2010年12月29日水曜日

新しい障子紙

山茱茰(さんしゅゆ) 障子紙に 影落とす
このところ連日関東は晴天に恵まれている。気温も平年よりずっと高めであろう。随分過ごしやすい今年の冬になっている。しかし、この晴天の裏には必ず裏日本の積雪があることを思う。脊梁のように流れる山脈のせいだ。そして裏日本の厳しい寒さを想像する。わが故郷の滋賀の湖東地方は微妙な場所にはあるが、一面この裏日本の冬を共有する。私の心はいつしかはるか故郷の曇天・雪空に飛び、自然と二様の冬を反芻している。

しかし、このありがたい関東の暖に誘われて、昨日は数年ぶりに障子の張替えを思い立った。家を新築してかれこれ15、6年は経つ。その間、一回張替えをしただけだ。正確には次男がしたのであって私がしたのではなかった。それ以来、黄ばんできたり、穴が空いたりして気にはなっていたが面倒くさいのでほったらかしにしておいた。

ここ数日長男が帰っているので、思い切って彼の助けも借りて互いの気晴らしにと張替えをした。普段は駐車場にしているところに4枚の障子を立てかけ、水道の水をホースで思い切りかけ、障子紙のはがしにかかる。戸外は連日の暖かさで、その作業も苦にならない。生家ではまずこのような冬の暖かさは期待できないのに・・・。

時間を置き、最初は戸外で、後には室内に移り、作業をした。もう何十年ぶりの作業だろうか。家内をふくめ三人で張替えをした。たった4枚の障子紙の張替えだったが、それでも3時間前後はかかった。出来栄えは4枚それぞれちがい、よくできたものもあれば失敗作も出る始末だった。それでも親子三人で作業する楽しさを充分味わわせてもらった。

第一、家の中がぐっと明るくなった思いがする。欧米人にはこの醍醐味はわからないであろう。紙と木によるつつましやかな文化のおかげである。新建材のプレハブ住宅である我が家に一間だけ和室がある。その名目のような部屋にこれまた見せかけのような障子があるとばかり思っていたが、こうしてみると中々どうしてありがたいものだ。生家も継母が召される直前に張替えをしたのだからやはりかれこれ10数年以上は経っている。こちらは伝統的な日本家屋であるのでより味わいは深いことだろう。来年の1月に帰省したおりに挑戦したいと思うが、果たして天候が許すだろうか。

山茱茰(さんしゅゆ) 芽生えし春に 張替えか

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。(2コリント5:17~18)

2010年12月19日日曜日

わたしがあなたがたを愛したように 

枯葉敷き 山茶花の笑み 寒空へ  
「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)。

主はここで、兄弟に対する私たちの愛のルールについて語られている。兄弟に対する私たちの関係は、主の私たちに対する関係と同じである。主のことば、主の行ないのすべては、そのまま私たちの法則である。一度ならず言ったように、ぶどうの木と枝とは全く同じ性質のものである。

しかし、「主が父の戒めを守り、私たちを愛されたように、私たちも主の戒めを守り、兄弟を愛すること」を、もし私たちの力だけで実行しようとしたり、ぶどうの木と枝との真理を十分に理解することなしに実行しようとしたりするならば、それはまちがいなく失敗するであろう。しかしもし私たちが「わたしがあなたがたを愛したように」というみことばが、譬ばなしの中の最大の教訓であり、ぶどうの木が枝に絶えず話しかけることばであることを理解するならば、それはもはや私たちがやり遂げることができるかどうかの問題ではなく、キリストが私たちの中でみわざをなすことができるかどうかの問題であることがわかるはずである。

これらの高く聖なる戒め、つまり「わたしが従ったように従い、わたしが愛したように愛せよ」との主のことばは、私たちの無力であることを自覚させ、また、それをとおして、ぶどうの木の中で、私たちに与えられるものがいかに大切で、豊かで、また麗しいものであるかを初めて自覚させるのである。

