「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。」主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。(詩篇4・6)
このようにして主の御顔の光は私たちを救ってくださるのです。
「彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。」(詩篇44・3)ここでは御顔の光は過去の救いの手段として読めますが、
「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」(詩篇42・5)の詩篇作者は将来の助けに対する賞賛を先取りしてうたっています。この二つの詩篇は、現在の救いとなる後者の詩篇を傍注として読むことにより、美しくもつなげられているのです。
「あなたがおられることが救いです」そのあとに平安が続くのです。主が私たちの上に御顔の光を照らし、私たちに平安を賜わる時、波は静められ、嵐を呼ぶ雲は音もなく、急速に、確実に逃げ去っていきます。なぜならこの主の御顔の照らしこそ主のかえりみが光り輝く前面であるからです。渋面にかわる笑顔としてです。
私たちが主の光の中を歩く時、平安は喜びへと成長し、御顔を見ていつでもどこでも非常な喜びを経験することでしょう。その間、一足歩むごとに私たちはキリスト御自身のよみがえりの喜びに近づけられ、主とともに、「あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。」(使徒2・28)と言うことができます。
私たちは日々、王なる方の御顔の光のうちに聖め、救い、平安、そして喜びを体験できるのです。こういうことがいのち、生まれ変わった新しいいのち、王なる方のこどもとしての喜ばしいいのちを構成するのではないでしょうか。
主の祝福の満たしが私たちを取り囲み、
主の約束の満たしが輝ける日ごとに冠となります。
主の栄光の満たしは上からの輝き、
私たちはますます主の愛の満たしを実感するのです。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-31-look-full-in-his-wonderful-face/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97195です。
フランシスは18歳の時Worcester Cathedralで堅信礼〈※註〉を受けたが、その時のことは彼女に深い聖なる印象となって残った。「ああ主よ、このあなた様の子がとこしえまであなた様にとどまり続けるようにあなた様の天来の恵みをもって守りたまえ」ということばが司祭により彼女の頭上で重々しく宣言された時、「私の心が真剣な願いで打ち震えており、純粋な喜びをともなうものでなかったとしても、『とこしえまであなた様を(愛する)』ということばにあってなされたこと」であったと(語っている)。
※註 ヨーロッパの制度教会が信仰の確信を保証するために設けた仕組み。しかし、聖書を読む時、そのようなことは一切記されていない。主イエス様を自分の救い主として受け入れるだけで十分である。そこに宗教としてのキリスト教と「信仰」との大きな違いがある。「信仰」は外形、儀式などでなく、私たちが主イエス様との心からの交わりを持っているかどうかが大切である。)
2016年1月31日日曜日
2016年1月30日土曜日
「幾重にも折り畳まれた」報酬※
王はどうして、そのような報酬を、この私にしてくださらなければならないのでしょうか。(2サムエル19・36)
バルジライはダビデ王が王都から追放され、マハナイムにいた間、王を養っていました。ダビデが戦に勝利し都にもどる日が来た時、王はバルジライに言いました。「私といっしょに渡って行ってください。エルサレムで私のもとであなたを養いたいのです」(2サムエル19・33)
これは報酬でありました。しかし、王に仕えたこの老人にとって、あまりにも大きな特権であり喜びであったに違いありません。そうです。婦人たちのように、持てるもので天から下られた王に仕えていた者たちにとって、王の近くに侍ることはどんなにか継続する喜びであったに違いないからです。
人はその奉仕による分け前をどれだけか求めたことがあったでしょうか。なぜ王は私にそのような報酬をくださらなければならないのでしょう。なぜあなたのしもべがあなたとともに王都に住めるのでしょうか。なぜなら、主の愛と報酬との間には美しい釣り合いがあるとしても、働きと報酬の間には大変な不釣り合いがあるからです。
しかしそのうちには美しいまでの一致があるのです。主に食事を与えた人々にとっては、永続的な喜びというごちそう。飲み水を与えた人々にとっては、主の喜びという川。身寄りのない人を泊まらせた人々には、天の父の住まい。。裸の人に着せる物を与えた人々には、白い衣。病人を訪ねた人々には、いのちともはや苦しみのない木。囚人を訪れに来た人々には、栄光ある自由。主のためにその悲しみ苦しみをともにすることに満足する人々にとっては、繰り返される約束「私といっしょに」(2サムエル19・33他)をとおして与えられるすべての冠であります。なぜこんなものがすべて与えられるのでしょうか。私たちがそのことを永遠に求めつづけるためだと思います。
