2012年12月31日月曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(7)

『ノアのはこ船』ピーター・スピアー絵より
ローランド・ヒルの話があります。彼はある時、大群衆に向かって野外で説教をしていました。そこを馬車に乗って通りかかったアン・エルスキンという貴婦人が、「この大集会で話しているのはだれか」と尋ねたそうです。そして、彼が有名なローランド・ヒルであることを知ると彼女は言いました。
「あの人のことは聞いたことがあります。どうぞ講壇のそばによって聞けるようにしてください」

ローランド・ヒルの目に彼女がうつりました。いかにも上流の婦人らしい彼女を見て、彼はふり向いて尋ねました。しばらく説教を続けて行くうちに、突然中断して申しました。「友よ、わたしはここに売りたいものを持っています」

説教の途中で、牧師が何かを売りつけようとしていると思って、みな驚いてしまいました。
「これを競売にしましょう。ヨーロッパ中の冠よりもはるかに尊いものです。これは、アン・エルスキンさんの魂です。誰か値をつけませんか。さあ! ああ、値をつけましたね。誰ですか、サタンです。いくら払いますか。富も誉も快楽も。そうです。その魂のためなら、全世界をもあげよう。ああ、別の声が聞えました。 誰ですか。主イエス・キリストです。イエスよ、この魂のためいくら払いますか。わたしは、この世が知らない平和と喜びと慰めをあげよう。そうです。その魂のために、永遠の生命をあげよう」

そしてアン・エルスキンのほうを向いて言いました。
「あなたの魂を買おうとしたふたりの声を聞いたでしょう。どちらがよいですか」
彼女は群衆をかきわけて、出て行って言いました。

「主イエスが受け入れてくださるなら、わたしの魂をおゆだねします」

この物語がどれほどたしかなことかわかりません。しかし、ほんとうだと思うひとつのことがあります—今、あなたの魂を買おうとしているふたりの人がいるということです。どちらをとるかはあなたの決めなければならないことです。サタン(悪魔)は自分に与えることのできないものをあげようと言います。彼はうそつきでした。悪魔の約束に頼って生きている人を気の毒に思います。サタンはアダムをいつわり、だまし、その所有していたものをことごとく奪い、ついには失われた滅びの状態へと追いやってしまったのです。アダム以来、この悪魔のいつわりや約束に頼って来た人は、失望してきました。この世の終わりまでこのことは続くでしょう。

しかし、主イエス・キリストは、その約束のすべてをはたすことができるのです。主はすべての失われた魂に永遠の生命を約束しておられます。誰がそれを得るのでしょうか。あなたの救われたいという願いを、誰かが電報で神の御座に送ろうとでもいうのでしょうか。

以前、ひとりの人が、自分は救われたいと願っているのだが、キリストが尋ねて来てくださらない、と言っていました。わたしはその人に言いました。
「あなたはいったい、何を待っているのですか」
「どうしてですか。キリストが呼んでくださるのを待っているのです。呼んでくださればすぐにまいります」

同じように考えている人が、ほかにもいるかもしれません。生涯のある時期、神の霊と争わなかった人が、この国にいるとは思われません。キリストが尋ねようとされなかった人が、この国にいるとは考えられないのです。主が尋ねようとしておられることを忘れないでください。六千年の間に救われた人は、みな神がまず尋ねた人々です。

アダムが堕落すると、ただちに神は彼をさがしました。彼は驚いて逃げ出し、園のしげみの中にかくれました。その時から今日まで、神が尋ねなければ、どんな人でも救われないのです。

(同書35〜38頁より引用。今年も今日で終わりである。師走選挙が慌ただしく過ぎ去り気がついたらいつの間にか日本の政界は再び自民党の天下に戻っていた。それにしても今回の選挙ほど政治家の私心が暴露された選挙はなかったのではなかろうか。そして今日のムーデーの話じゃないが、サタン並みに候補者はサンタよろしく当選せんがために様々な景品をばらまこうとしたのである。投票する側では誰が本当のことを言い、実行してくれるか見分けがつかなかったのではないだろうか。一方今日の話の本題に戻すと、すべての悪の背後にいる本家本物のサタンの悪巧みはいつまでも続くと言う。しかし、主の約束である、失われた人にただで提供される永遠のいのちは必ず与えられるものだとムーデーは述べている。イエス様が十字架上に罪人の身代わりとしてご自身で、いのちを投げ出される前に、言われたみことばに注意して年を閉じたい。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」ヨハネ14・27)