ぶどうの木が枝にひと時も絶えることなく、「わたしのしたように、いいですか、わたしのしたようにしなさい。わたしのいのちはあなたがたのいのちです。あなたがたはわたしの満ち満ちた分け前を持っています。聖霊はあなたがたの中にあり、『あなたから来る実は、わたしの中にある実と同じものです』と言います。だから恐れることなく、あなたがたはわたしのように生きることができるという天の保証を、あなたの信仰によってつかみ取りなさい」と語りかける声が、今確かに聞こえて来るではないか。

しかし、もしこれがほんとうに譬ばなしの意味するところであるならば、もしこれがほんとうに枝が生きるいのちであるならば、どうしてごくわずかな人々しかこれを実現することができないのであろうか。それは私たちがぶどうの木の天の奥義を知らないからである。私たちは譬ばなしとその麗しい教えをよく知っているはずである。にもかかわらずキリストが全能で、しかも私たちに身近な存在であることを示す奥義をよく知っていないということだ。それは聖霊が私たちに啓示するのを私たちが待ち望まなかったからである。

もし私たちがこの奥義を学びたいと思ったら、どのようにすればよいのであろうか。私たちは今までぶどうの木であるキリストの、人を生き返らせて別人のようにする力を全く知らなかったのであるから、私たちはこれから完全に新しい人生に入らなければならないという告白から始めようではないか。自我から生じるすべてのものからきよめられ、この世にあるすべてのものから聖別され、キリストが父の栄光のたまに生きられたように、私たちもただそれにのみ生きることから始めようではないか。そして次には、「わたしがしたように」というみことばを、キリストがいつでも実現され、ぶどうの木を心から信頼している枝のいのちを守り続けてくださるに違いないという信仰をもって、この奥義を学び始めたいものである。

祈り
『わたしがしたように』というみことばをあなたはお教えになりました。聖なる主よ。ぶどうの木とその枝として、あなたと私とは同じいのち、同じ心、同じ服従、同じ喜び、同じ愛を持っています。主イエスよ。あなたが私のぶどうの木であり、私が枝であるという信仰によって、私はあなたのご命令を約束として受け入れます。そして『わたしと同じように』というみことばを、あなたが私の中で行なわれるみわざの理解しやすい啓示と考えます。そうです、主よ。あなたが愛されたように私は愛します。アーメン」。

(『まことのぶどうの木』安部赳夫訳113~117頁より引用)

2010年12月16日木曜日

分派は祝福のもととなりうるか アルフレート・クリストリープ

(山茶花の 白き花びら 寒乗せて)
「あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえない・・・。」(1コリント11:19)

信者の間の分裂はよくないことで、多くの苦難の原因となります。ただ聖なる者の分裂を嘆くだけ、というのはまちがった考えです。パウロはコリントの教会の分派抗争のために苦しんできました。しかし彼は、分派の中によい点のあること、祝福さえも認めています。それは、正しい者の真価が明らかにされることです。分裂の全くないところでは、真実でないものも真実のものも容易に見わけがつきません。

私たちの分裂において、やむをえないことは何でしょうか。それは真実のものがその真価を表わすことです。それはいつも、うろうろするのではなく、落ち着いた確固とした歩みによって目だつ人なのです。彼らは人間によりすがることをせず、人間のあとを追いかけません。何千もの人が人間の旗のもとに熱狂するときにも、彼らはただキリストの旗のもとにとどまります。世の中には、「私のところに来なさい」という道しるべのようなキリスト者がいます。しかし、真実の兄弟の道しるべには、「主のところへ行きなさい」としるされているのです。

パウロは「分派が起こるのもやむをえない」と言っています。それによって、真実な少数者は、いよいよ密接に主と一体となることができるのです。パウロのこのことばは、今の時代に、何という光と慰めをもたらすものでしょうか。

船長の有能さはあらしの時に初めてわかります。将軍の腕は、あぶない戦いの困難な情況のもとで初めて知られるのです。同じように、聖徒の集まりである教会が、苦難と無秩序の中に置かれたとき、初めてキリストにあって練達した人が認められるのです。彼らは、落ち着いて、真実に、確固とした小羊である主に従っているのです。

