また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。(マルコ14・40)
『ひどく眠けがさす』カタバルヲーの字は聖書にここの他には一回も用いられてない。『非常に重くなる』という意味の字で、彼らは全く疲れ果てていたのである。御受難週の毎日は実に不眠不休であったのでは無かろうか。
水曜日の記事が無いので、あるいはマルタの家で御休息になったのであろうと推測する人もあるけれども、イエスは一日でもぼんやり休息されるお方ではないのと、木曜日の夜にこのようにまで弟子らが疲れていたのを見ると、公の仕事をなされなかった水曜日にも弟子らに最後の教訓を与えるために夜もろくに休まずに語り合ったのではなかろうか。
とにかく11人が11人ともこのようにまで、疲れ果てていたのには相当の理由がなくてはならぬ。徹夜の祈祷とか、断食または減食の祈祷とか、疲れ果てるまでの奉仕とか、何か肉体を苦しめるまでに精進するのは今日の私たちには必要がないだろうか。
祈祷
主よ、あなたは血の出る御一生を私どもに与えて下さいました。私どもにも血の )出るほどの祈りと奉仕とをさせて下さいませ。弱い私どもには毎日それは出来ないでしょうが、時々でも出来るようにして下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著335頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌227https://www.youtube.com/watch?v=YkgDX7P-SzQ
以下は、クレッツマンの『黙想』の昨日の続きである。
三度もイエスはその親しい天の父に祈って、苦しい胸の中をうち明け、もしできることなら、全能の父がこの杯をとり去って、この時を過ぎ去らせてくださるようにといたましげに祈られた。それでも彼は、全く従順に、ご自身の意志を天の父の意志にまかせられた。時の立つにつれて、彼は弟子たちが御自身にもたらしてくれる慰めのことはあまり考えなくなり、むしろ彼らの心の平安の方に深く思いを寄せられた。彼らは、身に襲いかかって来る試練と誘惑とに打ち負かされないように、ただ目を覚まして、祈りさえすればよかったのである。ところが、あのペテロでさえも、主みずから、親しく求められていながら、共に一時間も目を覚ましていることができなかったのだ。憐み深く、主はその愛する弟子の心が熱していることをお認めになったが、その肉体の弱さを悲しまれた。彼らはみんなひどく眠かったので、口の中でつぶやかれた返事の言葉は意味をなさなかっただろう。
とうとう、主は弟子たちを、夜を徹しての祈りに参加させようとする試みを、ことごとく断念され、彼らを呼び起こして、御自身が備えられる運命の時が迫ったことを告げられる。主は人の子が、神を畏れぬ敵の手に渡されることをご承知だったのである。)
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