寒桜※ (東海道線興津駅構内 2016.1.16) |
キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。(1ペテロ3・22)
主は実に、私たちが全然統治できないでいるこの内的な世界にあって、万物をご自身で支配することがおできになるのです。私たちはとても喜んで、主をみことばによって理解し、御手にその統治をおゆだねします。主が行為そのものをとおして私たちの王となられ、長い間(私たちから)妨げられ引き離されていた砦のうちに、ご自身が平和の君として即位されるのを乞い願い、主がすべての考えを虜にし、ご自身のやさしい従順へと導いてくださるように祈ります。
私たちはこれまで、十分な叛逆を経験し、暴君であり謀反人であり、無法と自分をがんじがらめにしばる法のとりこでした。別の神々(ああ、それはどんなに多かったことでしょう)が私たちを支配していました。主はかつては私たちが神々の奴隷であることを許しておられましたが、今や対照的に祝福とくつろぎによって主を礼拝するようにしてくださっています。
今や私たちだけが「別の王、一人のイエス」を求めているのです。主は私たちがご自身の力を明らかにされる日、すでに私たちをみそなわしていてくださったのです。それが主の統治の始まりでした。そしてその証拠は私たちの心のうちに、「主の支配と平和がいやましに増し加えられ、今やその終りがない」ということでした。
私を治めてください。主イエス様、ああ、私の心にお入りください。
私の心はとこしえにあなたのものです。あなただけのものです。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-19-his-place-by-right/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97183です。今回訳出は大変難航しました。すでに邦訳は出ており、今私の手許にないだけでありますので、何ヵ月か後に私の手許に帰って来ますが、その時その方の訳を見ると多分赤恥をかくこと請け合いだと思います。読者諸氏は原文を確かめられますことを切にお願いします。土曜日に出かけ、昨日こちらに戻ってきたが、車中このブログでも何度か紹介しているロセニウスの『あらしと平安』を再読し、律法と福音の関連について深く考えさせられた。ハヴァガルの描こうとした世界とは無関係でないことを今にして知る。コロサイ2・15、ガラテヤ5・1も覚えたい。
※一方、車内から見る景色は、改めて日本という国が南北に長く東西に広いことを思わしめられた。冒頭の写真もその一端をあらわすであろう。かつて宮脇俊三氏の書かれた名文や江戸期の鈴木牧之が『北越雪譜』をとおして「東南寸雪の国と北方丈雪の国では吹雪の見方がまるでちがう」様を描いた文章を思い出した。)
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