2012年12月22日土曜日

失われた羊を尋ねて(8)

ああ、羊。われは stray sheep なり  by T.Satou
福音が「すべての」造られたものに宣べ伝えられるものであることを神に感謝します。このご命令が非常に自由であることを神に感謝します。あまり遠くに行きすぎて、神の恵みがとどかないという人はありません。あまり絶望的で、あるいは悪質で、神がゆるさないという人はありません。たしかに感謝すべきことです。地獄と同じように真っ暗な男女にも福音を宣べ伝えることができるのです。キリストは”だれでもみな”招いてくださることを神に感謝します。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者が”ひとりも”滅びないで永遠の命を得るためである」

「”誰でも望む者”は惜しみなく命の水を飲みなさい」

聖書の中に自分のための約束はないと考えていたひとりの婦人のことを聞いたことがあります。約束はすべての人のためだというのです。ある日、彼女は一通の手紙を受け取りました。開いてみると、それは彼女あてのものではなく、同じ名まえのほかの婦人あてのものであることがわかりました。このことから、彼女は自分の心に尋ねてみました。もし、聖書の中にわたしに宛てられた何かの約束をみつけたら、それがわたしのことであって、ほかの人のことではないということがどうしてわかるだろう。神は、そのみことばにおいて理解されなければならないということを考えました。

そして、”誰でも”また福音が自由に宣べ伝えられている”すべて造られたもの”の中に、自分自身をふくめなければならないことがわかりました。

”誰でも”ということばは、全世界のすべての男、すべての女、すべての子どもの意味です。それは、少年、灰色の髪の男、若い金髪の女、母親の心を痛めている青年、悲惨な境遇と罪の中にひたっている酒飲みの意味です。おお、みなさん、あなたがたはこのよい知らせを信じませんか。この驚くべきキリストの福音を受け入れませんか。あなたがたは信じませんか。貧しい罪人よ、これは”あなたがた”のためであることを信じませんか。あまりに話がうますぎて、ほんとうとは思えないというのですか。

数年前、オハイオにいた時のことです。わたしは州の刑務所で説教するように招かれました。千百人の既決囚が礼拝堂に入れられ、みなわたしの前にすわりました。説教の終わったあと、刑務所つきの教誨師が申しました。「ムーデーさん、このへやで起こったあるできごとをお話ししたいと思います。数年前、わたしたちの委員が州知事の所へ行って、模範囚五人を赦免するという約束をとりつけて来ました。知事は次のような条件で賛成しました。記録を秘密にして、六ヶ月の終わりに名簿上最もすぐれた者を誰でもゆるすことにするということでした。六ヶ月の後、囚人たちはみな礼拝堂に集められました。委員がならび、委員長が壇に立って、ポケットから五枚の紙をとり出して言いました。
『わたしはここに五人の者に対する赦免状を持っています』

教誨師は、その時のような光景を見たことがないと言いました。みな、死のように静かになりました。多くの者は死んだように青ざめていました。不安がひどくつのって、心臓がとまったのではないかと思われるようでした。

委員長は、どうして彼らがゆるされたかということについて話し続けました。教誨師は彼をさえぎって言いました。
『話す前に名まえを言いなさい。みんな不安でいっぱいです』
そこで彼は最初の名まえを読みあげました。
『ルーベン・ジョンソンはここに来て赦免状を受けとるように』

委員長はそれをさし出しましたが、誰も前に出て来ませんでした。彼は所長に『囚人はみないますか』と聞くと、所長は『みないます』と答えます。そこで、もう一度言いました。 『ルーベン・ジョンソンはここに来て赦免状を受け取りなさい。これは所長が署名捺印したものであるから、ルーベン・ジョンソンはきょうから自由なものである』

誰も動きません。教誨師は、どこにルーベンがいるか右の方を見下ろしました。彼はよく知られた男でした。彼はそこに十九年間もいたのです。多くの者は、彼が自分の足でとび上がるのを見ようと、あたりを見まわしました。しかし、当の本人はというと、ゆるしをもらった幸運なやつは誰だろうかと周囲を見まわしていました。とうとう教誨師の目が彼をとらえました。
『ルーベン、おまえがそうなんだよ』
ルーベンはあたりを見まわし、うしろをふり返って、どこにルーベンがいるのかさがしました。教誨師はもう一度言いました。
『ルーベン、おまえのことだよ』
すると、彼は誰かもうひとりのルーベンに違いないというようにもう一度あたりを見まわしました。

このように、人は福音が自分のものであることを信じないのです。それはあまりにもうまいことだと考え、自分の次の人だと思ってやり過ごしてしまうのです。しかし『あなた』が今次の人なのです。

さて、教誨師は、ルーベンがどこにいるかわかりました。彼は三回『ルーベン、来て赦免状をもらいなさい』と言わなければなりませんでした。しかしついに、ほんとうのことがこの老人の心に忍び込み始めました。彼は立ち上がり、頭のてっぺんから足の先までふるえながら通路をやって来ました。赦免状を受け取ったとき、それを眺め、それから自分の座席に帰って両手に顔をうずめて泣きました。囚人たちが独房に帰るためにならんだ時、ルーベンもまた列に加わりました。そこでまた教誨師は彼を呼ばなければなりませんでした。『ルーベン、列から出なさい。おまえは自由なんだよ。もう囚人ではないんだよ』ルーベンは列から足をふみ出しました。彼は自由だったのです。

これは人がゆるす方法です。良い性格や、良い行ないのためにそうします。

しかし、神はどんなによい性格を得なかった者、この上もなく悪い人間だった者もゆるされます。神は地上のすべての罪人が、受けようとするならゆるしを与えられます。それが誰であるか、どういう人かは問題ではありません。あるいは町一番の道楽者かも知れません。あるいはかつて生まれた者の中で一番のならず者、あるいは一番の大酒飲み、どろぼう、浮浪者であるかも知れません。

しかし、わたしは喜びのおとずれをたずさえて来て、福音を「すべての造られたもの」に宣べ伝えるのです。

(同書16〜20頁より引用)

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