2012年12月29日土曜日

罪人を尋ねなさるキリスト(5)

「パリサイ人と取税人」 ギュスターヴ・ドレ 画
わたしはさらに十字架で苦しまれた救い主を教えました。
「キリストは、わたしたちの負債のために苦しまれました。わたしたちの罪のために死に、わたしたちを義と認めるためによみがえられました」。

長い間その人は、あわれな罪人が救われるということを信じませんでした。彼は自分の罪を数え続けていました。わたしは彼に、キリストの血がすべてをおおってくださるのだと話しました。話し終えてからわたしは言いました。
「さあ、祈りましょう」
彼は独房でひざまずき、わたしは廊下でひざまずきました。
「お祈りしてください」
「どうしてですか。わたしがキリストを呼び求めるなんて、神をけがすことです」
「神に祈ってください」

彼はあのみじめな取税人のように声をはりあげて言いました。
「神さま、わたしをあわれんでください。この悪に汚れた罪人をあわれんでください」

小窓をとおして、彼と握手した時、わたしの手に涙が落ちました。悔い改めの涙にわたしの胸はしめつけられるような思いがしました。彼は自分が失われた者であることを認めたのです。それからわたしは、キリストが彼を救おうとしておいでになったということを信じさせようとしました。
彼はなお暗黒の中にいました。
「わたしは九時から十時までホテルであなたのために祈っていますよ」

次の朝、どうしているだろうかと思いながら、シカゴにもどる前にもう一度彼に会おうといたしました。彼の顔に接した時、すでに良心の呵責も、絶望の色も、全く彼から消え去っているのでした。彼の姿は、気高い光にあふれているようでした。失望の涙はぬぐい去られ、喜びの涙が彼の目に光っていました。「義の太陽」が彼の行く道を照らし、彼の魂は喜びにおどっていました。ザアカイのように、彼はキリストを受け入れたのです。
「話してください」
「いつ受け入れたのか知りませんが、真夜中のように思います。長い間苦しんでいましたが、一度にわたしの重荷は取り去られました。ですから、わたしほど幸福な人間はニューヨークにいないと思います」
シカゴを出発してからもどるまで、こんな幸福な人を見たことはありませんでした。彼の顔は天よりの光に輝いていました。わたしは彼と別れましたが、かの国で会えるのを楽しみにしています。

あなたは神の子があの晩、ほかの室は通り過ごしながら、あの室に行ってあの囚人を自由にした理由がわかりますか。それは

あの男が自分は失われた者である
ということを認めたからなのです

失われるということがどういうものであるか知りたいものです。この世はサタンに閉ざされ、眠らされているのです。サタンはアチコチを走りまわっては、人々に失われるという事など、なんでもないのだと告げているのです。わたしは、昔ながらの天国と地獄を信じます。キリストはわたしたちを恐ろしい地獄から救うためにきたのです。地獄へ投げおとされる人は誰でも、この福音の輝きの中に、また神の子のさかれたからだのもとに来なければなりません。

(同書32〜33頁より引用。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」ルカ18・9〜14)

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