栄光の王に私は何をさしだしましょうか
私はあなたからいただいたもの以外持っておりません。
私がさしだすものは、あなたが私にもどされ、御手によって変えられ
それぞれ価値のないものが宝石や金に変えられたのです。
そしてあなたの祝福によって1000倍に増えました。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-30-a-limitless-fold-return/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97194です。※標題の原語はA "Limitless Fold" Returnであるが文意をとり冒頭の訳にした。
ウェールズでは、日曜礼拝に参加するのに困らない程度の十分なウェールズ語を朴訥な少女から習い覚えた。海岸に出れば船舶のことを知ろうと夢中になった。また本を読んで独学で和声学を学んだ。さらに彼女は司祭の聖書クラスに最年少のこどもとともに参加することに満足し、よく、司祭の教えから引き出される喜びや利益を参考にしたりしていた。)
バルジライはダビデ王が王都から追放され、マハナイムにいた間、王を養っていました。ダビデが戦に勝利し都にもどる日が来た時、王はバルジライに言いました。「私といっしょに渡って行ってください。エルサレムで私のもとであなたを養いたいのです」(2サムエル19・33)
これは報酬でありました。しかし、王に仕えたこの老人にとって、あまりにも大きな特権であり喜びであったに違いありません。そうです。婦人たちのように、持てるもので天から下られた王に仕えていた者たちにとって、王の近くに侍ることはどんなにか継続する喜びであったに違いないからです。
人はその奉仕による分け前をどれだけか求めたことがあったでしょうか。なぜ王は私にそのような報酬をくださらなければならないのでしょう。なぜあなたのしもべがあなたとともに王都に住めるのでしょうか。なぜなら、主の愛と報酬との間には美しい釣り合いがあるとしても、働きと報酬の間には大変な不釣り合いがあるからです。
しかしそのうちには美しいまでの一致があるのです。主に食事を与えた人々にとっては、永続的な喜びというごちそう。飲み水を与えた人々にとっては、主の喜びという川。身寄りのない人を泊まらせた人々には、天の父の住まい。。裸の人に着せる物を与えた人々には、白い衣。病人を訪ねた人々には、いのちともはや苦しみのない木。囚人を訪れに来た人々には、栄光ある自由。主のためにその悲しみ苦しみをともにすることに満足する人々にとっては、繰り返される約束「私といっしょに」(2サムエル19・33他)をとおして与えられるすべての冠であります。なぜこんなものがすべて与えられるのでしょうか。私たちがそのことを永遠に求めつづけるためだと思います。
栄光の王に私は何をさしだしましょうか
私はあなたからいただいたもの以外持っておりません。
私がさしだすものは、あなたが私にもどされ、御手によって変えられ
それぞれ価値のないものが宝石や金に変えられたのです。
そしてあなたの祝福によって1000倍に増えました。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-30-a-limitless-fold-return/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97194です。※標題の原語はA "Limitless Fold" Returnであるが文意をとり冒頭の訳にした。
ウェールズでは、日曜礼拝に参加するのに困らない程度の十分なウェールズ語を朴訥な少女から習い覚えた。海岸に出れば船舶のことを知ろうと夢中になった。また本を読んで独学で和声学を学んだ。さらに彼女は司祭の聖書クラスに最年少のこどもとともに参加することに満足し、よく、司祭の教えから引き出される喜びや利益を参考にしたりしていた。)
2016年1月29日金曜日
あなたの心を主で満たしなさい。
ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います。(詩篇63・6)
Memory is never so busy as in the quiet time while we are waiting for sleep; and never, perhaps, are we more tempted to useless recollections and idle reveries than in the night watches. Perhaps we have regretfully struggled against them; perhaps yielded to effortless indulgence in them and thought we could not help it and were hardly responsible for vain thoughts at such times.
