2012年12月9日日曜日

キリスト者とは祈り合う民なり!

琵琶湖岸(車の中から)2012.12.2
パウロは手紙の中で、各地の教会に対し、またキリスト者個人個人に対して、いつも彼らのことを祈っていると言います。たとえばピリピの教会に「私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し」ていると書きます(ピリピ1・3)。テモテにはこう言います。「私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては・・・神に感謝しています」(2テモテ1・3)初代のキリスト者同士の心を結びつけていたのは単なる人間的な興味や関心でありませんでした。霊的な祝福を分かち合うこと、また互いのために神に祈り、感謝をささげることが彼らを結びつけていたのです。キリスト者同士の愛を見て、世の人たちはすっかり驚いてしまったのです。

ですから自分のために祈るのと同じくらい熱心に、同じくらい度々、ほかの人たちのために祈るべきです。そうするとだんだん広い心を持ち、自分の幸せだけでなく、ほかの人たちの幸せを喜ぶようになるでしょう。ほかのだれかが永遠の幸福を得ることができるようにと祈り求めているならば、この地上でも、その人が少しでもその目標に近づくことができるように、何かを実際にしたいと思うようになるでしょう。病気の人が癒されるように神に祈りながら、その人が必要な薬を手に入れるかどうか気にもしないというのは、奇妙なことに違いないではありませんか。

あらゆるキリスト者を兄弟と考えるべきですけれども、しかし実際にはそのうちのわずかな人たちとの交わりの中でわたしたちは生きることができるだけです。ですからそのような、常に接触する人たちのために、特にとりなしをすべきです。祈りの中で、回りにいる人たちのために役立つ者となることを求めているならば、実際にあなたの隣人に対して親切になることははるかに容易になります。だれかを愛するようになる一番いい方法は、その人のために祈ることです。ある人のために神からの赦しを祈り求めているならば、わたし自身がその人を赦すのも、それほどむずかしくないはずです。このような祈りによって、キリスト者はお互いを霊の家族の一員、また本来の栄光を共に受け継ぐ者と見ることを教えられます。

両親は自分の子どものためにとりなしの祈りをすべきです。たいていのキリスト者は、ごく一般的な意味で子どもを「祝福してくださるように」祈っていると思います。けれどもわたしが言うのは、もっと具体的に子どもの霊的な必要のために祈るということです。そうすると親は自分の言行のすべてについて、前より注意深くなることでしょう。自分たちの実例がその祈りの妨げにならないようにしようと思うからです。

どうしたら人は完全に近づくことができるのでしょうか。自分をいらいらさせる人たち、あるいは敵視している人たちのために、神にとりなしをすることによってである、と言っていいでしょう。たとえばあなたの友人、隣人、あるいは親戚との間に誤解があったとします。考えつく限りの祝福と幸せがその人たちの上にあるようにと神に祈るならば、あなたは自分の心をキリストに信頼する道に戻るのに最も近い道をとったことになります。友だち同士の深い恨みごとは小さな食い違いから起こることが多いのですが、互い同士の祈りはとげだらけの心を和らげるのです。

(「ウィリアム・ローのキリスト者の聖潔」93頁より抜粋引用。今日の箇所も一つ一つ耳の痛いことばかりだ。「あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい」ヤコブ5・16)

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