2012年12月30日日曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(6)

「ノアのはこ船」ピーター・スピアー絵
わたしたちは、健康を害した人のことを聞くと、その人に同情し、気の毒なことだと申します。わたしたちの心は同情でいっぱいになります。財産を失ってしまった人に会うと、「なんと気の毒なのだろう」と申します。名声を失い地位をなくした人がいると、「それは気の毒なことだ」と申します。わたしたちは、健康とか富とか名声を失うことが、どういったものであるかを知っています。しかし、これらすべてのものの損失も、魂を失ってしまうことに比べたらなんでしょうか。

有名なシカゴの大火のあった少し前、ある眼科の病院におりました。ひとりの母親が、生後数ヶ月しか経ていない赤ちゃんを医者のところに連れて来て、その子の目を見てくれるように頼みました。彼は診察しました。そして、その子はめくらで一生涯見ることはないだろうと宣告しました。彼の宣告を聞くやいなや、母親はその子をひっぱって胸の中にしっかりと抱きしめ、恐ろしい叫び声をあげるのでした。わたしの心は、刺されたようになり、涙を流さずにはおられませんでした。医者も泣いていました。

「ああ、わたしのかわいい子! おまえは、おまえを生んだおかあさんを見ることができないの。ああ、お医者さま、わたしにはこらえきれません。ああ、わたしのかわいい子」

それは、どんな人の心をも動かすような光景でした。しかし、視力を失うことは、魂を失うことにくらべたらなんでしょうか。わたしは、自分の魂を失わないのなら両眼をとり出して、めくらのままで死にたいと思います。わたしにはふたりのむすこがあります。わたしがこの子どもたちをどんなに愛しているか、ただ神のみごぞんじのことです。しかし、むすこたちがキリストを持たず望みも持たないで成長し、死ななければならないのを見るくらいなら、むしろ、彼らの目がえぐり出されるのを見たいと思います。

魂を失うこと—それはなんと恐ろしいことでしょう! もしあなたがまだ失われたままでいるなら、どうか安住しないで、キリストのうちにある平安を見出してください。もしあなたの子が箱船の外にいるなら、彼らが中にはいるまで安心しないでください。子どもたちが、キリストのもとに行くのを止めてはなりません。人の子が来たのは、白髪の老人だけでなく、子どもをも救うためでした。キリストが来たのは、すべての人、富んでいる人や貧しい人、老いた人や若い人のためでした。若い人よ、もし、あなたが失われているのなら、神があなたにそれを示し、あなたがその国に向かって前進されるようにしてください。人の子はあなたを尋ね出して救うためにおいでになったのです。

(同書34〜35頁より引用。「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします」ルカ9:25〜26。)

大洪水 ヤコブス・レビウス詩 ピーター・スピアー英訳 松川真弓訳

ノアの作ったはこ船は せいが高くて、はば広く
板はあつくて、どっしりと いさましくもそびえたつ。 
主はのたもうた、 乗りこめ、と。

ノアの家族がよじ登る。 つづいて乗りこむ動物は、
カッコウ、コウモリ、コウノトリ、ヒグマに、
クマタカ、クマンバチ、カマキリ、キリンに、
キリギリス、ミツバチ、ハチドリ、とりどりに、
メジロにホウジロ、アルマジロ、ビーバー、チーター、
アリゲーター、ノウサギ、カワサギ、ヤギにトキ、
ドジョウにダチョウ、モンシロチョウ、ゴクラクチョウと
アゲハチョウ、シチメンチョウもかけつけて、マムシにマツムシ、
カモノハシ、イヌワシ、アザラシ、ヤマアラシ 
      
あらしの始まるそのまえに、 地上の動物すべてから         
選ばれたてきたものたちが、 大きなものも小さなものも       
元気なものもか弱いものも、 よごれたものもきれいなものも     
どうもうなものも静かなものも かたまったりはなれたり        
歩いて、はって、のそのそと そのはこ船に乗りこんで、       
かわいた場所にくつろいだ。

けれど、のこったものたちは あしきものもよきものも
とどまるものは、もういない。 地上をおおうこう水は
のこったみんなをのみこんだ。       

人間のおかした 身のけのよだつ罪のうえ、
神のいかりはくだされた。
人間のおかした わざわい多い罪のため、
のこったみんなが死んだのだ。 清めのための時がたち、
主は罪をゆるされて、 すくいをあたえてくださった。        
ただよっていたはこ船は ふたたび地上にもどされた

清められた土地に栄えあれ。 主のいつくしみを ほめたたえよ!

