2012年12月12日水曜日

人間性の腐敗と神の恵み(下)

室内から見た降り始めの雪景色、湖東は今日も雪の中か?
とすると、キリスト信仰のすべては、自己否定につきることになりましょう。わたしたちの生まれつきの考え方に反対するということです。神だけに幸せを求めるということ以上に、わたしたちの習慣的な考え方に反するものが、果たしてあるでしょうか。それはわたしたちの感覚、つまりあのわたしたちになじんだ導き手が、見ることも、聞くことも、味わうこともできないような、そういう幸せと言わねばなりません。

生まれつきのままの人間を見てください。彼はこの世には限りない種類の幸福があるかのように行動します。楽しみもいら立つことも数多くあります。幸福はどこにでも見出されると考えているのです。ところが手にしたと思った幸福にだまされるという経験をする、そのためにいら立つことも多いというわけです。そこで、キリスト信仰は明らかに自己否定を主張することになります。それはわたしたちの肉的な感覚が幸福と呼んでいるような娯楽からは離れて、感覚がうかがい知ることのない幸福に導きます。

わたしたちの肉的な感覚は、いつ眠るべきか、火にはどのくらい近づいてもいいか、またどれほど重いものを運ぶことができるかなどを教えてくれます。これらのことについては、感覚は適切なガイドです。けれども罪の意識、幸福、また求めるべき徳などについて、もし肉的な感覚に頼ろうとするならば、それは目で聞こうとし、耳で見ようとするのと同じです。物ごとの真の価値ということになると、大人は子どもと同じ判断力しか持っていません。わたしたちは子どもが小さくてつまらないものをほしがるのを笑います。けれどもわたしたち自身の頭は、大きなつまらないものでいっぱいになっています。宝くじに当たったらどんなに幸せかなどと大人が考える時、それはちょうど子どもが、キャンディーを二十本買うお金がほしくてたまらないのと同じです。

心がアルコールのことでいっぱいの人は、道理にかなったことを考えることができません。そのような人とまじめな会話をするのはむずかしいでしょう。そしてスポーツやファッションやうわさ話で心がいっぱいになっている人もまた、キリスト者の見方からするならば、道理にかなったことを考えることができません。その人は霊的な会話の喜びを知ることができないのです。

聖霊はわたしたちを助けて良いものを求めるように導いてくださり、またそれをすることができるように力を与えてくださいます。

わたしたちのいのちは神によって支えられているのですが、そのように神の力が働いていることをわたしたちは目で見ることができません。わたしたちの霊的ないのちについても、聖霊がそれと同じように働いてくださっているのです。イエスは言われました。

風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。(新約聖書 ヨハネ3・8)

聖霊が働いてくださる時、その結果をわたしたちは感じることができます。風の吹いたあとを見ることができるのに似ています。けれどもどのようにして聖霊がわたしたちに力をふるってくださるのかは、わたしたちにはわかりません。パウロによれば、

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。(ローマ8・14)

ということは、わたしたちも聖霊と協力しなければならないということを意味します。岩の上に落ちた種は生長することができないでしょう。同じように、心が石ころだらけであるならば、聖霊の実を結ぶことができません。

酔っぱらいや犯罪人※が御霊の実をみのらせることがないということはだれでも認めるところです。けれども、この世の思いわずらいでいっぱいになっている心もそれと同じだと言わなければなりません。・・・もしそうならば、霊的な生長を続けることはほとんど不可能です。

(『ウィリアム・ローのキリスト者の完全』マービン・D・ヒンテン編棚瀬多喜雄訳56頁以下抜粋引用。引用に当たっては編者編纂の9章「人間性の腐敗」と10章「聖霊」の一部をつないで再構成した。[※引用者註:著者はそう断定するが例外がある、言うまでもなくルカ23・40以下のイエスとともに十字架にかけられた犯罪人である。]この本は次男が中学卒業のとき、教会の中学生スタッフから贈られたもので1988年3月の奥付がある。24年余、書棚で埃をかぶっていたことになる。小冊子ながら、多くの本が処分された中で良くぞ生き延びてきたと思う。それだけ良書なのだろう。英語の達者な方は直接以下のサイトに当たられるとWillim Lawの作品を読むことができるので紹介しておく。http://www.passtheword.org/William-Law/)

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