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椋鳥の 餌豊かなり 草刈り場 |
2025年7月27日日曜日
盛夏、亦、草刈りの時なり
2025年7月23日水曜日
続「紛失物語」ーーイクソスの鍵
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平和裡に イクソスの鍵 戻りたり※ |
この夏は暑いので、どうしても散歩時間は夕方の5時台、6時台になりがちである。そのあとで買い物をして夕飯の支度をする。昨晩は家に辿り着いたら、7時前になっていた。ほぼ日没過ぎて夕闇があたり一面を支配し始めている時だ。
「鍵」がなくては家に入れない。いくら家の主人であろうと入れない。恨めしいことこの上ない。やむを得ず、携帯で合鍵を持っている次女に電話する。一時間ほどで駆けつけてくれた。待っている間、妻は庭先でウロウロしていたが、私は自転車で再び、たどった道を抜かりなく確かめた。でも路上には見つからなかった。
念のため最後に買い物をしたスーパーのレジのあたりも確かめたが、やはりなかった。それでサービスコーナーにも尋ねたが届いていないと言われる。それでも藁にもすがる思いで、確信はなかったが、家の「鍵」を店内で落としたと言い、こちらの携帯番号を知らせた。
昔なら、失くした妻にガミガミ言うところだが、もう言わなくなった。それよりも遠くから車で合鍵を持って駆けつけてくれた次女に、感謝し、二時間遅れの夕食となった。夜9時半ごろ、スーパーから電話があり、「お宅の『鍵』でないですか」と問い合わせがあった。しかし、この時、先方の説明は私たちの「鍵」の状態と一致しなかった。
一夜経ち、私はどうしてもその「鍵」の所在が気になってしょうがなかった。暑い日盛りの時間だったが、ここは何としても捜すべしと決心し、妻を家に残したまま、再び念入りに昨日の自転車と散歩の全コースを丹念に捜した。捜しながら、イエス様の譬え話を繰り返し思わざるを得なかった。百匹の羊のうち一匹がいなくなったら、飼い主はいなくなった一匹のために念入りに捜さないだろうか、そしてもし見つかったら大喜びするだろう、そのようにわたしのもとから離れて失われた人がわたしのもとに帰ってきたら大喜びするんだという有名な話だ。
いったい「鍵」はどこにいるんだろうかと、自転車道はもちろんのこと、散歩道に入ってからは生い茂る草道もあり、捜すのは並大抵じゃないと思いながらも、私どもの手から離れてしまった「鍵」はいったいどこにいってしまったのだろうと繰り返し思わされた。イエス様もそのようにして罪人であり失われた者であった私を捜してくださったのだなと思いながら熱心に捜した。結局全行程捜しに捜したが見つからなかった。
最後に買い物をしたスーパーにもう一度立ち寄って、昨晩電話をしていただいた、「鍵」の実物を確かめさせてもらった。昨晩の方の説明によると「リングに二つの鍵が繋がっているものですよ」という話だった。私は「いや一つの鍵です」と言うので食い違っていた。
ところがご対面よろしく、係の方が持って来られた「鍵」はまさしく私どもの「鍵」であった。私はその瞬間、再びその「鍵」に巡り会えた喜びを味わった。無機物なのに、まるで人間のように愛おしい思いさえした。妻がどんなに喜ぶだろうかとも思った。係の方々も喜んでくださり、失くなったものがこうして見つかることは文句なしにみんなが喜べることなんだとさらに嬉しくなった。
日々の経験を通してイエス様はどんなに私たちにご自身の愛を示してくださっているのか、この日も改めて感じさせていただいた。
※上の写真がその「鍵」である。私どもは家の「鍵」の飾りとして魚の形をしたイクソスを用いていた。たまたまその「鍵」を落とし物として保管されたお店の方は魚の形をしたものも「鍵」だと思い、二つの鍵が一つのリングで繋がっていると思われたので、話がまったく通じなかったのである。「イクソスとギリシヤ語が書いてあるでしょう」と言えば、すぐお店の方にわかってもらえたのに、私は「青い飾りの一つの鍵です」と言うだけだったので話が全く通じなかったのである(平常、妻が用いる鍵でその程度しか認識していなかった)。なおイクソスとは「イエス・キリスト 神の子 救い主」を表わす頭文字を並べたもので、同時に「魚」を意味し、迫害下にあった初代キリスト者にとっては、大切なお互いの暗号のようなものだった。これからは「青い飾りの鍵」でなく、「イクソスの鍵」と言おうと思う。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(新約聖書 マタイの福音書6章7〜8節)
2025年7月22日火曜日
石破首相への退陣要求
