さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。(マルコ15・33〜34)
これは日食であり得ない。時は過越祭の満月である。私はこの大自然界も天父の心の痛みに共鳴し、贖罪の御苦痛に同感し、世の罪のために暗くなったのだと信ずる。人間の罪は天の父の心を暗くする、天父の心の暗さが無遠慮に現わさるれば天地は暗くなる、ということを如実に示されたのである。今キリストにおいて人間の罪と天父の愛とが正面衝突をしている刹那である。
人の罪はその鋭刃を振るって天父の心臓を刺し、父の愛は刺し貫かれることによって罪に勝利しつつあるのである。これが犠牲であり、贖罪である。これが燔祭の羔(こひつじ)の真意義である。キリストは全然父の愛と同一であり、また人間と同一化してその罪をことごとく己が一身に引き受け給うた。この愛とこの罪とがキリストの心臓の中で戦っている。この戦いが三時間尖端的に続いた。第三時すなわち神殿の中では燔祭の羔が献げられるのと同じ時に人間と同一化し人間の罪を己が罪となし給うたイエスは神に見棄てられて、燔祭の羔となられた。
而して燔祭の羔及びこれを信ずる者は神の愛の中に再び見出されるのである。そこで主は『大声をあげて、息を引き取られた』(37節)ヨハネ伝(19・30)によれば『完了した』であり、ルカ伝(23・46)によれば『父よ。わが霊を御手にゆだねます』である。贖罪の大業『完了し』安らかに『御手にゆだね』られたのである。
祈祷
私たちのために燔祭の羔となられた主イエス様、願わくは己が罪の深さをさとらせ、またあなたの愛の深さをさとらせ、懺悔と感謝の深みに導き入れて下さいませ。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著352頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌127https://www.youtube.com/watch?v=nIlqKNVkeTw
引き続いて、以下は、David Smithの『The Days of His Flesh』の筆致に見る十字架刑の傍証の続編である。百年前の日高善一氏の邦訳は漢語が効果的に用いられているが、今の私たちには読みにくいところがあるが、忍耐して読み通していただく価値はあると思う。〈邦訳963頁、原書500頁〉
13 正午の黒暗
今や時は真昼となった。而してイエスが三時間十字架上に掛かられて既に三時間を経た。前夜の例になき寒さ〈ヨハネ18・18〉は天候の変化を予報したのであったが、ついに暴風が襲って来た。而して時は正午であったけれども、地上一帯全く暗黒となった。これ熱風の砂漠より吹き起こるとき、シリヤ地方においては度々見る現象であって、大概は静かに過ぎ去って行くけれども、時として地震がこれに伴って生ずるときもあった。一旅行者は千八百三十七年一月1日にべイルートにおいて地震の予報のあった光景を叙して、「安息日の静なる夕べなりき。青白き靉靆〈あいたい〉たる朦気は太陽を覆い、その送られ行く日の名残に悲しき調べを与え、圧伏する如き陰鬱の気は沈みて千羅万象を包めり」と言っている。この物凄い正午に地を覆うた暗黒は斯くの如きものであった。この暑気の酷烈な時刻には不思議であったけれども傍観者たちは一向にこれに気づかなかった。彼らはこれをもって全く自然の現象で、たちまち消失するものと考えたことであろう。もちろんこれは自然の現象であったけれども、その間に神の御手の加わったものであった。天地の受造物がその主を慟哭する如く、また太陽は不敬虔な事実を見るを厭うてその面を隠した如くに思われた。後年に及んで人々は天地に現れた恐るべき意味を認めて、多くの不思議な事実を追加した。例えば、イエスが死なれたときに、世界に遍く緑の葉が萎んだと言うのである。福音記者はただその起こったことを単純に簡潔に記したのは、彼らが慎重にまた厳格であった有力な証拠で、これを奇蹟と称せず、また判断を要する意義に解すべきものとも言ってはいないのである。
14 放棄〈the dereliction〉