(主を)思い出すことにおいて眠りにつく前の静かな時ほど活発な時はありません。だから夜ふけよりも無用な追憶や怠惰な夢想に誘惑されることは決してないでしょう。残念ながら、私たちは追憶や夢想と戦った経験が過去にあるでしょう。それらのなすがままであり、そうならざるを得ないと考え、そのような時には空しい考えに対してほとんど無防備であったことでしょう。
しかし、ここに十分な助けと輝ける希望があります。今晩私たちは「主を思い出し」ましょう。すでに知っていることを思い出すことだけならできるでしょう。ああ、主をほめあげましょう。私たちは思い出のための材料を持っているのですから。
生涯におけるあらゆる眠れない夜にとって、一語の「あなたを」で十分です。その一語はまっすぐに「ご自身」のところに連れて行ってくれます。その一語「あなたを」にとどまれば、信仰、希望、愛は目ざめ、養われ、成長します。
主の御霊は主のことばの上に輝き、まことにみことばを甘いものにします。
ちょうど私が読むたびに、私のそばにかかげられている輝けるランプのように。
そしてみことばは私の心を床の上で一人にしてくれます。
私の心の内側から戸外にあるあらゆるものまで、神の愛は注がれるのです。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-29-fill-your-mind-with-him/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97193です。今日の第一段落は何度英文を読んでも理解不能の個所でありましたが、読者より適切な助言をいただき上記の訳に変えました。ただそれでも意味が不鮮明でありますので英文を併記しました。なおスポルジョンの「夕ごとに」はノアの箱舟に帰る鳩が、箱舟の屋根に帰ってくるのでなく、ノアのふところに帰ってこそ安心する例The dove came in to him in the evening.を用いて、実に鮮明な表現をしています。関心のある方は是非そちらのほうもご覧になることをお勧めします。
数ヶ月して父は再婚した。フランシスは詩に自分の愛の思いを表した。両親と一緒にドイツに行き、デュッセルドルフの学校に出席し、「ドイツ語で考える」訓練を受けた。110人いる中でトップの成績であったが、早期教育がかなり例外的であった一人のイギリス人少女にとっては小さくない成果であった。
彼女の知識欲は生涯を通じてのものだった。彼女は新約聖書全巻と詩篇、イザヤ書、小預言書を諳んじることに全力を傾けた。彼女の学びは、ほとんどの場合、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語、ギリシャ語、それにヘブル語の修得だった。)
Memory is never so busy as in the quiet time while we are waiting for sleep; and never, perhaps, are we more tempted to useless recollections and idle reveries than in the night watches. Perhaps we have regretfully struggled against them; perhaps yielded to effortless indulgence in them and thought we could not help it and were hardly responsible for vain thoughts at such times.