当時コリントの教会には、愛餐のとき、自分だけたらふく食べて、ほかの人を顧みない人たちがいました。また、パウロ、ペテロ、アポロといった人々を党派の頭に押し立てようとした人々がいました(1コリント1:12、3:4)。こうした人が、すべて正しい人ではありませんでした。こうした人は、パウロが練達の人と呼んだアペレのようなキリスト者ではありませんでした※。口先だけでなく、ことばと行ないにおいて、いや全存在をもって「ただイエスだけ、ただイエスご自身だけ、ただイエスに従って」という生活をして行くこと、それこそ正しいもので、練達を生ずるものです。

分裂というような好ましくないことでさえ、「イエスのもとにとどまりなさい。自分の力、自分の栄誉と願いを断ち切りましょう」という教訓を与えるものなのです。私たちはこの教訓を聞きたいものです。それは私たちの祝福となります。人間は分裂を起こしますが、分裂の中に主は正しい者の真価を表わされるのです。分派もまた祝福ではないでしょうか。

(『上よりの光』アルフレート・クリストリープ著138~139頁より引用。※キリストにあって練達したアペレによろしくローマ16:10。政治は人間同志の権力闘争である。民主党の「小沢問題」は白日の下にそれをさらけ出している。しかし、「旧新約聖書にある宝」という副題を持つこの書は、主イエス・キリストにある上よりの光を指し示してやまない。)

2010年12月13日月曜日

「幸福のくつ」 エドウィン・マーカム

(山茶花の つぼみほころぶ 冬支度 )
くつ直しのコンラドは、主が客として自分のところに来て下さるという夢を見ました。

それはこの上なくはっきりとした夢でしたので、コンラドは朝早く起き、店を掃除し、輝くばかりにみがき上げました。それから食物を買いに出かけ、いろいろ計画を立てました。主が来られたら、主の御足を洗い、くぎあとのある御手に口づけし、それからいっしょに食事をしようと思っていたのです。

彼は心をときめかしながら待っていました。戸を開く音が聞こえると、さっそく飛び出して客を迎えました。しかし、それはひとりのこじきだったのです。コンラドはこじきに一足のくつを与えて送り出しました。

しばらくすると一人の老婆がやって来ました。彼女は寄る年波に腰が曲がり、重いたきぎの束を背負っていました。コンラドは老婆を休ませ、いくらかの食物を与えました。コンラドは一日中待っていました。

午後おそくなって、ひとりの女の子が激しく泣きながらはいって来ました。その子はまい子になったのです。コンラドは女の子の涙をぬぐってやり、その母親のところに連れて行きました。

けれども、主は姿をお見せにならなかったのです。それでコンラドは打ち沈み、小さな店の中ですすり泣いていました。

静けさの中で、彼は一つの声を聞いた。

「元気を出すのだ。私は約束を守った。
私は三度あなたの戸口を訪れた。
三度あなたの店の床に私の影を映した。
私は傷ついた足のこじきだった。
あなたが食物を与えた老婆だった。
街頭をさまよう まい子だった」。


(引用文は『一握りの穂』L.B.カウマン著松代幸太郎訳83頁からである。この話は『靴屋のマルチン』というトルストイの作品として有名だとばかり思っていたが、アメリカのエドウィン・マーカムの『幸福のくつ』という作品の中にも出てくることを知った。これらの話は言うまでもなくイエス様のおことば「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」マタイ25:40にちなんでいる。作者エドウィン・マーカムという人がどういう人なのかわからないが、私にはトルストイよりこの人の方がイエス様の十字架の贖いをはっきり受け入れた信仰者のように思えてならない。読者諸氏はどう判断されるだろうか。ちなみに原文は下記のサイト。
http://www.archive.org/stream/shoeshappines00markrich#page/n7/mode/2up))

