「わたしはあなたがたを愛している。」と主は仰せられる。(マラキ1・2)
こういうことばは私たちが予期しているものとどれほどちがっていることでしょうか。私たちは神様が「もしあなたがわたしを愛するなら、わたしはあなたを愛する」とおっしゃるように予想していたのではないでしょうか。
でも、そうじゃないのです。主はおっしゃいます。「わたしはあなたがたを愛している。」そうなんです。主はみじめで愛されることをひたすら求めてやまないあなたがたを以前から愛しておられたのです。主は今あなたがたを愛しておられるだけでなく、これからもつねに愛してくださいます。けれども、あなたがたは言うのです。「私は神様が私を愛しておられるかどうかを知りたいのです」
なぜですか。主はあなたがたに「わたしはあなたがたを愛している。」とおっしゃっているのですよ。この上、主は何を言うことができるでしょうか。
「『わたしはあなたがたを愛している。』と主は仰せられる。」とあります。そのことは真実です。あなたがたが信じて喜び、どんなに喜んでいるかを主にお伝えすることだけが必要なのです。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5・8)
主は善良な人に対しては何も仰らないが、あなたがたが罪人であった時、あなたがたを大層愛し、それゆえに神様は主イエス様、ご自身の御子をあなたがたの代わりに死なせるために遣わしたとおっしゃっているのです。神様はそれ以上何がおできになるいうのでしょう。神様は同じことをマラキ1・2で言っておられます。「あなたがたは言う。『どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。』と。」
「どのように」と言うのですか。ああ、それなら、このようにですよ。あなたがたが神様を愛したのでなく、神様があなたがたを愛して御子を送りあなたがたの代わりに(十字架上で)苦しめられたのです。考えても見なさい。その質問に対して、どれだけ多くの答をあなたがたは見出すことができることでしょうか。
「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」見てください。どんなに多くの証拠をあなたがたは数え上げることができることでしょうか。「『わたしはあなたがたを愛している。』と主は仰せられる。」という、このやわらかくも安全な枕(※)のもとにあなたの重荷を下ろしなさい。
あなたはわたしのもの。だから恐れてはいけない。
今やとこしえにわたしのもの。炎は決してあなたに燃えつかない。
あなたは高価なもの。それゆえ恐れてはいけない。わたしにとって高価だ。
わたしはあなたをわたしの栄光とした。わたしはあなたを愛している。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-26-do-you-need-more-proof/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97190です。
※pillowと言うのはハヴァガルの遺愛のことばのような気がする。なぜなら彼女が子ども向けにあらわした名品にLittle Pillowsがあるからである。この作品は我が国でもすでに大正4年に翻訳されている。国会図書館のデジタル・ライブラリーで自由に閲覧できるのでご覧になられてはいかがだろうか。どなたかが、美しい今の日本語に翻訳されんことを願う。
「多くの人が私の人生は比較的苦痛のない道だと思っていた」と後年彼女は書いたが「しかし、その道はもっとも順調な時でもよく内側には苦痛が隠されていた・・・」とある。この純粋な生き方を求める深い願いは、絶えず信仰後退という考えによって、心乱されたが、彼女を訓練し、彼女の書き物にあらわされた献身の証拠となり、無数の人々の手助けとなる同情心を養うことになった。
1845年に一家はハヴァガル氏が聖ニコラス教区の牧師として指名されたので、Worcesterに移ることになった。フランシスはやっと10歳になるばかりであったが、自分よりはもっと幼い子どもたちのいる日曜学校で教え始めた。そして気の合った仲間と「フランネル・ペティーコート・クラブ」を組織した。この団体については彼女が子ども向きに発行した数少ない書物の一つである『4日間にわたる幸せな日々』という本の中で述べている。)
2016年1月26日火曜日
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