暗黒は三時間以上に亘った。しかるのち十字架上から不意に声が聞こえた。これ『わが神、わが神、どうしてわたしをわたしをお見捨てになったのですか』〈詩篇22・1〉との聖語であった。これぞ古の師父が『キリストの苦難はことごとくこのうちに含まる』と言った驚くべき詩篇の一句であった。この物凄き時季に贖い主の霊魂に起こった感覚と、この極端な苦悶の叫びが、その聖唇から迸った所以は盲目にして鈍感な人には悟り得べくもないのである。福音記者はその幔幕を取り除こうとは企てなかった。而して我らもまた好奇心をもってこれを調査するよりもむしろ恐懼して頭を垂れるにしからざるを示すものである。もしイエスにして『その身を犠牲として罪を除かれる』神の永遠の独り子ならしめば、ここに我らが窺い知るべからざる神秘に到着したと告白しても、卑劣な遁辞ではあるまい。むしろ我ら人間としての限界を有する至当の理由と認めるべきであろう。しかももしその偉大なる事実を看取して、これに関し偏狭な思想に囚われる恐れなしとせば、不敬虔に陥るのを慎みつつ、この秘義にやや解釈を試みても差し支えはあるまい。
15 二つの誤解
先づ第一に棄てざるベからざる二つの意見がある。一つは我らの恩寵深き主が畢竟弱き人性を有せられたその失望の声に過ぎないと言う説である。主の霊魂は、その肉体と精神とのはなはだしい苦悶のために朦朧となった。而してその身に転じ来る所をことごとく観察すれば、神はイエスを棄て給い、全くその敵である悪魔の手に任せられたかのように思し召され、今日まで勝利と感ぜられたその信仰をことごとく投げ捨てられたと言うのである。斯くの如き説明は決して完全なりとは言うことはできない。その耐え難き酷烈な苦痛さえも剛毅に忍ばれつつ、今や苦しみすら終わりに近からんとするとき、イエスがこれに辟易せられたと信ずることを得ようか。事実これはイエスの霊魂が斯くも恐ろしく戦慄し、その聖唇から絶望の聖音の迸った所以に、共鳴を有し、またこれを充分に悟り得た人の語ではない。これすなわち神の来臨せられたるものであった。
さらにこれと相並んで誤りとすべき反対な意見は、イエスはこの物凄き時期に、罪人の地位から神の怒りを忍ばれたと言うのであって、神はイエスが己のために与えられた事業を究極の犠牲の行為によりて完成せられ、ついに死に至るまでに服従せられたのに十字架上に掛けられたその愛する子に対して憤られる道理はなかったと称するのである。しかるにこれに反してイエスは神に対して自ら親しまれず、また神が喜ばれる愛子であることを表されないのであったと言う。
16 神の来臨として放棄〈the dereliction a visitation of God〉
しかもなおイエスの絶望は神の来臨のためであって、イエスは罪を負うものとしてこれを苦しまれたのである。その伝道の当初にバプテスマのヨハネが『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』とその使命を宣言したのを喜んで受けられた。而してその伝道中世の罪の重荷は常にイエスの負われた所であったが、十字架上においては、父の聖手より受けられる苦き盃の最後の滴を飲み尽くす、その恐ろしき混ぜ物に極端の苦痛を感ぜられたのであろう。この時刻の近づいたときイエスの霊魂には黒雲が集って来たのであった。『死の綱はこれを縛し、墓の苦痛はこれを捕えて、イエスは苦痛と悲愁に陥りたまえり』。而して今や恐るべき時刻が到来したのであった。
17 父の支仕の控除〈a withholding of the Father's ministration 〉
イエスが我らを贖わんがため、我らと悲惨の状を共にし、自ら親しくこれに当たられるはイエスに必要なりしとの使徒の教理はこの不明な秘義に一道の光明を与えるものである。『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました』〈ガラテヤ3・13〉『主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです』〈ヘブル2・18〉とイエスにしてもし『暗黒の谷に』降りてなお神の来臨により歓喜され、その祝福の聖手に支えられ給えりとせば、人類の最も物凄き経験を免れて、その同情も畢竟は我らの最も必要なところに欠如されることとなるのである。故にすべての点において我らと同情同感となられ、我らの身上に転じ来る災害をことごとく知らんがために、イエスはこの究極の危機に神より捨てられ給うたのであった。これ神が我らの負わざるべからざる怒りをイエスの無罪の頭に濯ぎ、イエスに対して憤られたのではない。むしろ十字架上に自ら好んで犠牲としてかかられたその時、イエスが神を喜び迎えることができなかったのである。これ父の現存の意識を失われるには神の不満は必要でないのである。その在世の日にイエスは終始一貫父に依り頼まれた。イエスの知恵はイエス自らの知恵ではなく、父の賜物であって、父の聖意を知られた所以は、父が啓示されたからであった。その事業は父の協同によって成就されたのである。