2010年12月12日日曜日

「非難の言葉」の退場 ウオッチマン・ニー

(古利根川のカモ)
クリスチャンにその力を失わせるものが二つだけあります。一つは罪です。もう一つは、自分の上にいる人たちを悪く言うことです。悪口を言えば言うほど、一層力が失われます。もし人が口で何も言わず、心の中だけで不従順であるとしたら、その人の力はあまり早く失われないでしょう。口に出して言う結果は、わたしたちの想像をはるかに超えて重大です。

神にとって、人の考えと行為とは全く同じです。その考えがある限り、罪が犯されます。他方において、マタイによる福音書第12章34節から37節には、心のあふれ出たものから、その口は語る、とあります。裁きの日には、わたしたちは語った言葉によって、正しいか罪があるかを裁かれるでしょう。これは言葉と思考との間に相違があることを示します。もし言葉がないなら、まだ包み隠す可能性があります。しかし、言葉が出てくると、あらゆることがさらけ出されます。この理由により、心の中の不服は口で公然と語ることよりは少しましです。今日クリスチャンは、彼らの行為を通してその力を失うより、もっと多く彼らの口を通してその力を失います。実はもっと多くが彼らの口を通して失われます。すべての反逆者たちは、彼らの語りかけでごたごたを引き起こします。ですから、もし人が言葉で自分自身を制することができないなら、彼は何事にも自制することができません。

ペテロの第二の手紙二章十二節をもう一度見てください、「ところが、これらの者たちは、捕えられ破壊するために生まれてきた、理性のない動物のように・・・」。これは聖書の中でも最も強烈な言葉です。これほど重大な叱責の言葉はありません。なぜ聖書はこれらの者を動物と言って叱責するのでしょうか? それは、これらの者には何の感覚もないからです。権威は全聖書の中でも最も中心的なことです。ですから神にとって、非難することはすべての罪の中でも最も重大なものです。口は軽々しく語ることはできません。人が神に会うやいなや、彼の口は制限されます。そして尊貴を非難することを恐れるでしょう。いったん権威に出会うと、わたしたちの中に権威の感覚が加えられます。同じように、いったん主に出会うと、罪の感覚があるでしょう。

教会の一と力は、人の不注意な言葉を通して破られます。今日、教会の中では、大多数の問題は非難の言葉から生じます。実際の困難から生じるものは、ほんの少ししかありません。この世の罪の大多数はやなはりうそから生じます。もし非難が教会の中でやむとしたら、わたしたちの問題の大多数は減少するでしょう。わたしたちは主の御前で悔い改め、主の赦しを請い求める必要があります。非難は、教会の中では徹底的に終わらせられる必要があります。一つの泉から二種類の水を出すことはできません。一つの口から、愛の言葉と非難の言葉とを出すことはできません。(※)どうか神がわたしたちの口に門守を置いてくださり、わたしたちの口だけでなく、わたしたちの心をも守り、非難する言葉や思いをすべて止めてくださいますように。どうか今日を出発点として、非難の言葉がわたしたちの間から出て行きますように。

(『権威と服従』114~116頁「人の反逆の現われ」から引用。題名は引用者による仮題である。※は言うまでもなく「泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせることがあるでしょうか。」ヤコブ3:11が念頭にあるのであろう。)

2010年12月11日土曜日

幼いこどもたちのいるところ D.L.ムーディー

(朝日を受けて リーガルベコニア)
シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで こわれて消えた

シャボン玉消えた 飛ばずに消えた
生まれてすぐに こわれて消えた

風 風 吹くな  シャボン玉 飛ばそ

有名な歌だ。先ごろ先輩から年賀の挨拶を遠慮する便りをいただいた。その冒頭にこの歌詞が書かれてあった。。生まれてほどないお孫さんを亡くされたということである。生後間もない赤ちゃんを亡くす遺族の悲しみはどれほどであろうか。聖書は何と語っているか、以下に記すのはムーディーが私たちに伝える話である。

ある時、私は一人の病弱の子どものことを聞いたことがありました。その母親が重い病気にかかって、安静を要したものですから、その子どもを母親の邪魔にならぬようにというので、ある友人の家にしばらく預けたことがありました。母親は次第に病勢が悪化して、ついに死にました。その時、父親は、

