ギュスターヴ・ドレ 聖書画集から |
墓の中にはいったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。・・・」(マルコ16・5〜6)
クリスマスの意義は復活において完成される。復活ありてこそクリスマスも尊い。私たちはよみがえりのキリストを馬槽の中に見てその救いを讃美し感謝する者である。『真っ白な長い衣をまとった青年』の形において天使が現われたのも御復活の告知者として相応しいではないか。
よみがえった人の姿が老人であるとは考えられない。私たちの霊界は永遠の若者によって住居せられ、私たちもまたよみがえりの後は永遠の若者となるであろう。イエスは三十三歳の屈強の若者として十字架につき同じ御姿でよみがえり給うたのも意味深く感ぜられる。イエスは嬰児としてこの世に生まれ、若者としてよみがえり給うた。
祈祷
永遠の生命永遠の若さの持ち主にして与え主なるイエス様。あなたのよみがえりを讃美し、同じ賜物を私たちに与え給うことを感謝申し上げます。今日このクリスマスの日に当たりて嬰児イエスを讃美し、若きいのちの主を讃美し申し上げます。アーメン
永遠の生命永遠の若さの持ち主にして与え主なるイエス様。あなたのよみがえりを讃美し、同じ賜物を私たちに与え給うことを感謝申し上げます。今日このクリスマスの日に当たりて嬰児イエスを讃美し、若きいのちの主を讃美し申し上げます。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著359頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。
以下は、David Smithの『The Days』の昨日に接続する続編である。
3 マリヤに現れる
二人の弟子は墓を去って家に帰ったが、マリヤは泣きながら墓の入り口に佇んだ。彼女は間もなく内に入って墓穴を差し覗くや、彼女の驚駭は極点に達した。すなわち天使が、一人は屍の在った頭の所に、一人はその足の所に佇んで『なぜ泣いているのですか』と尋ねた。彼女は嗚咽しながら『だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです』と答えたが、天使の様子かあるいは手振りで、何人か彼女の後に入って来たものと思われたのであろうか、彼女は振り返ってそこに人あるを認めた。これぞすなわちイエスであった。しかし彼女はこれを認めることができなかった。『なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか』と問われたが、彼女はここにみだりに侵入したのを咎めに来た園丁であろうと想像すると共に、その園が墓に来るために蹂躙せられるのを憚って主の屍を他に移したものはこの人であろうとの思想が不意に起こった。『あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言って下さい。そうすれば私が引き取ります』と彼女は叫んだ。『マリヤ』とイエスは宣うた。この一語で充分であった。『ラボニ!』と彼女は叫んで身を巡らした。聖ベルナドは『愛は敬意を欠く』と言っている。彼女は聖足に飛びついて、これを擁しつつ接吻しようとした。彼女はイエスがもとの態に帰られて、直ちに従前のごとき師弟の情誼を再び結ばれるものと考えた。イエスはやさしくこれを遮って『わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る」と告げなさい』〈ヨハネ7・29参照〉と宣った。
4 エマオに現れる
その午後二人の弟子がエルサレムより7、8マイルを距つるエマオに向かって旅立ちした。その一人の名はクレオパと言うのであって、他の一人の名は記録に残らない。二人とも使徒ではなかった。しかし主に随伴した一組に属するもので、万事すでに休するものとして深き失望に陥りつつエルサレムから帰り行く途上であった。彼らはその朝起こった不思議な事件を聞知して、ペテロとヨハネとが空虚な墓地を目撃したこと、婦人中のある人に天使が現れて、イエスの復活を示したことを聞いていたけれども、マリヤにイエスの現れたことは知らなかったので、ついにエルサレムを出発したのであろう。
5 途上にて
これまことに当惑すべき問題であって、彼らは征く往くその意味を論じ合っていたのであった。彼らの性質には相違があって、クレオパはトマスの如く沮喪し易い傾向があったのに、一方の相手は多血質で、両人の間にいくらか論戦が熟して来たものであろう。その半ばに一人の旅客が彼らの連れに加わった。これはイエスであったけれども彼らはこれを悟らなかった。『ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった』。イエスは彼らに言葉をかけて『歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか』と仰せられた。彼らは論争を聞かれたのを恥じて、頸を垂れて佇んだ。陰気なクレオパは、不意の妨害を快からず思うが如く、短気に答えて『エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか』と詰め寄った。旅人はさらに『どんなことですか』と問うた。彼らは異口同音に。『ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で
