ある日の玄関先の上がり端の絵模様※ |
主は、・・・救いをもって貧しい者を飾られる。(詩篇149篇4節)
わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。
—神である主の御告げ。— (エゼキエル16章14節)
草の端にたよりなさそうにたれさがっているほんの小さな無色の水滴をみてごらんなさい。それは少しも美しくありません。立ち止まって見るほどのこともありません。
けれども、太陽が昇るまでそこにいて、そしてもう一度見てごらんなさい。それはまるでダイヤモンドのようにきらめいています。そして別の方向から見ると、それはルビーのように紅く輝いています。それからまもなくエメラルドのようにほのかに輝きます。
取るに足りない小さな水滴は、あなたが今までに見た最も輝かしい美しいものの一つとなりました。
でも、それはそのものの持つ輝きと美しさなのでしょうか。いいえ! もしそれが日の当らない地面に落ちたなら、ただの汚い一滴の水にすぎません。
そのように、もし、栄光と愛に富んだ救い主、”義の太陽”があなたを照らすなら、主ご自身の輝きと美の光の幾らかがあなたの上に見られるでしょう。時々、私たちは幸せそうな顔の輝きによって、義の太陽がそこに輝いていることがわかります。
でも、”主の太陽”(原文は義の太陽)が実際にあなたを照らすなら、聖さ・愛・喜び・平安・温和・善意・誠実・柔和などの麗しい光が少なからず、確実に存在するようになり、人生を、あなたの人生をさえ、とても素晴らしいものとされます。
(『ひそかな所の隠された宝』フランス R ・ハヴァガル著25〜26頁より引用。※年末、家人が喜んで室内に駆け込んで報せに来た。「上がり端に美しい模様がある、あれは何だろう?」と。対面になる二軒向こうのお家の三階の窓に陽が当たり、それがプリズムのように屈折してわが玄関先に日の光を届けていたのだ。えも言われぬ感動を覚えた。しかし、その時、私たちはそれが私たち主を信ずる者の美しさを意味するとは考えも及ばなかった。顧みて、自らが臆面も無く、「義の太陽」(主イエス様)を「拒否」して生きている者でしかないと思い知らされた。)
0 件のコメント:
コメントを投稿