イエスを裏切るものは、、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。「私が口づけをするのがその人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ。」それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生」と言って、口づけした。すると人々は、イエスに手をかけて捕えた。(マルコ14・44〜46)
何と言う情けない心であろう。堂々イエスの敵になったのなら、まだ男らしい。空々しい『口づけ』をもって師を売るとは見下げ果てた心ではないか。しかも『先生と言って口づけした』ある文字は『幾度も口づけし』という文字である。
表面には心のこもった愛情を示し、実際には捕らえる『合図』を確実にするためであった。表面の口づけ、裏面の反逆。彼は如何にイエスを愛することを装っても、彼は『先生』とだけしか言い得なかった。マタイ伝26章23と25とに彼の心理を示す面白い句がある。
最後の御食卓で主が売られることを預言した時に、十一の弟子は各々『主よ。まさか私のことではないでしょう』と言ったのにユダは『先生、まさか私のことではないでしょう』と言っている。十一人にとってはイエスは実に『主』であったが、ユダの心はもう離れていた。イエスは一個のラビに過ぎなかった。イエスを主と仰がずして、ただ師と見る人の心は、彼を売る途上にある。
祈祷
主イエス様、願わくはあなたをただ一個の教師と見る現代人の宗教より私をお救いください。願わくはあなたを私の主と崇めて信じ従う弟子として下さい。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著335頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌258https://www.youtube.com/watch?v=oUYChNGS-hA なおこの讃美歌作詞はルター1523、作曲はJohann Walther's Gesangbuchlein,Wittenberg 1524とある。
さて、長文になるが、A.B.ブルースの『十二使徒の訓練』下巻所収の第23章 イスカリオテ・ユダ から今日と明日に分けて連載する。重苦しいテーマであるが、一度は考え抜きたいテーマに違いない。まずは前半部である。〈同書200頁より引用〉
洗足と聖晩餐の制定に加えて、主の死の前夜、もう一つ別の情景が見られた。それは、その死をいつまでも覚えるようにしてくれる。その夜、夕食の間に、イエスは偽りの弟子を摘発し、追放された。その弟子は、自分の師のいのちをねらう人々の手に、師を引き渡すことを約束していた。すでに、弟子たちの足を洗っておられた時、イエスは十二弟子の間に裏切り者がいる事実を予告的に示唆し、彼らがすべてきよいのではないことをほのめかし、彼らのうちの一人は知っていても行わない者であることをそれとなく言っておられた。謙遜な愛の奉仕を終え、その解説をした後、イエスは、弟子たちの誰のことを言っていたのかをはっきり指摘するという、心の重い、仕事に移っていかれた。苦痛な任務を考えて思い悩み、このような悪魔的な悪事の存在に身震いを覚えながら、イエスは次のような一般的告知でこの問題を切り出されたーー「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」。その後、弟子たちの不安そうな質問に答えて、イエスは特定の個人を示すように、「わたしがパン切れを浸して与える者」が裏切り者であると言われた。
このとき告げられた事実は、弟子たちには初耳であっても、彼らの師にとっては新しいことではなかった。イエスは初めからずっと、同志の中に裏切り者がいることを知っておられた。すでにまる一年以上も前に、そのことを示唆されていた。しかし、その一回を除けば、これまでそのことには触れず、秘めた重荷としてご自分の胸の中にそれをじっとこらえてこられた。しかしながら、もはや、秘密はこれ以上隠されなくてもよい。人の子が栄光を受ける時がきた。ユダとしても、主を死に売り渡す手先となることを決心した。このような悪業は、いったん決心がついたら、ためらわず是が非でも実行に移される。
それでイエスは、偽りの弟子を交わりから除こうとされた。イエスは、ご自分の生涯の最後の数時間を、いまだ正体を現わしていない恐ろしい敵の存在によって、いらだったり気が散ったりすることなく、忠実な人々との、思いやりのある、信頼に満ちた交わりに費やしたいと願われた。それでイエスは、ユダが自ら進んで去って行くまで待つことなく、彼がご自分への忠誠を放棄して悪魔の務めに身を任せた後も彼の上に権威を主張される方として、行けと彼に命じられた。パン切れを渡すと、イエスは彼に次のように言われたーー「ユダ。わたしはあなたを知っています。あなたは、わたしを裏切る決心をしました。さあ、出て行って、そうするがよいでしょう」。それから、はっきり「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」と言われた。それは「今すぐ行け」との命令である。
ユダはその意を悟った。彼は「すぐ、外に出て行った」。こうして彼はこれまで分不相応な一員として属していた社会から完全に離れた。ある人は、どうしてそのような人間がこれまでその中にいたのかーーどうして彼がそのような聖なる交わりに入ることを認められたのかーーどうして十二弟子の一人に選ばれたのか、不思議に思う。イエスは、ユダを選んだ時、この人物の本性を知らなかったのであろうか。少し前に語られた主のことばは、私たちがそう考えることを許さない。イエスは洗足について解説する中で、「わたしは、わたしが選んだ者を知っています」と言われた。それは明らかに、イエスが十二弟子を選んだ時に、ユダを含めて彼ら全員のことを知っていると言われたことを示す。
