父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。(ヨハネ17・24)
わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ14・3)
あなたは彼の心の願いをかなえ、(詩篇21・2)
そこには、悲しみもなく叫びもない、もはや死もなく、いかなる苦しみもないであろう。「そこに住む者は、だれも私は病気だとは言わない」(イザヤ33・24)もはや日が沈む日々もなく、嘆き悲しむ日々もない。悪者に悩まされることも、虐げる者の声も永久にやんだ。悩まされる思いはなく、涙ももはやない!汚すものは何もない!このすべては私たちの愛するお方がくださる祝福の消極的な面にすぎない。
さらには疲れたる者のための休息、安息日は続き、自由にして完全でとこしえに続く礼拝。いのちの冠、義の冠、栄光の冠がある。愛に満ちた天国の大きな報い、まことにふさわしくないしもべにとって驚くべきことばかりだ!かつてバッタが重荷であった人々がはるかにまさる重い栄光を身にまとうとは!あらゆる祝福の舞台—一層良い国、永続せる都市、王の宮殿、父の家、整えられた大邸宅(恐らくそれまでの巡礼地とくらべて最高の)—すべては卓越せる単一性と荘厳さを持つ主のおことば「わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」に要約される。
私たちのもっとも美しい夢もその聖なる光に決してまさることはできない。
私たちのもっとも気高い考えもその力あるみことばを越えることはできない。
私たちのすべての期待、私たちの主の最善の報酬
私たちの無上の喜びの冠は、この「 主とともにとこしえまで」ということばに要約される
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-11-christs-will/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97175です。昨日は全国各地で成人の集いが行なわれた。成人は一つの節目である。ひるがえって我が成人の日を振り返ると、心から祝えない自分がいた。自己中心で自分ばかり見ていたからだ。イエス様の願いはご自分ではない。私たち一人一人が救われて主と一緒になることだ。そんな暗いわがままであった私も今は主イエス様を信じ喜ぶ者と変えられた。)
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