(引用は『ノアのはこ船』1986年評論社刊行より。ヤコブス・レビウス〈1586〜1658〉はオランダの詩人でそれを絵本作者スピアー氏が英訳し、その文章は韻をふんだすばらしいものだそうです。それを松川さんが日本語に置き換えるために努力された訳文です。)

2012年12月29日土曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(5)

「パリサイ人と取税人」 ギュスターヴ・ドレ 画
わたしはさらに十字架で苦しまれた救い主を教えました。
「キリストは、わたしたちの負債のために苦しまれました。わたしたちの罪のために死に、わたしたちを義と認めるためによみがえられました」。

長い間その人は、あわれな罪人が救われるということを信じませんでした。彼は自分の罪を数え続けていました。わたしは彼に、キリストの血がすべてをおおってくださるのだと話しました。話し終えてからわたしは言いました。
「さあ、祈りましょう」
彼は独房でひざまずき、わたしは廊下でひざまずきました。
「お祈りしてください」
「どうしてですか。わたしがキリストを呼び求めるなんて、神をけがすことです」
「神に祈ってください」

彼はあのみじめな取税人のように声をはりあげて言いました。
「神さま、わたしをあわれんでください。この悪に汚れた罪人をあわれんでください」

小窓をとおして、彼と握手した時、わたしの手に涙が落ちました。悔い改めの涙にわたしの胸はしめつけられるような思いがしました。彼は自分が失われた者であることを認めたのです。それからわたしは、キリストが彼を救おうとしておいでになったということを信じさせようとしました。
彼はなお暗黒の中にいました。
「わたしは九時から十時までホテルであなたのために祈っていますよ」

次の朝、どうしているだろうかと思いながら、シカゴにもどる前にもう一度彼に会おうといたしました。彼の顔に接した時、すでに良心の呵責も、絶望の色も、全く彼から消え去っているのでした。彼の姿は、気高い光にあふれているようでした。失望の涙はぬぐい去られ、喜びの涙が彼の目に光っていました。「義の太陽」が彼の行く道を照らし、彼の魂は喜びにおどっていました。ザアカイのように、彼はキリストを受け入れたのです。
「話してください」
「いつ受け入れたのか知りませんが、真夜中のように思います。長い間苦しんでいましたが、一度にわたしの重荷は取り去られました。ですから、わたしほど幸福な人間はニューヨークにいないと思います」
シカゴを出発してからもどるまで、こんな幸福な人を見たことはありませんでした。彼の顔は天よりの光に輝いていました。わたしは彼と別れましたが、かの国で会えるのを楽しみにしています。

あなたは神の子があの晩、ほかの室は通り過ごしながら、あの室に行ってあの囚人を自由にした理由がわかりますか。それは

あの男が自分は失われた者である
ということを認めたからなのです

失われるということがどういうものであるか知りたいものです。この世はサタンに閉ざされ、眠らされているのです。サタンはアチコチを走りまわっては、人々に失われるという事など、なんでもないのだと告げているのです。わたしは、昔ながらの天国と地獄を信じます。キリストはわたしたちを恐ろしい地獄から救うためにきたのです。地獄へ投げおとされる人は誰でも、この福音の輝きの中に、また神の子のさかれたからだのもとに来なければなりません。

(同書32〜33頁より引用。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」ルカ18・9〜14)

2012年12月28日金曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(4)

寒前に 紅葉見せる ブルーベリ  
何年も前のことでした。ある土曜日の夜、フルトン・ストリートの祈祷会に出席した時のことです。集会が終わるとひとりの人がわたしのところに来て言いました。
「あす、町の刑務所で囚人たちに説教していただきたいのですが」
承知してその刑務所に行くと、そこには集会室がなく、それぞれのへやに向かって説教しなければなりませんでした。鉄の手すりの所に立って、全く見ることのできない約三、四百人の囚人に向かって、大きな長い狭い廊下をとおして話しました。それは全く難しい仕事でした。わたしはその時まで、なんのかざりもないただの壁に向かって説教したことはありませんでした。