(主を)思い出すことにおいて眠りにつく前の静かな時ほど活発な時はありません。だから夜ふけよりも無用な追憶や怠惰な夢想に誘惑されることは決してないでしょう。残念ながら、私たちは追憶や夢想と戦った経験が過去にあるでしょう。それらのなすがままであり、そうならざるを得ないと考え、そのような時には空しい考えに対してほとんど無防備であったことでしょう。
しかし、ここに十分な助けと輝ける希望があります。今晩私たちは「主を思い出し」ましょう。すでに知っていることを思い出すことだけならできるでしょう。ああ、主をほめあげましょう。私たちは思い出のための材料を持っているのですから。
生涯におけるあらゆる眠れない夜にとって、一語の「あなたを」で十分です。その一語はまっすぐに「ご自身」のところに連れて行ってくれます。その一語「あなたを」にとどまれば、信仰、希望、愛は目ざめ、養われ、成長します。
主の御霊は主のことばの上に輝き、まことにみことばを甘いものにします。
ちょうど私が読むたびに、私のそばにかかげられている輝けるランプのように。
そしてみことばは私の心を床の上で一人にしてくれます。
私の心の内側から戸外にあるあらゆるものまで、神の愛は注がれるのです。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-29-fill-your-mind-with-him/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97193です。今日の第一段落は何度英文を読んでも理解不能の個所でありましたが、読者より適切な助言をいただき上記の訳に変えました。ただそれでも意味が不鮮明でありますので英文を併記しました。なおスポルジョンの「夕ごとに」はノアの箱舟に帰る鳩が、箱舟の屋根に帰ってくるのでなく、ノアのふところに帰ってこそ安心する例The dove came in to him in the evening.を用いて、実に鮮明な表現をしています。関心のある方は是非そちらのほうもご覧になることをお勧めします。
数ヶ月して父は再婚した。フランシスは詩に自分の愛の思いを表した。両親と一緒にドイツに行き、デュッセルドルフの学校に出席し、「ドイツ語で考える」訓練を受けた。110人いる中でトップの成績であったが、早期教育がかなり例外的であった一人のイギリス人少女にとっては小さくない成果であった。
彼女の知識欲は生涯を通じてのものだった。彼女は新約聖書全巻と詩篇、イザヤ書、小預言書を諳んじることに全力を傾けた。彼女の学びは、ほとんどの場合、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語、ギリシャ語、それにヘブル語の修得だった。)
2016年1月28日木曜日
神様の与えてくださる喜びを楽しむこと
私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神(1テモテ6・17)
「豊かに」。まさしく豊かにです。もしもあなたが神様の贈り物の半分を書きとめようとするなら、あなたの手は全部書き終えるまでにくたびれ果てることでしょう。あなたは他の人によって与えられた贈り物のリストは容易に上げることができるかもしれませんが、神様が毎日あなたの生活に与えてくださるもののリストは作れないでしょう。
「すべての物」。すべての物をあなたはほんとうに必要としています。それに加えてもっと多くのものもです。あなたを良くするすべての物、あなたがかつて考えていたよりもはるかに多くの物です。すべての物を神様はあなたの両手に満たすことがおできになり、あなたを信頼して、つまずくこともなく、落とされることなく運ぶことがおできになるのです。すべての物、あなたが持っているすべての物がそうなのです。
「楽しむこと」。さあ、これはどんな種類の楽しみでしょうか。私たちを良くするためにだけでなく、楽しむためにということです。神様があなたに与えるものは幸せであって、憂鬱になったり悲しむためではありません。もし、あなたが神様が与えてくださるものを楽しまないなら、それはあなた自身の欠点となります。なぜなら、神様はそれを楽しむように計画しておられたからです。神様に対して輝くばかりの笑顔で見あげ、楽しむためにすべてのものを豊かに与えてくださった方に感謝しなさい。
私の数々の喜びをあなたにおささげします
喜びはあなたの愛が与えられしもの
それぞれが翼となることでしょう
私を天国により近く引き上げるために
私は喜びをおささげします。救い主のあなた様に、すべて。
