守山・今浜側から見る比良山 2012.12.2 |
どんなにやすやすと神があらゆる存在を造られるのかは、創世記第一章を見ればわかります。限りない恵みをもってなお、罪の赦しがどれほど困難であるのかは、血のささげもの、高価な贖い、そして人間の死などから教えられます。神はことばで命じることによって世界を造られました。けれども世を贖うためには大きな犠牲を払わなければなりませんでした。人間の罪のために、神の御子が人となり、苦しみ多い生涯を送り、そして十字架に釘づけられなければならなかったのです。ユダヤ教の律法にある血による犠牲は、神が罪をどれほどいとわれるかを示しています。そして世は今もなお罪の呪いのもとにあると言わなければなりません。飢饉や病気や災害が世をおおっているからです。
罪のためにどんなに多くの犠牲と苦しみが神と人間にもたらされたかを考えてください。それを思えば、どれほど大きな悲しみをもって罪から潔められなければならないかがわかるはずです。徹底的な悔い改めをするためには、世における最大の罪びとにはどんな悔い改めをしてほしいかを考えるといいでしょう。
あらゆる時代の聖徒たちは自分を最もひどい罪びとと呼んだのでした。真剣に自分を吟味するならば、そういう結論に人は導かれるものなのでしょう。ほかの人の場合はよくわからない、けれどもこの点については自分は罪びとだと言わなければならない・・・そういうものがあなたの中にたくさんあるのではないでしょうか。
自分の罪を正しく知るためには、あなたの生活をほかの人の生活と比べないほうがよいでしょう。外側にあらわれる罪だけを見ていると、自分のほうがまだましだと思うかも知れないからです。自分の罪を知るためには、あなたがどんなに有利な状況にいるかを考えるべきです。あなたは教育を受けています。良い本を読む機会があります。模範となるような優れたキリスト者をあなたは知っています。自分が置かれた環境をあなたほど十分に活用していない人を神は知っているかも知れません。けれどもあなたにはそのことはわからないのです。ほかの人たちよりもどれほど有利な条件が自分に与えられているかを、考えるべきなのです。
もしかして、だれかが神の戒めを破るのを見ることがあるかも知れません。そのときはその人の境遇にあなたがいたらどうなのだらうかと考えるといいでしょう。あなたならばもっとひどい過ちを犯したかも知れないではありませんか。
(「ウィリアム・ローのキリスト者の聖潔」棚瀬訳99頁から。後半の文章は最初わかりにくいと思ったが、イギリス人の「平明」plainにして実際的な処世訓がこのように聖書に裏打ちされたものであることに思い至り感心させられた。言うまでもなく、パウロは「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです、と愛弟子テモテに書いた。)
0 件のコメント:
コメントを投稿