地に逃れようと言うにあったに相違はない。しかるに彼らはにわかにその計画を変えた。彼らは自らその臆病を悔い、エルサレムの近郊に帰って来て、隠れ家を求めてそこに身を潜めたのであった。主がヨセフの園の中に安息に入られた時、安息日の前夜は既に尽きんとしていた。而して翌日は過越の祝いの安息日として最も重大の日であったけれども彼らは静かに隠れてその儀式にもあずからなかった。
2 空の墓
死人を葬って三日の間、ユダヤ人は必ず、偶然にその霊魂がその土の旧家(肉体)に帰り来ることもやと墓地を訪れるのが常である。しかるに十一人中一人としてイエスの墓を訪れるものもなかった。訪れる勇気がなかったのである。勝ち誇った有司たちの憤慨の前にその身を晒すは狂気の沙汰と思われたのであろう。しかも愛に勝ち得る恐れは、人の心に起こることができない。マグダラのマリヤは律法に従って安息日が終わるまで静かに家に垂れこめていたが、夜の明けるのを待ちかねて、恐らくは薄明かりを便りに他の婦人たちとともにオリーブ山の坂を登って園のうちに訪ねて来た。しかるに驚くべし、洞窟の入り口を封じた重い石の戸が動かされているのが目に留まった。何人か外部からこれを開いて屍体を運び出して他に移したに相違ないものと彼らは判断した。ペテロとヨハネの隠れ家を知っているのでマリヤはそこに駆けつけて、その目撃した所と憶測とを彼らに語った。彼らもまた驚きながら墓地に駆けて来たがヨハネは歳が若いのと敏捷なのとで相手を追い抜いて第一に辿り着いた。開いた入り口から歩み込んで彼は左右に四キュビット掘削された床に立った。主の屍体はその奥の壁龕の裡に安置せられたのであった。彼は主の屍体のあるべきはずの所を覗き込んだが屍を巻いた布の他に何も見えなかった。彼は穢れるのを恐れたか、あるいは屍のなくなったことが充分に見えたためか、下にも降りず、また近づいて調べもしなかった。彼が斯く佇んで眺めている所にペテロがその後ろから墓の内に飛び込んだ。而してその過激の天性そのままに彼は墓の中に飛び降りてこれを調査した。実際に墓は空虚であったが、その様子はまた実に驚異すべきものであった。もし屍体が盗まれたものとすれば掠奪したものは布をも共に奪い行くべきはずである。しかるに突然屍は蒸発し尽くしたように布は平たく置かれ、その顔を覆うて頭を包んだ布〈ヨハネ11・44参照〉は折り目も正しい枕の布と離れて置かれたのであった。主の頭の動かされた時にその折り目は崩れなかったものである。その友人の驚いた声に促されてヨハネも降りて来てその様子を調べた。驚くべき事実が彼らの上に開けて来た。イエスは復活せられた。これ決して驚くに足らない。空虚の墓や、脱却した葬衣は実は調査の必要はなかった。しかもヨハネが慚愧の調子をもって告白する如く『彼らはイエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである』〈ヨハネ20・9〉と記している。)
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