あなたのご命令によりすべては私のために支払われたものですから。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-28-enjoying-gods-joys/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97192です。昨日の夜の家庭集会のベック兄の引用聖句は1テサロニケ5・16〜18であり、「いつも」「絶えず」「すべて」のことについて「喜び」、「祈り」、「感謝」することが勧められた。上述の霊想と共通する。ちなみに昼間の引用聖句は1コリント16・13〜14であり、かなり厳しい警告であった。
英国の全寮制学校に入り、彼女はそこで「キリストにある信仰と望みを意識し」始めるようになった。「その一年半は私の生涯にあっていかなるときよりももっとも大切な時でなかったのでないか」そして、15歳の誕生日を終えてすぐ次のように書いている。「私は全生涯を救い主にささげた・・・地と天の御国はその瞬間から今までよりもっと輝くものとなった」 )
「豊かに」。まさしく豊かにです。もしもあなたが神様の贈り物の半分を書きとめようとするなら、あなたの手は全部書き終えるまでにくたびれ果てることでしょう。あなたは他の人によって与えられた贈り物のリストは容易に上げることができるかもしれませんが、神様が毎日あなたの生活に与えてくださるもののリストは作れないでしょう。
「すべての物」。すべての物をあなたはほんとうに必要としています。それに加えてもっと多くのものもです。あなたを良くするすべての物、あなたがかつて考えていたよりもはるかに多くの物です。すべての物を神様はあなたの両手に満たすことがおできになり、あなたを信頼して、つまずくこともなく、落とされることなく運ぶことがおできになるのです。すべての物、あなたが持っているすべての物がそうなのです。
「楽しむこと」。さあ、これはどんな種類の楽しみでしょうか。私たちを良くするためにだけでなく、楽しむためにということです。神様があなたに与えるものは幸せであって、憂鬱になったり悲しむためではありません。もし、あなたが神様が与えてくださるものを楽しまないなら、それはあなた自身の欠点となります。なぜなら、神様はそれを楽しむように計画しておられたからです。神様に対して輝くばかりの笑顔で見あげ、楽しむためにすべてのものを豊かに与えてくださった方に感謝しなさい。
私の数々の喜びをあなたにおささげします
喜びはあなたの愛が与えられしもの
それぞれが翼となることでしょう
私を天国により近く引き上げるために
私は喜びをおささげします。救い主のあなた様に、すべて。
あなたのご命令によりすべては私のために支払われたものですから。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-28-enjoying-gods-joys/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97192です。昨日の夜の家庭集会のベック兄の引用聖句は1テサロニケ5・16〜18であり、「いつも」「絶えず」「すべて」のことについて「喜び」、「祈り」、「感謝」することが勧められた。上述の霊想と共通する。ちなみに昼間の引用聖句は1コリント16・13〜14であり、かなり厳しい警告であった。
英国の全寮制学校に入り、彼女はそこで「キリストにある信仰と望みを意識し」始めるようになった。「その一年半は私の生涯にあっていかなるときよりももっとも大切な時でなかったのでないか」そして、15歳の誕生日を終えてすぐ次のように書いている。「私は全生涯を救い主にささげた・・・地と天の御国はその瞬間から今までよりもっと輝くものとなった」 )
2016年1月27日水曜日
神が私たちの代りとされる時
皆さんをお迎えするクリスマスローズ※ |
剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、わたしの仲間の者を攻めよ。――万軍の主の御告げ。――牧者を打ち殺せ。(ゼカリヤ13・7)
無能な敵の手でなく、全能の万軍の主の鋭い剣が羊飼いを打つために振り上げられた。このお方は私たちの飼い主なる王、偉大なるお方、中心となるお方、善なるお方(原語で言えば美なるお方)である。
「神による打擲(ちょうちゃ)、殴打」ということばを考えてみよ。
それらが推し量ることのできない激情、しかも私たちが愛しているイエス様の激情、真っ暗い激情の深さだけを推し量ることができる。「イエス様は神様に打たれた」
私たちはそのことばを口にする時、これに比べればもはや他のどんな悲しみも私たちを動かさないほどに、感情は激しないだろうか。萎縮してそこから離れることがないようにしよう。むしろ今でも、この恐ろしい鞭打ちが、まことに、十字架にかかられているお方を見つめて、私たちの心のうちに「さあ、あなたがたの王です。」(ヨハネ19・14)というささやきであったことを、聖霊が少しでも示してくださるように求めよう。私たちの愛する主イエス・キリストがご自身と父なる神様の愛であることを示してくださるようにと祈り求めよう。