、行ないにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです』と言い、クレオパは『しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました』と嘆息した。『そうです』と他の一人はなお希望を失わざるを思いつつ『その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです』と言った。しかも疑り深いクレオパは『しかしイエスさまは見当たらなかった』と言葉を添えた。『ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか』とイエスは叫んで、その苦難によりて始めて完成されるべき所以を示しつつモーセより預言者に及ぶ聖書中の句を一々引照せられた。
6 室内にて
両人は聞きながら心の熟するのを覚えた。ついにエマオに着して、イエスは行き過ぎる様子をせられた。彼らはこの不思議な旅人と別れるのを厭いさらに話を聞かんとして『いっしょにお泊りください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから』と引き留めた。聖ベルナルドは『おそらく彼らは斯く祈願したるものなるべし、「離れ給うなかれ、汝美しきものよ、ああ我らを離れ給うなかれ、なおナザレのイエスについて汝のことばを我らの耳に聞かしめよ。我ら願う、復活の歓喜を我らに告げ、今夕べに及び、日は暮れんとするが故に我らとともに宿れ、我らよもすがら語り明かさん、我らの耳には美しきイエスにつきて聞くをこの日中のみをもって満足せざればなり」と言えるものと思われる』と言った。
イエスは彼らの懇願を許して共に宿られたが、やがて食卓は運ばれた。イエスは賓客であったけれども、主人役を務めて食に就く前に感謝を献げられた。これはユダヤの敬虔な家庭に行われる習慣であったが、イエスはそれを特別な態度で守られた。『イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された』。斯くの如き方法はすでに二度行われた所であって、すなわち野において五千人を養われる時と、楼上の客室において晩餐の礼典を定められた時であった。クレオパ及びその連れは晩餐には列しなかったけれども奇蹟は目撃したところであった〈マタイ14・39、マルコ6・41、ルカ9・16、ヨハネ6・11、マタイ6・26、マルコ14・22、ルカ22・19〉。しかしこれを特別に回想したわけではあるまい。ただイエスの如き祈祷を献げたものは未だかつてなかったところで、祈祷によってそのイエスなることが明らかとなったものである。『それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった』、彼らが何事をか語らんとするとき『するとイエスは、彼らには見えなくなった』。彼らは今始めて万事を悟った。而して『道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか』と叫んだ。
7 エルサレムにて
即刻彼らはエルサレムに帰って、而して彼らが聖都に着するや、その出発後に様々の事件の起こったことを知った。使徒たちはもはや意気消沈し失望して彼方此方に散乱するようなことはなかった。彼らの団結を強固にして市内の宿所に集合し、後年におけるが如く生気溌剌勇気凛然たる団体を組織した。斯くの如く猜疑に富む有司たちの勢力範囲内に会合するは彼らのために甚だ危険であったので、その安全を計らんがため彼らは堅く門戸を閉ざしていた。そこには主の就縛の大打撃に最も遠くへ逃げ去って未だ帰って来なかったらしいトマスの他はすべての使徒が集まっていた。クレオパとその連れとは集会の場所を発見して、その内に加わるを許されたが、彼らがまだその見聞したことを言い出さざる前に、一同は異口同音に熱心に『ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた』〈ルカ24・34〉との挨拶を彼らに浴びせた。
〈シモン・ペテロに現る〉
シモンに現れ給うたことは聖パウロも伝えて〈1コリント15・5〉いるけれど、その記事はどこにも見えないのである。おそらくペテロが卑劣にも、知らずと拒んだその慕い奉る主との会見は他に漏らすに忍びざるほど神聖なもので、彼は自分の心に深く秘めてしまったためであろう。
8 使徒並びに他の弟子に現る
彼らは一同の語るの終わるを待って、新たな驚嘆を加えつつ、その一部始終を物語った。不意に警告の声が一同の間に起こった。イエスは現れ給うた。その戸を叩かれるのを聞いたものはなかった。また戸を開いて迎えたものもなく、入られる聖姿を悟ったものもなかった。しかもイエスはここに佇まれた。平生の如く『平安があなたがたにあるように』〈ヨハネ20・19〉との挨拶を与えて一同の中央に進まれた。彼らは驚駭しまた恐怖して聖語をかけられるまでは、イエスなりや否やを疑い、霊を見たのであろうと考えた。イエスはその傷つけられた両手と脇腹とを彼らに示された。彼らは残酷な苦難の跡を見るに及んで、疑いは氷解し、歓喜に雀躍した。その歓喜に溢れたとき、楼上の客室において約束された『わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そしてその喜びをあなたがたから奪い去る者はありません』〈ヨハネ16・22〉の聖語を思い起こしたであろうか。斯くて新たに彼らを祝し、他の聖語を授けられた。曰く『父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします』と。而してユダヤ人に適合する象徴的な所作をもって、彼らに息を吹き掛けて『聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります』と宣うた。これ彼らに使徒として嘱託を新たに付せられたものであって、イエスの目的と、彼らの職責とは間一髪も容るべからざるものなるを確実にせんと欲せられたのである〈マタイ18・18〉)
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