そのくせ、家に戻ってからは夜8時の各テレビ局の報道に釘付けになっておりました。選挙結果は各メディアの事前の予想通りで、国民民主党、参政党の大躍進で、自公は参議院で過半数を獲得できず、47議席で終わりました。あっと言う間の勝負でした。時あたかも大相撲名古屋場所が開かれていますが、強いと思っていた力士が呆気なく負けると、様々な原因が分析され、なるほどと合点するものです。当然、選挙結果の分析が今それぞれの立場で語られています。
選挙は日本全国中の有権者がそれぞれ投票した結果です。これには従わざるを得ませんね。私にとっては理不尽と思われる参政党の躍進も民意がもたらしたものですから、それなりに尊重せざるを得ないと今は思わされています。もともと「参政党」というネーミングから受け取れた「政治参加」というニュアンスゆえに人々の注目を得ているのだろうというのが漠然とした私の印象でした(「三権分立」を解することのない「政治参加」を標榜する素人集団ゆえの魅力、それゆえに「危なっかさ」があるのではいか、いずれ馬脚をあらわすのでないかという危惧)。しかし、それが外国人排斥の運動を進めていることを知り、これは良くないと思いました。もちろん今もそう思っています。
ただ現実に私たちの地域社会に外国人の方々が身近に住み、プラス・マイナスをふくめて日々様々な思いを持たせられていることはおそらく全国津々浦々の日本人のすべてが経験している事実です。そこに光をあてたことは参政党の功績だと思います。排外主義は望みませんが・・・。一方で痛切な物価高生活の中で経済をどう立て直すかの対策も与野党それぞれの主張が並行したままで決着がつかず終わってしまいそうです。
このような政治状況で石破首相がどのような政治判断を下すか注目されましたが、「続投表明」がなされました。それに対して「石破首相への退陣要求(※)」が内外から日毎に奔出しているようです。そのような中で一昨日の20日、すなわち投票日の東京新聞の『首相の一日』記録の記事が私の目を引きました。
【午前】9時38分、東京・丸の内のパレスホテル東京、理容室「ヒロ銀座パレスホテル東京店」で散髪。10時30分 東京・富士見の富士見町教会、主日礼拝に参加。11時55分、公邸・・・
首相は何と、私とほぼ同じ時間に場所は違いますが、礼拝していたのです。いったい、そこでどんなメッセージを聞かれたのか、知りたく同教会がyou tubeで配信していましたので聞かせていただきました。ここでは詳しく語れませんが、私にとっては実にタイムリーなメッセージでした。果たして首相にとってはどうだったのでしょうか。ここ数日間の首相の表情は何とも言えない苦渋に満ちた顔つきとなっていますが、主日礼拝の中で聞かれた聖書のことばが石破首相の霊の糧となっていることを信じます。
そして、日本の政治が漂流しないで民主主義の王道を歩めるように祈りたいです。ちなみに富士見教会の主日礼拝で開かれた聖句を最後に書き加えておきます。
※なお、この一人に京都選出参議院議員の西田昌司さんがおられ、もちろん一切面識はありませんが、私より14年後に同じ学窓を巣立った人です。石破首相については昨年の10月30日のブログで「石破首相の舵取り」という題名で書かせていただいています。よろしかったらそちらもご覧ください。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/10/blog-post_30.html
イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタイ16:24〜25)
2025年7月18日金曜日
今時の世相を憂う
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こぞの夏 蝉の抜け殻 早や見つく※ |
ところが、あれから65年、世の中はすっかり変わった。第一、高校生にも選挙権が与えられた。その若者たちは、新聞でなくSNSがその情報源だと聞く。そのような中で、根拠のない(と思われる)排外主義が大手をふって世の中を席巻していると聞く。いつの時代も高校生の純真な心はそんなに変わらない(と思いたい)。今、踏みとどまって、何が正しいのか考えてほしい。遅まきながら、私の購読している東京新聞も多方面からその現象にメスを入れて報道している。外国人受容の方策について、日本人同士の様々な差別(感情)を放置したままで一足飛びに、議論がなされても決してためにならない。
参議院選挙の結果、どのような政治世界が待っているか予断を許さないが、たとえどのような結果が出ようとも、一人一人の議員の方々が、政治家として歩む使命をまっとうして現実的で意味のある国会討論が活発になされ、政策が決定されることを期待したい。