私たちは遠く離れて立ち、頭を垂れ、ふるえる愛で沈黙し得るのみだ。その時、イエス様の上にしなる恐ろしい鞭は聞いている百人隊を通してこだまとなって降りて来る。一方、癒された人々の心の動悸は答える、「わたしのためだ! わたしのためだ!」「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。」(イザヤ63・3)
わたしはあなたがたのために痛めつけられた
あなたがたの舌が発することのできる
もっともひどい苦悶の何よりもひどい苦痛で
あなたがたを地獄から救い出すために
わたしはあなたがたのために痛めつけられた
あなたがたは私のために何に耐えることができるか
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-27-when-god-meets-our-substitute/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97191です。やはり難解な個所でした。しかし十字架をとおして語ろうとするハヴァガルの霊想は英文を越えて私たちの心の中心に伝わってくる思いがします。
フランシスが12歳の誕生日を迎える少し前、彼女の母は主のみもとに召されていった。フランシスはこの大きな悲しみに対して全く備えがなかった。しかし召される前に娘に言い送ったことばがある。「かわいいファニーよ、どんなことでも神様があなたを備えてくださるように祈りなさい。すべてのことは、神様があなたのために用意してくださることなのよ。 」このことばは終生フランシスの祈りとなった。
なぜなら、この「準備」こそ彼女の全人生を貫くものとなったからである。一つの水平線に達すると、必ず前方にまた別の水平線が伸びていた。そのようにしてそれぞれの出来事があとに続くものを備えるのだった。
※今日は家庭集会の日。今年は珍しく玄関先にクリスマスローズがいち早く白い花を咲かせた。いつもなら、庭先に紫色の花が咲いて春の音ずれを意識するのだが・・・。高校時代の同窓生が年末の同期会の写真を送ってくださった。立春を意識したお便りであった。細かい心配りに感謝する。)
2016年1月26日火曜日
あなたがたはもっと多くの証拠を必要としているのですか。
「わたしはあなたがたを愛している。」と主は仰せられる。(マラキ1・2)
こういうことばは私たちが予期しているものとどれほどちがっていることでしょうか。私たちは神様が「もしあなたがわたしを愛するなら、わたしはあなたを愛する」とおっしゃるように予想していたのではないでしょうか。
でも、そうじゃないのです。主はおっしゃいます。「わたしはあなたがたを愛している。」そうなんです。主はみじめで愛されることをひたすら求めてやまないあなたがたを以前から愛しておられたのです。主は今あなたがたを愛しておられるだけでなく、これからもつねに愛してくださいます。けれども、あなたがたは言うのです。「私は神様が私を愛しておられるかどうかを知りたいのです」
なぜですか。主はあなたがたに「わたしはあなたがたを愛している。」とおっしゃっているのですよ。この上、主は何を言うことができるでしょうか。
「『わたしはあなたがたを愛している。』と主は仰せられる。」とあります。そのことは真実です。あなたがたが信じて喜び、どんなに喜んでいるかを主にお伝えすることだけが必要なのです。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5・8)
主は善良な人に対しては何も仰らないが、あなたがたが罪人であった時、あなたがたを大層愛し、それゆえに神様は主イエス様、ご自身の御子をあなたがたの代わりに死なせるために遣わしたとおっしゃっているのです。神様はそれ以上何がおできになるいうのでしょう。神様は同じことをマラキ1・2で言っておられます。「あなたがたは言う。『どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。』と。」
「どのように」と言うのですか。ああ、それなら、このようにですよ。あなたがたが神様を愛したのでなく、神様があなたがたを愛して御子を送りあなたがたの代わりに(十字架上で)苦しめられたのです。考えても見なさい。その質問に対して、どれだけ多くの答をあなたがたは見出すことができることでしょうか。