説教が終わってから、いったいどんな人に話していたのか見たいと思いました。また、彼らがどのように福音を受けとったか知りたいと考えました。最初のドアの所に行きました。そこの囚人は一番よく聞くことができたわけです。中をのぞいて見ました。そこでは何人かの人がトランプ遊びをしていました。
「いかがですか」
「そうですね、よけいなことを教えてもらいたくないですね。不正な証人が偽証をしたんだ。それでわたしたちはここにいるんですよ」

ああ、キリストはここの誰も救うことはできません。失われた者はひとりもいないのです。

次のへやに行きました。
「どうですか」
「あれをした男は、わたしとすごく似ていたんだそうです。それでつかまってここに入れられているんです」

彼もまた無罪でした。

次のへやに行きました。
「いかがですか」
「ええ、われわれは悪い仲間にはいっていました。でも、それをやった男が許されて、われわれがここにいるんです」

次のへやに行きました。
「いかがですか」
「来週、裁判です。不利になるものはないので自由になるでしょう」

ほとんどすべてのへやをまわりましたが、答えはいつも同じでした。つまり彼らは何もしていないということでした。ああ、わたしの生涯の中で、こんなにもたくさんの罪のない人がいっしょにいるのを見たことがありません。彼らの考えでは、のろわれるのは治安判事だけでした。これらの人々は、身のまわりに自己義認というきたないボロをまとっていたのでした。このような物語は、六千年も続いたものなのです(※)。わたしは、刑務所のへやからへやをまわって、どの人も口実を持っているのに失望しました。もし、それを持っていなければ、悪魔は彼にそれを作らせるのです。

刑務所をほとんど通り抜けてしまう所で、ひとりの男が両ひざにひじをつき、両手の中に顔をうめているのを発見しました。細いふたすじの涙がほおを伝って流れていました。
「どんな悩みですか」

そう尋ねると、彼は自責と絶望にあふれた顔をあげました。
「ああ、わたしの罪は、耐えられないほどです」
「神さま、感謝します」
「何ですって? あなたは、今説教していたかたでしょうね」
「ええ」
「あなたはわたしの友人だと言いましたね」
「ええ、そうですよ」
「それなのに、どうしてわたしの罪が耐えられないというのを喜んでいるのですか」
「説明しましょう。もし、あなたの罪が耐えられないものであるなら、あなたにかわって負ってくださるかたにそれをまかしてしまいませんか」
「それは誰です」
「主イエスです」
「イエスはわたしの罪まで負ってくれないでしょう」
「どうして?」
「わたしは今までずっとイエスに対して罪を犯して来ました」
「すこしも心配ありません。神の御子イエス・キリストの血が、すべての罪からきよめてくださるのです」

それから、キリストがいかにして失われたものを尋ね救うためにおいでになったかを話しました。刑務所のとびらを開いて囚人を自由にするためにおいでになったことを話したのです。自分が失われた者であることを、信じている人に会うのはすばらしいことです。

(同書29〜32頁より引用。1978年、シンガポールのチャンギー刑務所内に入ったことがあります。その時、所内には主を信じている受刑者がおられるということでしたので、私たちも入り、一緒に主を賛美できたのです。その時にはこのムーデーが話している内容を露とも考えませんでしたが、考えてみるとこれぞ罪人とは何たる者かを語る話だと思い至りました。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。」ルカ4・18※「自己義認」こそ最初の人アダム・エヴァ夫妻が身につけたもので、私たちひとりひとりが受け継いでいる生まれながらの性質です。 イザヤは端的に「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな不潔な着物のようです」64・6と言っています。)

2012年12月27日木曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(3)

ザアカイは いっしょうけんめいに きに のぼりました (絵本聖書より)
やがてその男は通りを走って行きます。けれども背が低いので、群衆の肩で、つま先立ちになってもイエスを見ることができません。「よし」と彼は言い、一本のくわの木にのぼります。「通りの真上までのびているあの枝にのれば、あのかたをよく見ることができるだろう」

この金持ちの男が、子どものように木にのぼってしげみの中にかくれたさまは、まさに奇妙なものであったに違いありません。その中で彼は思いました。誰にも見つからずに、ここを通るあの人を見ることができるだろうと。

