良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。(ルカ8・15)
かつて私は、私が決して忘れることができない美しい祈りを聞いたことがあります。その祈りとはこのようなものでした。
「主よ、私の口を取り上げて、その口を用いて語ってください。私の知性を取り上げて、その知性を用いて考えてください。私の心を取り上げて火にくべてください」
そして、これこそ主がしもべの口を守られる方法です。それは余りにもしもべの心が主の愛に満たされているので、流れ出るものは愛情以外にありえないことによるからです。またその言い分は全くキリストに似たものと思われるほど満たされているからです。
注ぎ出される前には満たしがあらねばなりません。そしてもし満たしがあれば「心に満ちていることを口が話すのです。」(マタイ12・34)とかつて主が言われたゆえに注ぎ出されることは間違いありません。
主は聞いておられます。主はあなたがこの世のことを話すのを聞いておられますか、
それは、一時的な喜び、自己憐憫、空しいばか騒ぎに過ぎないのです。
主が語られたのはあなたに対する祝福、赦し、平和、そして愛です。
栄光ある望みと親切な励まし、強さと思いやり、やさしさと真実です。
語られたことのない主の愛をあなたが他の人々に語るのを、主は聞いておられますか、
主の多方面にわたる恵みを知れば神への感謝が溢れ出るはずです。
(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/january-13-be-filled/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97177です。昨日の火曜のベック兄の学びは1ヨハネ1・1〜4、7がテキストであったが、テーマは信徒間の交わりの大切さについてであった。しかし、この交わりも、何よりも主イエス様との光にある交わり、いのちの交わり、愛の交わりがあるかどうかがその起点にあると言われた。すべてを捨てて、主のみことばを心を開いて受け入れるならば、そこに初めて満たしが生ずるというこのハヴァガルの霊想と共通している。スポルジョンの昨日の「夕ごとに」も同じ思いが吐露されていた。From the hidden springs within let sweetly flowing rivulets of testimony flow forth, giving drink to every passer-by.)
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