庭に咲いた小さい清楚な白薔薇、いかなる貴婦人もこれほどには装っていない! |
私と私の家とは、主に仕える。(旧約聖書 ヨシュア24・15)
このヨシュアの言葉をそのまま生かして、新しい家庭生活をはじめた人はたくさんあります。
夫と妻は愛しあい、同じ信仰の道をあゆみ、苦しみも悲しみも、すべてのことを分かちあっていました。ともに祈り、ともに聖書に親しみ、ともに讃美し、信仰生活について語りあったりしました。しかし、そのような生活が、やがて跡かたもなく破壊されてしまった場合が多いのです。
家庭の利己主義というものが、頭を出してきたのです。愛する、ということよりも、愛される方に慣れてきたのです。最初は、さ細なことに対しての感謝を忘れる程度だったのが、次第に無遠慮な態度へと変わっていきました。夫婦が、お互いよりも、他人に対している時の方が親切、丁寧で礼儀を重んじるようになりました。そうなると、夫婦はお互いに不機嫌で、あまり話しあわなくなり、意地をはり、強情になりました。
愛は、傷つきやすい、弱い植物です。少しでも世話を怠れば、しおれて、枯れてしまいます。私たちの心に愛があるというだけではいけません。私たちはその愛を、現わさなければならないのです。無口な性質の人には、愛を表現したくないという気持ちが特に強く働きます。彼らの性質が頑固で不自然なために、その愛情は表現しないうちに枯れて死んでしまうのです。これは、特に男性に多いようです。
夫よ。あなたの妻に対して、愛情を示すようになさい。それは単にある特別の公式の場合だけではなく、あなたの日常生活の中にも、あらわしなさい。妻が夫にたより、夫の愛情をいちばんありがたく思うのは、家庭にあって生活している時なのです。そして、あなたが妻を尊び、高く評価しているという事実が、他人に知れることを気にする必要もありません。
愛する妻、あるいは夫の欠点や短所が気になりはじめた時は、それは、愛がためされる時です。家庭生活は親密なものでありますから、私たちはお互いの欠けたところを知るようになるのです。
私にも欠点や短所があります。しかし、私の切なる願いは、多くの欠点があるにもかかわらず、私が家族の者の愛に守られ、彼らの愛によって、私の欠点が矯(た)められていくということであります。そして、もし私が家族の者の欠点に対して怒るようなことがあれば、それは、私の愛情が、どれほど、きたない利己心にそまっているかをあらわすことになるのです。
真の愛に生きる人は、家族の者の欠点を耐え忍んで、ゆるします。が、ただそれだけではなく、欠点を持つ者を、その欠点のゆえに、深い愛で包むのです。
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