ガヤガヤ群衆がやって来ます。彼はイエスをさがしています。ペテロを見ます。「あの人は違う」。ヨハネを見ます。「あの人でもない」。とうとうほかの誰よりも澄みきったひとりのかたに目が向けられます。
「あのかたがそうだ」

ザアカイは、しげみの間から、このふしぎな神の人を驚きながら見おろしています。ついに群衆は木の所にやって来ます。キリストが通り過ごされるように見えた時、キリストは木の下に立ち止まって、上をごらんになって言われます。
「ザアカイよ、急いでおりて来なさい」
彼の心の中に最初に浮かんできたことを想像することができます。
「だれかがあのかたにわたしの名まえを教えたのだろう。今まで会ったこともないのに」

キリストは彼をごぞんじでした。罪人よ、キリストはあなたのすべてを知っているのです。あなたの名まえも、あなたの家も知っているのです。キリストからかくれようとする必要はありません。キリストはあなたがいる場所も、あなたのすべてを知っておられるのです。

ある人々は
突然の回心
というものを信じようとしません。そういう人たちに聞きたいものです。—ザアカイは、いつ回心したのですか。彼が木にのぼった時、彼はたしかに罪の中にいました。彼は降りて来た時には、たしかに回心していました。彼は枝と地上の間のどこかで回心したに違いありません。この取税人が回心をするのに長い時間を要しませんでした。

「急いでおりて来なさい」。もう二度とこの道を通ることはないでしょう。これが最後の訪問です。ザアカイは急いでおりて来て、喜んでキリストを受け入れました。ほかの方法でキリストを受け入れた人のことを聞いたことがあるでしょうか。彼はキリストを喜んで受け入れました。キリストは、ご自身とともに喜びをもたらすのです。罪、悲しみ、暗やみは消え去ります。光と平和と喜びが魂の中にあふれます。読者よ、あなたがその高い所からおりて、今、キリストを受け入れてください。

ある人は言われるかも知れません。「彼が回心したということがどうしてわかりますか」と。彼は、非常にはっきりした証拠を残していると思います。わたしはきょう実の伴う回心の証拠を見たいのです。ある金持ちの人が回心して、その持ちものの半分を貧しい人々に与えてごらんなさい。人々はすぐにこれこそほんとうのことだと信ずるでしょう。しかし、それよりももっとすばらしい証拠があります。もしだれかから不正な取り立てをしていたら、それを四倍にして返します。非常によい証拠ではありませんか。人が突然回心すると、ある人は長続きしないだろうと言うでしょう。ザアカイは四倍にして返すほど長続きしました。人々のふところに達するような働きです。

次の朝、ザアカイのしもべのひとりが、百万円の小切手を持って隣人のところへ行き、これを手渡すさまを想像します。これはいったいなんですか。「わたしの主人が数年前、あなたから二十五万円をだましとったので、これはそのつぐないの金なのです」※

このことは、ザアカイの回心を確信させるでしょう。わたしは今、これに似たようなたくさんの実例で、人々が突然の回心に反対するのを止めてくれるよう願っています。

主は取税人の客となります。主がそこにいるというので、パリサイ人たちはぶつぶつと不平を述べ始めました。パリサイ人たちがその時代だけで死に絶えてしまったらよかったのにと思います。しかし、不幸にして、非常にたくさんの子孫を残して、今でも生き続けているのです。彼らは「この人は罪人を受け入れている」と不平をもらします。しかし、パリサイ人たちが不満を言っていた時、主は次のように言いました。

「わたしはザアカイをみじめなものとし、のろい苦しめるために来たのではない。わたしが来たのは、彼を祝福し救うためである。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである

(同書26〜29頁引用。もとの翻訳文では小切手は4万円と1万円であった。50年の隔たりを考慮して25倍に直してみた。果たして物価変動はいかがなものでしょうか・・・)

2012年12月26日水曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(2)

「イエスさま たすけて ください!」 絵本聖書(1974年版)より
「なんにも。一銭もかからなかった。ただで目があいたんだ。おまえも、欲しいものをあのかたに言うといいよ。あのかたを訪ねるのに、強力な委員会を作ったり、えらい人に代理人になってもらう必要はないよ。貧しい者でも、金持ちと同じようにあのかたを動かすことができるんだ。みんな同じだ」
「そのかたは、何という名まえだって」
ナザレのイエス。もし、そのかたが、この道を通るようなことがあったら、おまえの目のことをかならず言いなさいよ」
「きっと、そのかたが来たら、かならず尋ねますよ」

