「イエスさま たすけて ください!」 絵本聖書(1974年版)より |
「そのかたは、何という名まえだって」
「ナザレのイエス。もし、そのかたが、この道を通るようなことがあったら、おまえの目のことをかならず言いなさいよ」
「きっと、そのかたが来たら、かならず尋ねますよ」
二、三日して、彼はいつもの所に連れられて行き、お金を叫び求めていました。突然、群衆のやって来る足音が聞えて来ました。彼は尋ねました。
「誰ですか教えてください、あれは誰ですか」
ある人が、ナザレのイエスがお通りになっているのだと教えました。それを聞いた彼は自分に言い聞かせました。「ああ、あのかたが、めくらの目をあける人なのだ」。そして叫びました。
「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」
わたしには誰だかわかりませんが—おそらくペテロだったでしょう—ひとりの人が言いました。
「うるさい! 静かにしなさい!」
彼は考えました。主はエルサレムにのぼって、王としての冠を受けようとしておられるのだろう。だから、ひとりのあわれなめくらの乞食などにわずらわされたくないのだろうと。人々は神の御子がそこにおられる時、知りませんでした。御子は天におけるすべてのハープの音を静かにしても、ひとりの罪人の祈りに耳を傾けられるのです。どんな音楽でも、それほど御子をお喜ばせするものはありません。
けれど、バルテマイはさらに大きな声をはりあげました。
「ダビデの子よ、あわれんでください」
祈りがいつもそうであるように、この祈りは神の御子の耳にとどきました。御子の足は止まり、人々に彼を連れてくるように命じました。人々は言いました。
「バルテマイ! 元気を出せ。立ちなさい。あのかたがおまえを呼んでいる」
御子は決してほかの者を呼びませんでした。彼のためにすばらしい物をたくわえておられるのです。罪人よ! このことを覚えておきなさい。(※)彼らは盲人をイエスのもとに連れて来ました。主は申されました。
「わたしに何をしてほしいのか」
「先生、見えるようになることです」
「見えるようになりなさい」
すると彼の目は、たちまち開かれました。わたしもその場にいてそのすばらしい光景を見たいものだと思います。彼が生まれて始めて見たものは神の御子でした。ガヤガヤしている群衆の中で、目の開かれたこの男ほど大きな声を出す者はいませんでした。わたしには彼が「ホサナ、ホサナ、ダビデの子」と叫んでいるのが聞えるような気がします。
少し想像を加えることをお許しください。バルテマイはエリコの町へはいって申します。
「さあ、妻のところへ行って、このことを話してこよう」
回心したばかりの人は、絶えず自分の友人に救いについて話したいと願うものです。道をくだって行くとひとりの男に会います。その男は通り過ぎてしばらく行きかけてから、ふりむいて言います。
「バルテマイではないか」
「はい」
やはり思ったとおりでした。しかし、その男は、自分の目を信ずることができません。
「あなたの目は、どうしてあいたのだ?」
「わたしはこの町の外で、ナザレのイエスに会ったのです。そして、あわれんでくださいって言ったのです」
「ナザレのイエスだって? そんな人がこの国のどこにいるんだ?」
「ええ、あのかたはたった今エリコの町にいましたよ。今ごろは西の門に行こうとしておられるところでしょう」
「そのかたに一度お会いしたいものだ」
(『失われた羊を尋ねて 』24〜26頁より引用。この記事は四つの福音書のうち、ヨハネを除くすべてに記されている史実である。ムーデーはマタイ20・29〜34、マルコ10・46〜52、ルカ18・35〜43を典拠にし、特にルカに準拠しているように思われる。※なぜ、ムーデーが私たちを「罪人よ!」と臆面もなく、呼びかけるのかを思い、読者の中には奇異な感じを持たれるだけでなく、不快感を持たれる方もおられるかもしれない。「罪人」とはいったい誰をさすのだろうか、稿が進むに連れて徐々に明らかにされていく真理である。しばし寛容をいただきたい。)
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