イエスがその正体を知りながらユダを選んだのは。十二弟子の中にご自分を裏切る者を抱え、そのことに関する聖書〔旧約聖書の預言〕を成就させるためであったのだろうか。いま言及したことばにも、このことが示唆されているように思われる。なぜなら、イエスはさらに続けて、「しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』と書いてあることは成就するのです」と言われているからである。
だが、ある俳優が舞台監督から選ばれてイアーゴー〔シェークスピアの『オセロ』に登場する陰険邪悪な人物〕役を演じるように、イスカリオテも裏切り者となるためにだけ選ばれたということは信じられない。引用された聖句において指し示された目的は、彼が選ばれることによって、結局、果たされるであろう。しかし、その目的は彼を選んだ要因ではなかった。私たちはこの二点を確認することができよう。一つは、ユダは裏切るためにイエスの弟子になったのではない。もう一つは、イエスがユダを十二弟子の一人に選ばれたのは、彼が最後に裏切り者になることを前もって知っておられたからではない。
もし偽りの弟子の選びが無知によるものでも予知によるものでもないとしたら、それはどのように説明さレようか。可能な唯一の説明は、神秘的な洞察力は別にして、ユダがどこから見ても弟子として選ばれる資格のある者であり、普通の観察によるなら、いかなる点でも選にもれるはずはなかったということになる。ユダの特性はそのようなものだったに違いないので、全知の目を持たない人は、彼を見て、サムエルがエリアブに言ったのと同じことを彼に言いたい気がしたであろうーー「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」と。その場合、イエスによるユダの選びは充分理解できる。教会のかしらは、教会が同じような場面に直面して行わねばならないことを行われたにすぎない。教会は、知識・熱心・見かけの敬虔・外見的に正しい行為といった表面的資格を結び合わせてみて、聖務に当たる人々を選ぶ。そうすることによって、教会は時に不幸な人選をし、その地位を汚すユダのような人物に高位を与える。そこから生じる害は甚大である。しかし、キリストは、ユダを選ぶという実例によって、また毒麦のたとえによっても、私たちが悪を甘受し、その救済を高い御手〔神〕にゆだねなければならないことを教えられた。神はしばしば悪から善を導き出されるーー裏切り者〔ユダ〕の場合にもそうであったように。
ユダが外見上適当であるということによって使徒に選ばれたと仮定すると、そこに浮かび上がるのはいかなる種類の人間であろうか。高いものを目指していると公言しながらも、卑しい下心を抱いている俗悪な偽善者であろうか。必ずしもそうではなく、恐らくそうではないだろう。むしろ、イエスが「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです〈ヨハネ13・17〉」と言われた時、遠回しにユダのあるべき姿をも描いておられた、そのような人物であろう。この偽りの弟子は、意識してそれを行わないが、何が善であるかを知り、認めている、感傷的で自己欺瞞的な敬虔主義者であった。彼は、その意志と行為では卑俗な利己的情欲の奴隷であるのに、その美的感情や空想や知性においては気高いもの・聖なるものへ心を引かれていた。彼は土壇場ではいつも自分を最優先させるが、個人的利益が危うくされない限り熱心に善行に専心することができた。要するに、彼は使徒ヤコブが二心のある人と呼んでいる人間であった。
このようにユダを述べることによって、孤独な怪物の絵を描いているのではない。そのようなタイプの人間は、ある人々が想像するように決してまれではない。聖なる歴史も世俗の歴史も、そのような人物の多くの例を示している。人間的な事件で重要な役割を演じるのは彼らなのである。預言者の幻と貪欲な心とを持ったバラムはそのような人物であった。フランス革命の悪魔ロベスピエールもその一人であった。幾千の人を断頭台に送ったこの人物は、その若き日に、重大な犯罪で有罪となった一人の刑事被告人に自己の良心に反して死刑の判決を下したことで、地方裁判所の判事の職を辞したのである。
そのどちらよりも顕著な第三の例は、有名なギリシヤ人アルキビアデスに見られよう。彼の際限のない野心と無節操と放蕩は、最大・最善のギリシヤ人への熱烈な思慕と結びついていた。後に、彼は自分の生まれた町〔アテネ〕を裏切って敵側に走ったが、若い頃にはソクラテスの熱烈な崇拝者であり弟子であった。彼がこのアテネの哲人〔ソクラテス〕に対してどのような感情を抱いていたかは、プラトンがその対話篇の一つで彼に語らせていることばーー語り手〔アルキビアデス〕とソクラテスよりも偉大な方〔イエス〕の不相応の徒〔ユダ〕の間の類似を図らずも示唆していることばーーから推測できる。「この人(ソクラテス)にだけは、恐らく誰も私がそうであるとは信じまいこと、つまり、恥じるということを経験したのだ。とにかく、この人に反駁したり、その命じることを行うのを断ったりできないことを知っているのだ。この人から離れると、私は大衆の名声を博そうとする欲望に負けてしまうように思うのだよ。それで私はこの人から逃げ出し、この人に会わないようにしている。だが、この人を見ると、私は自分がしていることが恥ずかしくなるのだ。この人がこの世から消えてしまったら、どんなに喜ばしいだろうと思うことがしばしばある、と言っても、もしそのようなことが起こったら、私はもっと悲しむようになるだろう、ということをよく知っているのだよ。」
ユダの性格が以上に述べたようなものであるなら、少なくとも彼が裏切り者になる可能性は理解できるようになる。どれほど善良であっても、誰よりも自分を愛する者は、あるいは、どれほどきよくとも、どんな大義よりも自分を愛する者は、常に、多かれ少なかれ憎むべき不信仰者になりかねない。彼は、心の底では最初から裏切り者であった。求められているものは、彼の本性に宿る悪の要素を活用しそうな一連の環境だけである。そこで、このような質問が起こるーーユダを裏切り者の候補から現実の裏切り者に変えた環境とは何だったのだろうか。)
0 件のコメント:
コメントを投稿