「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」見てください。どんなに多くの証拠をあなたがたは数え上げることができることでしょうか。「『わたしはあなたがたを愛している。』と主は仰せられる。」という、このやわらかくも安全な枕(※)のもとにあなたの重荷を下ろしなさい。
あなたはわたしのもの。だから恐れてはいけない。
今やとこしえにわたしのもの。炎は決してあなたに燃えつかない。
あなたは高価なもの。それゆえ恐れてはいけない。わたしにとって高価だ。
わたしはあなたをわたしの栄光とした。わたしはあなたを愛している。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-26-do-you-need-more-proof/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97190です。
※pillowと言うのはハヴァガルの遺愛のことばのような気がする。なぜなら彼女が子ども向けにあらわした名品にLittle Pillowsがあるからである。この作品は我が国でもすでに大正4年に翻訳されている。国会図書館のデジタル・ライブラリーで自由に閲覧できるのでご覧になられてはいかがだろうか。どなたかが、美しい今の日本語に翻訳されんことを願う。
「多くの人が私の人生は比較的苦痛のない道だと思っていた」と後年彼女は書いたが「しかし、その道はもっとも順調な時でもよく内側には苦痛が隠されていた・・・」とある。この純粋な生き方を求める深い願いは、絶えず信仰後退という考えによって、心乱されたが、彼女を訓練し、彼女の書き物にあらわされた献身の証拠となり、無数の人々の手助けとなる同情心を養うことになった。
1845年に一家はハヴァガル氏が聖ニコラス教区の牧師として指名されたので、Worcesterに移ることになった。フランシスはやっと10歳になるばかりであったが、自分よりはもっと幼い子どもたちのいる日曜学校で教え始めた。そして気の合った仲間と「フランネル・ペティーコート・クラブ」を組織した。この団体については彼女が子ども向きに発行した数少ない書物の一つである『4日間にわたる幸せな日々』という本の中で述べている。)
こういうことばは私たちが予期しているものとどれほどちがっていることでしょうか。私たちは神様が「もしあなたがわたしを愛するなら、わたしはあなたを愛する」とおっしゃるように予想していたのではないでしょうか。
でも、そうじゃないのです。主はおっしゃいます。「わたしはあなたがたを愛している。」そうなんです。主はみじめで愛されることをひたすら求めてやまないあなたがたを以前から愛しておられたのです。主は今あなたがたを愛しておられるだけでなく、これからもつねに愛してくださいます。けれども、あなたがたは言うのです。「私は神様が私を愛しておられるかどうかを知りたいのです」
なぜですか。主はあなたがたに「わたしはあなたがたを愛している。」とおっしゃっているのですよ。この上、主は何を言うことができるでしょうか。
「『わたしはあなたがたを愛している。』と主は仰せられる。」とあります。そのことは真実です。あなたがたが信じて喜び、どんなに喜んでいるかを主にお伝えすることだけが必要なのです。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5・8)
主は善良な人に対しては何も仰らないが、あなたがたが罪人であった時、あなたがたを大層愛し、それゆえに神様は主イエス様、ご自身の御子をあなたがたの代わりに死なせるために遣わしたとおっしゃっているのです。神様はそれ以上何がおできになるいうのでしょう。神様は同じことをマラキ1・2で言っておられます。「あなたがたは言う。『どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。』と。」
「どのように」と言うのですか。ああ、それなら、このようにですよ。あなたがたが神様を愛したのでなく、神様があなたがたを愛して御子を送りあなたがたの代わりに(十字架上で)苦しめられたのです。考えても見なさい。その質問に対して、どれだけ多くの答をあなたがたは見出すことができることでしょうか。
「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」見てください。どんなに多くの証拠をあなたがたは数え上げることができることでしょうか。「『わたしはあなたがたを愛している。』と主は仰せられる。」という、このやわらかくも安全な枕(※)のもとにあなたの重荷を下ろしなさい。
あなたはわたしのもの。だから恐れてはいけない。
今やとこしえにわたしのもの。炎は決してあなたに燃えつかない。
あなたは高価なもの。それゆえ恐れてはいけない。わたしにとって高価だ。