※いつの間にか、蝉の声が樹木の梢の茂みから静かに聞こえて来る季節になった。蝉は地中からはみ出て、木々を登り、抜け殻を残し、巣立って行ったのだろう。栄枯盛衰、人の一生をモノの見事に体現させてくれる通過点の姿である。もはや我も抜け殻を残すのみ。一方、白粉花の可憐な次の姿もある。
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河岸に 白粉花の 紅映ゆる |
ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。(旧約聖書 申命記24:21)
2025年7月16日水曜日
モンシロチョウに寄せて
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風そよぎ モンシロチョウ 舞い飛べり |
辛うじて、笹の葉につかまって一休みする姿を撮ることができた。写真で見ると、笹の葉にしっかりと2本の足(?)を伸ばし、つかまっている(側面で見ているだけだが、反対側にも他の足があり、しっかりと伸ばしているのだろう。そうしないとバランスが崩れる)。全部横向きだから仔細はわからない。しかし、これまた口から出ているのか、頭の先にあるのか、2本の鋭角とも言うべきものが見える。あたり一面、圧倒的な緑が支配する中で、黒い触覚のようなものが見える。このような表現しかできない、昆虫をまったく知らない私の戯言(ざれごと)だ。
モンシロチョウではないが、小学校一年か二年の時、学芸会で、「ミツバチ」の役柄を与えられて、舞台の上で、女の子たちが演ずる花の間を、次々と飛んでまわったことを思い出した。何かセリフを言ったはずだが、そのセリフはとんと覚えていない。幕の袖の下の向こう側の観客席では多くの父兄の方々が見ておられた。その学芸会が終わると、決まって評が下されていた。中には口さがない評もあり、それを母から聞くのも嫌だったが、母が丹精込めてつくってくれた羽をバタバタひらめかせながら、飛んで行った時、それまでの緊張から解放された気分を味わったことも確かだった。
モンシロチョウに限らず、今やさまざまな蝶が目まぐるしく飛びまわっている。もちろん花の蜜を求めてだろう。暑さ一点張りのこの季節、彼らにとってはさぞや無限とも言える草花の間を今日も飛びまわることだろう。どんなセリフを口走っているのだろうか。そう言えば、ここ4、5日の間だが、静かな蝉の声が樹木の間から、集団の声となって聞こえ始めている。なぜか、静かな蝉の声に私は安堵の思いを覚える。生きとし生けるものの盛んな季節へと確実に世界は進んでいると思うからだ。
狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。(旧約聖書 イザヤ11:6〜9)
2025年7月14日月曜日
ハンゲショウの花
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妻発す ハンゲショウと 口ずさむ 2025.6.29 |
今も咲いている。ある時、そのあたりを再度見てみたら、その折には気づかなかった、木標が立てかけてあり、はっきり「ハンゲショウ」と墨字で記されていた。その時、思い出した。そうだ、この湿地の植生をくわしく観察しながら、その生態を明らかにしていた職場の同僚がいた、と。彼は生物の先生であった。五十年前のことである。その頃から彼はすでに生態系の変化に注意しながら観察を続けていたのであろう。
昨今の温暖化のもたらす気候の変動、果ては住宅地まで山から降りてくる熊の出没が連日のように報道される現在、古利根川の川縁がいつまでも健在でいてくれと願わずにいられない。そう言えば、昨日の写真には載せなかったが、下の二枚も今夏覚えたカルガモの姿の一つである。
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目を凝らし 鴨の車列 見る幸よ 2025.7.7 |
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相見互う カルガモ二羽 何語らう 2025.6.24 |
2025年7月13日日曜日
運のいい「チェーン錠」
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二年越しのカルガモ君 2025.7.7(※) |