二、三日して、彼はいつもの所に連れられて行き、お金を叫び求めていました。突然、群衆のやって来る足音が聞えて来ました。彼は尋ねました。
「誰ですか教えてください、あれは誰ですか」

ある人が、ナザレのイエスがお通りになっているのだと教えました。それを聞いた彼は自分に言い聞かせました。「ああ、あのかたが、めくらの目をあける人なのだ」。そして叫びました。
「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」

わたしには誰だかわかりませんが—おそらくペテロだったでしょう—ひとりの人が言いました。
「うるさい! 静かにしなさい!」

彼は考えました。主はエルサレムにのぼって、王としての冠を受けようとしておられるのだろう。だから、ひとりのあわれなめくらの乞食などにわずらわされたくないのだろうと。人々は神の御子がそこにおられる時、知りませんでした。御子は天におけるすべてのハープの音を静かにしても、ひとりの罪人の祈りに耳を傾けられるのです。どんな音楽でも、それほど御子をお喜ばせするものはありません。

けれど、バルテマイはさらに大きな声をはりあげました。
「ダビデの子よ、あわれんでください」
祈りがいつもそうであるように、この祈りは神の御子の耳にとどきました。御子の足は止まり、人々に彼を連れてくるように命じました。人々は言いました。
「バルテマイ! 元気を出せ。立ちなさい。あのかたがおまえを呼んでいる」

御子は決してほかの者を呼びませんでした。彼のためにすばらしい物をたくわえておられるのです。罪人よ! このことを覚えておきなさい。(※)彼らは盲人をイエスのもとに連れて来ました。主は申されました。
「わたしに何をしてほしいのか」
「先生、見えるようになることです」
「見えるようになりなさい」

すると彼の目は、たちまち開かれました。わたしもその場にいてそのすばらしい光景を見たいものだと思います。彼が生まれて始めて見たものは神の御子でした。ガヤガヤしている群衆の中で、目の開かれたこの男ほど大きな声を出す者はいませんでした。わたしには彼が「ホサナ、ホサナ、ダビデの子」と叫んでいるのが聞えるような気がします。

少し想像を加えることをお許しください。バルテマイはエリコの町へはいって申します。
「さあ、妻のところへ行って、このことを話してこよう」

回心したばかりの人は、絶えず自分の友人に救いについて話したいと願うものです。道をくだって行くとひとりの男に会います。その男は通り過ぎてしばらく行きかけてから、ふりむいて言います。
「バルテマイではないか」
「はい」

やはり思ったとおりでした。しかし、その男は、自分の目を信ずることができません。
「あなたの目は、どうしてあいたのだ?」
「わたしはこの町の外で、ナザレのイエスに会ったのです。そして、あわれんでくださいって言ったのです」
ナザレのイエスだって? そんな人がこの国のどこにいるんだ?」
「ええ、あのかたはたった今エリコの町にいましたよ。今ごろは西の門に行こうとしておられるところでしょう」
「そのかたに一度お会いしたいものだ」

(『失われた羊を尋ねて 』24〜26頁より引用。この記事は四つの福音書のうち、ヨハネを除くすべてに記されている史実である。ムーデーはマタイ20・29〜34、マルコ10・46〜52、ルカ18・35〜43を典拠にし、特にルカに準拠しているように思われる。※なぜ、ムーデーが私たちを「罪人よ!」と臆面もなく、呼びかけるのかを思い、読者の中には奇異な感じを持たれるだけでなく、不快感を持たれる方もおられるかもしれない。「罪人」とはいったい誰をさすのだろうか、稿が進むに連れて徐々に明らかにされていく真理である。しばし寛容をいただきたい。)

2012年12月25日火曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(1)

人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。
                (新約聖書 ルカ19・10)

わたしにとってこのことばは、聖書の中で最も心をひかれることばのひとつです。この短い簡単なことばの中に、キリストがこの世においでになった目的を知ることができます。キリストがきたのは、ひとつの目的のためでした。キリストはひとつのわざを行なおうとしてきたのでした。この簡単なことばの中に、すべてが語られています。キリストが来たのは、この世を滅ぼすためではなく、キリストをとおしてこの世が救われるためでした。

