2012年12月14日金曜日

新しくやり直しませんか

庭に咲いた小さい清楚な白薔薇、いかなる貴婦人もこれほどには装っていない!
アドベントの日々である。しかし、O.ハレスビーは今日の霊想で次のように書いている。これもまたアドベントの日々に瞑想するべき大切なことがらのような気がする。(『みことばの糧』岸恵以訳12月14日の記事より引用)

私と私の家とは、主に仕える。(旧約聖書 ヨシュア24・15)

このヨシュアの言葉をそのまま生かして、新しい家庭生活をはじめた人はたくさんあります。

夫と妻は愛しあい、同じ信仰の道をあゆみ、苦しみも悲しみも、すべてのことを分かちあっていました。ともに祈り、ともに聖書に親しみ、ともに讃美し、信仰生活について語りあったりしました。しかし、そのような生活が、やがて跡かたもなく破壊されてしまった場合が多いのです。

家庭の利己主義というものが、頭を出してきたのです。愛する、ということよりも、愛される方に慣れてきたのです。最初は、さ細なことに対しての感謝を忘れる程度だったのが、次第に無遠慮な態度へと変わっていきました。夫婦が、お互いよりも、他人に対している時の方が親切、丁寧で礼儀を重んじるようになりました。そうなると、夫婦はお互いに不機嫌で、あまり話しあわなくなり、意地をはり、強情になりました。

愛は、傷つきやすい、弱い植物です。少しでも世話を怠れば、しおれて、枯れてしまいます。私たちの心に愛があるというだけではいけません。私たちはその愛を、現わさなければならないのです。無口な性質の人には、愛を表現したくないという気持ちが特に強く働きます。彼らの性質が頑固で不自然なために、その愛情は表現しないうちに枯れて死んでしまうのです。これは、特に男性に多いようです。

夫よ。あなたの妻に対して、愛情を示すようになさい。それは単にある特別の公式の場合だけではなく、あなたの日常生活の中にも、あらわしなさい。妻が夫にたより、夫の愛情をいちばんありがたく思うのは、家庭にあって生活している時なのです。そして、あなたが妻を尊び、高く評価しているという事実が、他人に知れることを気にする必要もありません。

愛する妻、あるいは夫の欠点や短所が気になりはじめた時は、それは、愛がためされる時です。家庭生活は親密なものでありますから、私たちはお互いの欠けたところを知るようになるのです。

私にも欠点や短所があります。しかし、私の切なる願いは、多くの欠点があるにもかかわらず、私が家族の者の愛に守られ、彼らの愛によって、私の欠点が矯(た)められていくということであります。そして、もし私が家族の者の欠点に対して怒るようなことがあれば、それは、私の愛情が、どれほど、きたない利己心にそまっているかをあらわすことになるのです。

真の愛に生きる人は、家族の者の欠点を耐え忍んで、ゆるします。が、ただそれだけではなく、欠点を持つ者を、その欠点のゆえに、深い愛で包むのです。

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