そんな私が筆を取ったのは、他でもない、「運のいい」チェーン錠に再び出会うことになったからである。6月11日に「妻の失くした『チェーン』に寄せて」という題で投稿したばかりだが、またしても、妻がチェーン錠を失くした。どこでどうなったか覚えがないと言う(これも短期記憶ができない彼女にとってはやむを得ないことなのだが)。前回とほぼ同じシチュエーションだった。礼拝を終えて二人で自転車で帰って来たが、玄関についても中々家の中に入って来ない。どうしたのかと思ったら「チェーン(錠)」がないと悄(しょ)げているのだ。
またかと思いながら、やむを得ず、今回は私一人で帰り道をたどりながら探した。元々、帰り道は私の用事に妻までも付き合わせた負い目も私にはあった。しかもインクカートリッジを求めて、文房具店二軒(駅の東口のペンヤというお店と地下道を潜り抜けての駅西口の光文堂というディスカウントストア)を訪ねたが、どちらの店も日曜日ゆえに開いていず、結局足を棒に振るばかりで、ついていないことこの上もなかった。その上での「チェーン(錠)」紛失である。
チェーン錠は図書館の駐車場で外して、家まで乗って来たのだから、その間のどこかにあるはずだ。妻は前回もそうだったが、「誰かが外して、それだから無いのではないか」と言う。もとより、そんなはずはない。どこでどうなったかわからないのだから、どうせ見つからないだろう。その場合は100円ショップで買い求めてやろうと、覚悟を決め、暑い盛りではあったが、図書館まで戻り駐車したあたりを念入りに探したが、果たして、「チェーン(錠)」はなかった。やはり無理だわいという思いに支配されていた。
ところが、何と図書館から次の訪問先であるペンヤさん(あいにく休みのお店だったが)に向かったところ、お店の前の道路の真ん中に堂々と「チェーン(錠)」が「寝っ転がって」いた。まさか、こんな風にして見つかるとは我ながら不思議な思いがした。もはやわざわざ線路を踏み越えて西口の100円ショップまで行かなくっていいし、その上、最近開店したばかりのCOOPのお店が近くにあるので買い物も出来るしで、途端に心が軽く、陽気になった。その時、二度も持ち主に落とされてしまった「チェーン(錠)」が、またしても私に見つけられたことを思わずにはいられなかった。
ああ、これぞ「運のいい」チェーン錠そのものだなあーと思い至った(持ち主の妻の不注意により落とされたのだが)。先ごろの鶴保氏の無責任な発言「運のいいことに能登地震があった」は、あまりにも当を得ていず、瞬間彼が何を言おうとしたのか理解できなかったが、こういう失くなったチェーン錠に二度まで出会えた私の経験こそ「運のいい」と言うのだと思い、改めて鶴保氏の失言の重さを噛みしめざるを得なかった。それにしても政治家がいつの間に、こんなふうに劣化してしまったのか悲しい。他者の痛みに対する想像力がまったく欠けている政治家があまりにも多いのではないだろうか。
もっとも、主なる神様は、たとえその時は自分にとっては運が悪く思えても、そうとは限らないともおっしゃっている。運・不運に関する人間の価値観を越えた、主なる神様の深い愛(人のわがままな罪を赦すために、その身代わりとしてご自身を十字架に架け、父なる神様の命に従って、罰せられたイエス様の愛)が存在するからである。その愛を鶴保氏自身にも知っていただきたい思いがする。今回の彼の心ならぬ言葉であっても、同氏が「悔い改め」の心さえお持ちになるなら、新しく生きられる、それこそ「運のいい」希望の道は用意されていると思うからである。
さて、件のチェーン錠は、夜のお惣菜の買い物をしてから帰ったので、都合一時間は経ったであろうか、家に帰るや、びっくりさせてやろうと思い、お惣菜の買い物袋の下に密かに忍ばせていたが、今や妻はチェーン錠のことはすっかり忘れていた。やむを得ず、件のチェーン錠の発見の委細を説明せざるを得なかった。妻は「奇跡だね」と喜んだ。二度までも路上に置き去りにされたチェーン錠ではあったが、路上で取り上げる際に感じた、「運のいい」チエーン錠だなという思いは、今度こそこちらの不注意で失くしませんようにという思いに変えられた。妻の同伴者である夫としても今後は十分注意していきたいものだ。
※今年も散歩のたびにカルガモ君の動向に注意しているが、昨年の今頃は水田を利用して子育てをしている様をゆっくり観察したが、今年は水田に三羽のカルガモを時たま見かけただけで、このように水田から上がって側溝を歩いているカルガモ二羽を身近に見るのは久しぶりなので撮影したが、こちらの行動に危険を感じたのであろう、一羽はあらぬ方向に直ぐ飛んでいってしまい、見失ってしまった。一時、橋の下が子育ての場所かと思ったが、そうでもなさそうだ。
主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。ーー主の御告げ。ーー天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(旧約聖書 イザヤ書55:6〜9)