2022年12月15日木曜日

十字架(1)イエスの着物を分けた

それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。(マルコ15・24)

 人間の世界の縮図ではないか。十字架の下に坐しながら、十字架を見ないで『だれが何をとるか』とわずかばかりの分配に『くじを引いた』りしている。ローマの兵卒としては無理ではないだろう。罪人を十字架につけてしまえば役目は済んだのであるから、役得として少しでも多い分配にあづかろうとしたまでであった。

 けれども頭上で三人の人が苦しんでいるのに、その下でその衣服の分配をしているのは如何にも無情である。人の心は斯くも容易に硬化するものであろうか。それは利益の分配のためであった。太陽は大きく輝いているが、銅貨一枚を眼に当てればその光はかくれてしまう。欲が目をくらまし、人情をくらませるのはこれら兵卒の場合のみではない。

祈祷
主イエス様、私たちに常にあなたの十字架を仰がせて下さい。この世の富貴で私たちの目を遮らせることがないようにしてください。私たちが十字架の下に座っていながら、衣を分かつ愚に陥ることのないようにして下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著349頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌261https://www.youtube.com/watch?v=RO3Wh8KTRc0  

引き続いて、クレッツマンの『聖書の黙想』より引用。

 かくして、主は昼のさなかに、そこで十字架につけられる。人々は彼のわずかばかりの着物までも奪い取って、分けられるものは分け、残りはくじ引きにするのであった。これは記すにもあたらない無意味な末梢事だろうか。しかし詩篇22・18には、ここまで預言されていたのである。

David Smithの『The Days of His Flesh』

8 『父よ彼らを赦し給え』

 四人の兵士はその残忍な十字架の処刑を行わんことを命ぜられた。普通十字架に刑するにあたってどまるの恐るべき運命を負うた大罪人は苦痛に乱心し、号叫し、懇願し、果てはど詛呪して傍観者に唾するのが常であった。しかるに悲痛の声も詛呪の語もイエスの口からは漏れなかった〈ヨハネ19・23参照〉。その苦難のうちにイエスの口から出た語は祈祷の句であったーー己を赦せと司刑官に懇願されるにあらずして、彼らが為すところを知らざるが故にその悪虐を赦されんことを神に哀祷せられるのであった。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです』と叫ばれた。この粗野な兵士らはイエスとは何の面識もなかった。彼らの眼にはイエスはただ自ら斯くの如き運命に陥った謀反人のユダヤ人に過ぎなかった。彼らがイエスの衣服を剥いで、釘をもって十字架に打ち付けるのも、ただ命令に服して行ったまでであった。これもちろん残忍な所為であったけれdも、慣いとなっているので、平然としてこれを執行したのであった。これ実に未だかつて地上に犯されたことなきほどの重罪犯であるけれども、彼らは自分の為すところを知らないのであった。

9 イエスの衣を頒つ

 縦木に横木を引き上げて彼らはイエスの聖足は釘を用いず重ねて縄で結びつけた。なおイエスの頭の上に、ピラトが嘲って書いた札を、道路を通るものの、イエスが何人で、何故に刑せられ給うたかを読み得るように打ち付けた。仕事が全く整ってから彼らはイエスの衣服を取り出してこれを分配した。一人はその外衣を、一人はその帯、一人はサンダル〈革のゾウリ〉を一人はタアバン〈頭に巻く長い布〉を取った。けれどもまだ下衣すなわちチウニックが残っていた。彼らはその下布を四つに分けるのが自然であったが、これには彼らの眼を捕らえて、その手を留めた特徴があった。すなわち一枚に織り出した縫い目のないものであったからであたほうがよかった』と。斯くの如きはガリラヤの農夫の間に好んで用いられたもので、古よりの伝説によればマリヤがその愛子のために誠心心をこめて織ったものであったと言う。蓋し貧しい人の下衣であって、ユダヤ人ならばさらに目を留めないのであるが、兵士たちには珍しく思われた。彼らはこれを割くのを惜しんで、鬮をもってこれを分けようと相談した。これが意識せずして聖書の句『彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします』〈十字架〉と言うに相応じたのであった。)

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