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「あす、町の刑務所で囚人たちに説教していただきたいのですが」
承知してその刑務所に行くと、そこには集会室がなく、それぞれのへやに向かって説教しなければなりませんでした。鉄の手すりの所に立って、全く見ることのできない約三、四百人の囚人に向かって、大きな長い狭い廊下をとおして話しました。それは全く難しい仕事でした。わたしはその時まで、なんのかざりもないただの壁に向かって説教したことはありませんでした。
説教が終わってから、いったいどんな人に話していたのか見たいと思いました。また、彼らがどのように福音を受けとったか知りたいと考えました。最初のドアの所に行きました。そこの囚人は一番よく聞くことができたわけです。中をのぞいて見ました。そこでは何人かの人がトランプ遊びをしていました。
「いかがですか」
「そうですね、よけいなことを教えてもらいたくないですね。不正な証人が偽証をしたんだ。それでわたしたちはここにいるんですよ」
ああ、キリストはここの誰も救うことはできません。失われた者はひとりもいないのです。
次のへやに行きました。
「どうですか」
「あれをした男は、わたしとすごく似ていたんだそうです。それでつかまってここに入れられているんです」
彼もまた無罪でした。
次のへやに行きました。
「いかがですか」
「ええ、われわれは悪い仲間にはいっていました。でも、それをやった男が許されて、われわれがここにいるんです」
次のへやに行きました。
「いかがですか」
「来週、裁判です。不利になるものはないので自由になるでしょう」
ほとんどすべてのへやをまわりましたが、答えはいつも同じでした。つまり彼らは何もしていないということでした。ああ、わたしの生涯の中で、こんなにもたくさんの罪のない人がいっしょにいるのを見たことがありません。彼らの考えでは、のろわれるのは治安判事だけでした。これらの人々は、身のまわりに自己義認というきたないボロをまとっていたのでした。このような物語は、六千年も続いたものなのです(※)。わたしは、刑務所のへやからへやをまわって、どの人も口実を持っているのに失望しました。もし、それを持っていなければ、悪魔は彼にそれを作らせるのです。
刑務所をほとんど通り抜けてしまう所で、ひとりの男が両ひざにひじをつき、両手の中に顔をうめているのを発見しました。細いふたすじの涙がほおを伝って流れていました。
「どんな悩みですか」
そう尋ねると、彼は自責と絶望にあふれた顔をあげました。
「ああ、わたしの罪は、耐えられないほどです」
「神さま、感謝します」
「何ですって? あなたは、今説教していたかたでしょうね」
「ええ」
「あなたはわたしの友人だと言いましたね」
「ええ、そうですよ」
「それなのに、どうしてわたしの罪が耐えられないというのを喜んでいるのですか」
「説明しましょう。もし、あなたの罪が耐えられないものであるなら、あなたにかわって負ってくださるかたにそれをまかしてしまいませんか」
「それは誰です」
「主イエスです」
「イエスはわたしの罪まで負ってくれないでしょう」
「どうして?」
「わたしは今までずっとイエスに対して罪を犯して来ました」
「すこしも心配ありません。神の御子イエス・キリストの血が、すべての罪からきよめてくださるのです」
それから、キリストがいかにして失われたものを尋ね救うためにおいでになったかを話しました。刑務所のとびらを開いて囚人を自由にするためにおいでになったことを話したのです。自分が失われた者であることを、信じている人に会うのはすばらしいことです。
(同書29〜32頁より引用。1978年、シンガポールのチャンギー刑務所内に入ったことがあります。その時、所内には主を信じている受刑者がおられるということでしたので、私たちも入り、一緒に主を賛美できたのです。その時にはこのムーデーが話している内容を露とも考えませんでしたが、考えてみるとこれぞ罪人とは何たる者かを語る話だと思い至りました。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。」ルカ4・18※「自己義認」こそ最初の人アダム・エヴァ夫妻が身につけたもので、私たちひとりひとりが受け継いでいる生まれながらの性質です。 イザヤは端的に「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな不潔な着物のようです」64・6と言っています。)
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