よい知らせ
”福音”ということばは、”神のみことば”、”よいみことば”、あるいは”よい知らせ”という意味をもっています。
福音は、「大いなる喜びのおとずれ」です。この福音ほどよい知らせが天から来たことはかつてありません。この福音ほどよい知らせが人類の耳に響いたことはありません。天使たちがこのおとずれを伝えるために下って来た時、ベツレヘムの野にいたあの羊飼いたちに、なんと言ったでしょうか。「見よ、悲しいおとずれをあなたがたに伝える」と言ったでしょうか。違います!「ごらんなさい、悪い知らせを伝えましょう」と言ったでしょうか。違います!「見よ、すべての民に与えられる大きな喜びをあなたがたに伝える。きょうダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになった」
もし、この羊飼いたちが、今日の多くの人々のようだったら、次のように言ったことでしょう。「われわれはそれをよい知らせだと思わない。全くの興奮剤にしか過ぎない。天使たちはリバイバルを起こそうとしている。われわれを興奮させようとしているのだ。彼らのいうことを信じてはいけない」
これこそ、今悪魔(サタン)の言っていることです。
「福音がよい知らせだと信じてはならない。それはあなたをみじめにするだけだろう」
悪魔(サタン)は、人がよい知らせを信じる瞬間、それを受け入れてしまうことを知っているのです。そのため、悪魔(サタン)の支配下にある者は誰でも、福音がよい知らせであることを実際に信じません。しかし、あの羊飼いたちは、天使の伝えたおとずれを信じたのです。そして彼らの心は喜びに満たされたのでした。
もし、ある少年が誰かのところに一通の至急便を持って行った時、それを受けとって読んでいる人の表情から、どういう便りであったか、知ることができないでしょうか。もし、よい知らせなら、すぐその顔色でわかるでしょう。もし、ルカによる福音書15章にあるように、どこかほかの地に離れている放蕩(とう)息子が帰って来たという知らせなら、おとうさんの顔はぱっと喜びに輝いたと思いませんか。そして、彼はそのよい知らせを奥さんに伝えるでしょう。そして奥さんの顔も、彼の喜びをわけ与えられて輝くことでしょう。
しかし、福音が伝えるおとずれは、もっともっと輝かしいものです。わたしたちは罪過と罪の中に死んでいます。そして、福音は生命を与えます。わたしたちは神に敵対しています。そして福音は和解を与えるのです。この世は暗黒ですが、福音は光をもたらします。福音、つまりキリストが世の光であることを信じようとしないため、世は今暗い中にあるのです。しかし、信じる瞬間、カルバリの光は彼の生涯に流れこみ、曇ることのない光の中を歩むのです。
どういうわけで福音を喜ぶかお話したいと思います。この福音は、わたしがかつて聞いたうち、最もすばらしい知らせであったからです。
わたしが福音を喜んで伝えるのは、それがわたしに非常にすばらしいことをしてくれたからです。誰も福音が何をしてくれたかを語りつくすことはできません。しかし福音が何をとき放ってくれたか、お話することができると思います。福音は私の生涯で最も痛ましい三つの敵を取り除いてくれました。コリント前書15章には、あの恐ろしい罪が語られています。最後の敵は死です。
(『失われた羊を尋ねて』D.L.ムーデー著 湖浜馨編 1960年刊行1〜3頁。小冊子であるこの本はすでに著作権が切れています。当分の間ムーデーのこの小著作を連載させていただくことにします。今日の箇所は助走に過ぎません。その代わり、たっぷりとピンクの薔薇の馥郁とした香を味わってください。)
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