数年前、英国の皇太子がアメリカに来た時、大きなどよめきが起こりました。新聞はこれをとりあげて論じ始めました。多くの人は、いったい何のために来たのだろうかとふしぎに思いました。共和制の政治形態を見るためだろうか。健康のためなのだろうか。アメリカの制度を見るためだろうか。あのことだろうか。このことだろうか。皇太子はこのような論議のうちに去って行きました。しかし、何のために来たのか語りませんでした。※

しかしながら、天国の皇太子がこの世に来た時、何のために来たのか、わたしたちに語られたのです。神はキリストをつかわされました。キリストは父の御旨を行なうために来たのでした。それはなんでしょうか。”失われたものを尋ね出して救うため”でありました。

聖書のどこを見ても、神につかわされた人が、そのわざにおいて失敗したという箇所がありません。神はモーセをエジプトにつかわして、三百万の奴隷の人々を約束の地へ移そうとされました。モーセは失敗したでしょうか。最初は失敗しそうに見えました。パロがその宮廷で「神とはいったい何ものか。わたしは神に従わなければならないのか」と言って、モーセを追いはらうように命じた時、たしかに失敗に終わったように見えます。しかし、ほんとうに失敗したでしょうか。

神はエリヤをつかわしてアハブの前に立たせました。エリヤは大胆にもアハブに向かって、「今後、数年雨も露もないでしょう」と語りました。しかし、天は三年六ヵ月閉ざされたのではなかったでしょうか。今や、神はそのふところから、その王座から、いつくしみたもうひとり子を、この世におつかわしになったのです。御子は失敗しそうに見えますか。感謝なことに、御子はきわみまでも救うことができるのです。救われたいと願って救われない人は、この世にひとりもいないのです。

このような聖句をとり上げ、詳細に調べ、その意味しているものを知ることは、わたしにとって大きな祝福です。十八章の終わりの部分を見ますと、キリストがエリコの町の近くに来られる記事があります。道のかたわらに、ひとりのあわれなめくらの乞食がすわっていました。おそらく、何年もの間そこにいたのでしょう。もしかしたら、彼は自分の子どもに追い出されたのかも知れません。あるいはまた、時々見かけるように犬をつれていたかも知れません。彼は何年も何年もそこにすわって、「どうぞ、あわれなめくらに恵んでください」と叫んでおりました。ある日、そこにすわっていると、エルサレムからくだってきたひとりの人が彼のかたわらに腰をおろして申しました。

「バルテマイ、おまえによい知らせを持ってきたよ」
「何だって?」
「おまえの目をあけることのできる人がイスラエルにいるのだよ」
「とんでもないことだ。目が開かれるなんてことは、今まで一度だって聞いたことがない。めくらに生まれた、生まれつきのものがなおるわけがない。この世じゃあ見えるなんてことはないよ。次の世では見られるかもしれないが、この世はめくらで過ごすよりほかはないのだ」
「しかし、まあ、聞いてくれよ。この間、わたしがエルサレムにいた時、生まれつきのめくらのいやされるのを見たんだ。すっかりよくなって、目がねを使わなくても、全くよく見えるんだよ」

こうして、このあわれな男の心にかすかな望みが出て来ました。
「どんなぐあいで見えるようになったんだね」
「うん、イエスが、土につばをかけて粘土をつくり目にぬったのだ。そしてシロアムの池に行って洗いなさいというんだ。その男が言われたとおりにすると目があいた。そうだほんとうにあいたんだよ。わたしはその男と話した。あんなによい目を持った人を見たことがない」
「それで、どれだけ請求された?」

(『失われた羊を尋ねて』D.L.ムーデー著湖浜馨編1960年版21〜23頁より引用。※ムーデーがこの文章を書いた時、すなわち19世紀の半頃にあたるのだろうが、アメリカはイギリスからとっくの昔に独立したとは言え、まだイギリスの統治が気になる時代だったのだろうか。そのような文脈で読むときに、例話とは言え、ムーデーの言わんとしたことが、現代の私たちにもより新鮮な話としてつかめるのではないだろうか。それに比して聖書の話はそれよりもはるかに昔の2000年前の話である。けれども、その話が古色蒼然なものとして響いて来ないのは、神のことばがつねに新たであることの何よりの証拠とは言えまいか。そして、今日のムーデーの文章はまさしく「これぞクリスマス」と銘打っていい文章だと引用者は思う。)