琵琶湖岸(車の中から)2012.12.2 |
ですから自分のために祈るのと同じくらい熱心に、同じくらい度々、ほかの人たちのために祈るべきです。そうするとだんだん広い心を持ち、自分の幸せだけでなく、ほかの人たちの幸せを喜ぶようになるでしょう。ほかのだれかが永遠の幸福を得ることができるようにと祈り求めているならば、この地上でも、その人が少しでもその目標に近づくことができるように、何かを実際にしたいと思うようになるでしょう。病気の人が癒されるように神に祈りながら、その人が必要な薬を手に入れるかどうか気にもしないというのは、奇妙なことに違いないではありませんか。
両親は自分の子どものためにとりなしの祈りをすべきです。たいていのキリスト者は、ごく一般的な意味で子どもを「祝福してくださるように」祈っていると思います。けれどもわたしが言うのは、もっと具体的に子どもの霊的な必要のために祈るということです。そうすると親は自分の言行のすべてについて、前より注意深くなることでしょう。自分たちの実例がその祈りの妨げにならないようにしようと思うからです。
どうしたら人は完全に近づくことができるのでしょうか。自分をいらいらさせる人たち、あるいは敵視している人たちのために、神にとりなしをすることによってである、と言っていいでしょう。たとえばあなたの友人、隣人、あるいは親戚との間に誤解があったとします。考えつく限りの祝福と幸せがその人たちの上にあるようにと神に祈るならば、あなたは自分の心をキリストに信頼する道に戻るのに最も近い道をとったことになります。友だち同士の深い恨みごとは小さな食い違いから起こることが多いのですが、互い同士の祈りはとげだらけの心を和らげるのです。
(「ウィリアム・ローのキリスト者の聖潔」93頁より抜粋引用。今日の箇所も一つ一つ耳の痛いことばかりだ。「あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい」ヤコブ5・16)
0 件のコメント:
コメントを投稿