〈ヨハネ7・16、5・20、30、6・37〉『このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者を癒されました』〈使徒10・38〉。もし父にしてその援助をしばらくも中止され、イエスを孤独に放任されば、イエスは他の人の子と等しく弱く黒闇に陥れられるべきであった。これによって、イエスが神より捨てられ給うたとき、如何なる状態にあられたかを朦朧と考察し得るのである。我らの最大の災害のうちにイエスが我らと合一し得られんがために、父はその愛子の霊魂に交情温かな来臨を中止されたのであった。十一人の使徒がイエスを捨てて逃げ去った時にも、イエスは孤独にあらず、父のともに在すによって慰めを受け給うた〈ヨハネ16・32〉。しかるに今はその援助を奪われ給うたのであった。『わが神、わが神、。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』。
18 『我れ渇く』
イエスは詩篇の作者が記したそのままにヘブル語をもって『エリ、エリ、ラマ、サバクタニ』と仰せられた。その聖語はユダヤ人には悟られたけれども、兵卒の耳には不思議に聞こえた。彼らはエリという音を聞いて、エリヤに仰せられたのだと考えた。彼らは古の預言者のことは少しも知らなかった。しかしエリヤとはユダヤ人の間には普通の名であったので、彼らはイエスがその知人を呼んでいると想像した。熱風の暑さに体温の高まったイエスは一層の苦痛を加えられ、彼らがその聖語の意味を論じ合う間に『わたしは渇く』と呻吟された。彼らの一人はこれを憐んでポスカの盃の所に駆け寄って、海綿をその中に浸し、葦の端に貫して、イエスの乾燥した唇に押し着けた。その同僚は『私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう』と叫んだけれども、兵卒はその慈悲の奉仕をやめなかった。イエスはまた喜んでこれを受けられた。
19 イエスの死
終局は近づいた。イエスは雀躍してこれを祝された。イエスが人間の苦悶の光景に眼を閉じられ、その霊魂を囲む暗黒が溶け去ったとき、始めて神の聖顔に接せられたのであった。ここにも詩篇の語を用いられたが、しかし従来いずれの作者も未だかつて用いたことのない親しい名を適用しつつ『父よ』と叫び『我が霊を御手にゆだねます』と宣うた。福音記者は『イエスは大声をあげて』〈詩篇31・5〉と言っている。これ勝利の凱歌であった。その戦闘は完成された。イエスは『違法を完成せしめ、罪悪に終わりを告げしめ不義に対する和解をなし、永遠の義に導き』給うたのである。すなわち愛の犠牲を全うして、その心臓の血をもって神と人との新たな契約に印を押された。その在世の日の間『人の子は枕する所』〈マタイ8・20、ルカ9・58〉を有せられなかったが、ついに事業が終わってその休憩に入られた。『イエスは・・・「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった』。〈ヨハネ19・30〉
さて、長いDavid Smithの叙述のあとに、クレッツマンの『聖書の黙想』の前々回『十字架(2)』の続きを記す。
今やここで、神自らが語りたもう。正午から午後の最中に至るまでのあの暗黒は、神からのものであった。あのように暗くなったことには、何も自然現象上の原因は見当たらない。例えば日蝕のようなものは、過越の祭りの時のような、満月の際には絶対に起こらないものなのだからだ。いや、この闇は自然現象を示したのではない。人類の歴史における最も暗黒の時を記しているのだ。この時、キリストにおいて、すべての人が死んだのである。最初の人間の罪と、その全子孫に及ぶ罪は、聖なる神の正義から、復讐され続けて来たが、ついに、彼らの身代わりであり、救い主である神の愛するひとり子の上に復讐が及んだのである。私たちの罪に対して、神はなんと恐るべき代価を支払われたことだろう!彼のひとり子は叫ばなければならなかった。「わが神、わが神、。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
このように地獄の苦痛と恐怖を味わわれながらも、イエスは神の子としての愛をもち続け、心からの従順さをもって死に臨み、不従順の贖いをされたのである。すべての人間を永遠の絶望の淵に投げ込むことになったであろうあの不従順に対する贖いをされたのである。
イエスがエリヤに助けを求めているのではないかと考えた周囲の者どもの愚かしい嘲りは、この場面から栄光と祝福の意味を奪うものではない。私たちに対する贖いの技は、イエスがその魂を父の手にゆだねられ、首を垂れて、魂を渡された時に、全く完了した。)
0 件のコメント:
コメントを投稿