あなたの一生は真昼よりも輝き、暗くても、それは朝のようになる。(ヨブ11・17)
かつてどんな人も少なくとも学校を卒業すると段々歳をとっていくという考えには自然と組しえなかった。その考えには抑圧と退行感があるからである。一瞬の休む可能性もなく、瞬間瞬間また年々ひるむことなく圧倒的に前進しても、すなわち人生の上り坂においてさえしばらくすると下り坂につながっているという行進は、多くの春の誕生日の上にすら、秋のような影を投げかけるものだ。
しかし、聖書はあらゆるものの輝ける面をどれほど確かなものとして示していることだろうか。この場合、聖書は聖書がなければ憂鬱になるのもやむをえない事実について三つの輝ける面を示している。まず第一に聖書は光の中を歩きはじめた人々にとって、輝きが増すという確かな見込みを明らかにしている。たとえ私たちの人生の太陽が一見頂点に達し、私たちが精神的、霊的存在であるという昼間そのものを知ったとしても、「私の一生は真昼よりも輝く」(ヨブ11・17)以外には、私たちの道の上に伸びていく西日の影を詩的にあらわすものはない。
第二の輝きの面は実が増し加わるということである。働きと実とを混同しないようにしよう。「力のある男たちは、身をかがめ」(伝道12・3)るという日々に近づく時でさえ、かつてよりも私たちの主にとってそれまでよりも、もっと楽しい、もっと完熟した甘い実があることであろう。
第三の輝きの面はすべての中でもっとも輝かしいものである。「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。」(イザヤ書46・4)なぜなら私たちは絶えず神様の小さな子どもであるし、疑いもなく神様は私たちの父であるからだ。どんなに歳が加わろうともこのことに太刀打ちはできない。
しかし、太陽が段々西に近づく時
あらゆるものを驚異的な一閃で包む
あの日没の光、私たちはそのあとをなぞることをせず、見つめる。
そうして栄光に満ちた聖い光に驚嘆する
義の太陽よ、もっと近くに来ておくれ
誰の素早い短い時間がそんなに素早く過ぎ去るのか
愛と光でそんなにあふれんとするのか
近づく太陽の栄光のうちに失われんとして
それは私たちの光でなく、あなたのものだ。世界は知る。
私たちの貧しき生活をとおしてあなたへの新しい讃美が得られるからだ。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-21-gods-side-the-bright-side/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/print-friendly/lxpf-la-97185です。今日の箇所も全く歯が立たず、誤訳で満ちていると思う。ハヴァガルを読んで、スポルジョンに目を移すと文体が明らかに違う。詩的表現があまりにも多いような気がする。しかし、短いことばで神様の真実を示そうとしているハヴァガルから、とにかくこの一年学びたいと思う。読者が原文を読まれての訂正をしてくださることを期待している。
昨日は病院で大腸がんの内視鏡検査を受けた。数年前に一度受けたような記憶があるが、事前に経験者から二度と受けたくないと言われていたので不安だったが、案の定、私自身も今後は払い下げにして欲しいと思った。病院内にいる高齢者の方々を見ると、もちろん自分もその一人だが、死に対する備えをどのようにしたら良いのか、いろいろ考えさせられた。何の対策もないのだが・・・
けれども、短命に終ったハヴァガルは「死」に対して無感覚であったとは思われない。何よりも、上記のようにみことばをとおして主に対する信頼を持ち続けたのだろう。ちなみに、ハヴァガルはビクトリア女王が即位した数ヶ月前すなわち1836年12月14日にイギリスのWorcestershireの小さな村アシュトレーに聖公会の牧師であるウィリアム・ヘンリーとジェイン・ハヴァガルの間の6人兄妹の末っ子として生まれたが、わずか42歳で亡くなっている。)
2016年1月21日木曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