わたしはあなたをわたしの栄光とした。わたしはあなたを愛している。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-26-do-you-need-more-proof/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97190です。
※pillowと言うのはハヴァガルの遺愛のことばのような気がする。なぜなら彼女が子ども向けにあらわした名品にLittle Pillowsがあるからである。この作品は我が国でもすでに大正4年に翻訳されている。国会図書館のデジタル・ライブラリーで自由に閲覧できるのでご覧になられてはいかがだろうか。どなたかが、美しい今の日本語に翻訳されんことを願う。
「多くの人が私の人生は比較的苦痛のない道だと思っていた」と後年彼女は書いたが「しかし、その道はもっとも順調な時でもよく内側には苦痛が隠されていた・・・」とある。この純粋な生き方を求める深い願いは、絶えず信仰後退という考えによって、心乱されたが、彼女を訓練し、彼女の書き物にあらわされた献身の証拠となり、無数の人々の手助けとなる同情心を養うことになった。
1845年に一家はハヴァガル氏が聖ニコラス教区の牧師として指名されたので、Worcesterに移ることになった。フランシスはやっと10歳になるばかりであったが、自分よりはもっと幼い子どもたちのいる日曜学校で教え始めた。そして気の合った仲間と「フランネル・ペティーコート・クラブ」を組織した。この団体については彼女が子ども向きに発行した数少ない書物の一つである『4日間にわたる幸せな日々』という本の中で述べている。)
2016年1月25日月曜日
彼のものは私たちのものであるということ
牛久市中央生涯学習センター※ |
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。(ヨハネ15・5)
なぜ、樹液はぶどうの木から枝へ流れるのか。簡単に言えば、枝がぶどうの木につながっているからだ。それで樹液がその性質の法則そのものによって流れ込むのだ。
それと同じように、信仰によって私たちが主イエスに結びつけられていれば、主イエスのものである樹液は私たちのものとなり、霊的ないのちの法則そのものによって私たちの内に流れ込むのだ。もし妨害がなければまことに川のように流れるであろう。では、そのような賜物が流入するために、あらゆる障害を除去するには、どのように熱心に求めるべきなのだろうか。
主がその道筋を明らかにしてくださり、あらゆる不信仰、あらゆる自我、流れの中に隠されているあらゆる目詰まりを除去してくださるように祈ろう。そうすれば七倍の祝福が与えられるであろう。主の平安、主の喜び、主の愛は、直ちにそして常に、また今からとこしえに与えられる。天を目ざす旅に必要とする主の恵み、そして主の力、さらには主とともにとこしえに崇高で甘美な生活を味わうための主の安息と主の栄光が与えられる。
私たちの救い主イエス・キリストの父なる神に祝福がありますように
誰か、このような、数え上げることもできず、また金額であらわし得ないほどの、ありとあらゆる祝福をもって私たちを祝福した者があったでしょうか
私たちの気高くも聖なる召しと私たちへの力強い救いは
あなたに向かう、絶えることのない讃美、絶対的な恵みをほどこされる神の中心となりましょう。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-25-what-is-his-is-ours/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97189です。
フランシスは落胆したり敗北感を味わって「野卑な喜び」に浸っている時でも、早くからクリスチャンになることが人生のもっとも望ましいことだと確信していた。彼女は後年、自分の幼い頃の霊的な体験を率直に語った。その経験が明らかになる時、他の人の手助けになるかも知れないと思ったからだが、当時はそのことについて誰か他の人に一言でも話するなら、「サンスクリット語を話していると思われた」ほどだった。
このことを黙っていたために彼女はよく誤解された。姉妹達でさえ、この彼女の内的な葛藤を知らなかった。彼女の生まれつきの陽気な性格により、部屋の中で泣き崩れていても、陽気に笑い転げたり、突然快活になって階段を上り下りできたからだった。
※昨日は今冬もっとも寒い日となったが、関東はどこも空は晴れ渡っていたようだ。自然は豊かでないが、会館を出て眼前に見えるこの設計空間はなぜか気にいっている。「ぶどうの木 つながる枝の 豊かさよ 小なるとも 互い覚ゆる」)
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