「私は子どもにこの出来事で心配させたくありません、あの子はまだ年がゆかないのだから母親のことは憶えていないでしょう。だからこの葬式が終わるまで呼び戻さないで置きましょう」と言いました。

それから数日たって、子どもは我が家に連れ帰られました。けれども誰も母親のことは話しません、またどんなことが起こったかということも知らせませんでした。ところが子どもは家に帰って来ると直に一室に走り込み、次には他の部屋に、それから客間に、次には食堂へ行きという具合で、最後には母がいつも独りで祈っておられた小さい部屋に入りました。

「母さま、どこ? 母さま!」と精一杯声を張り上げて呼び求めました。

そこで家の人たちも仕方がなくて、出来事を子どもに話してきかせました。すると、一層悲しげに声を張り上げて、

「あっちに連れて行って! 連れて行って! 母さまのいないところにいたくない」と言って泣いたということであります。

そこを家庭にしてくれていたのは母でありました。そしてそれは天国においても同様であります。天国に私たちの心が引かれるのは白い衣があるということでも、金の冠があるということでも、金の竪琴があるということでもなくて、そこには私たちが互いに出会うことのできる愛する人々がいるということであります。

それではそこには誰がいますか。私たちがそこに行く時にどんな仲間が得られるでしょうか。先ず第一に天の父がそこにおられます。イエスがそこにおられます。聖霊がそこにおられます。すなわち私たちの父、私たちの長兄、私たちの慰め主がそこにおられるのです。

そのほかに誰がそこにいますか。
天使がそこにいます。
死に別れた親しい友がそこにいます。

そして小さい者たちも。ああ彼らはそこにいるのです。私は子どもたちを思い出すことをしないで天国のことを語ることが出来ません。次の聖書を読んでください。

あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。(マタイ18:10)

「彼らの天の御使い」! それはどんなことを意味するのでしょう? 私たち一人一人が、私たちの行く所、どこにでも特別に私たちを見守るように命ぜられている天使を持っているというのでありましょうか。私たち一人一人に付き添い、私たちを守護してくれる天使があるというのでしょう。

そうしたすべての者が天にいるのです。私たちはそこで彼らに会うことを待っています。永遠に誉むべき三位一体の神すなわち父なる神、子なる神および聖霊なる神もそこにいまし給います。聖なる天の使いたちもそこにいます。旧約時代の偉大なる聖徒たちもそこにいます。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨブ、ダビデ、その他前時代のすべての聖徒たちに私たちはそこで会うことが出来るのです。十二使徒や主のすべての弟子たち、古のすべての殉教者たち、世の始めからして主を愛し奉ったすべての人たち、すべての新約時代の聖徒たちとも会うことが出来ます。

そうした人たちがヘブル書第12章22節から24節までに総合的に書きしるされて「あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」とあります。

(『天国とそこへ行く方法』D.L.ムーディー著11~13頁より引用、題名は引用者がつけた仮題)

2010年12月10日金曜日

「真の服従」とは ウオッチマン・ニー

(「画伝 イエス キリスト」 和田三造絵より 昭和25年作)
マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカ2:6~7)

キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与えるものとなり、(ヘブル5:7~9)

わたしたちは人です。わたしたちにとっては服従は簡単です。わたしたちはへりくだる限り、服従することができます。しかし、主が服従することは簡単なことではありません。主の服従は、主が天と地を創造することよりもっと困難です。服従するためには、主は栄光や、力や、地位や、主の神性の中のかたちなどのすべてから、ご自身をむなしくしなければなりませんでした。彼はまた奴隷の形を取らなければなりませんでした。そうしてはじめて、彼は服従の資格を受けることができました。こういうわけで、服従は神の御子によって創造されたものです。

もともと、御父と御子は同じ栄光を分かち合っておられました。主が地に下って来られた時、一方において主は権威を捨てられました。そして他方において、主は服従を取り上げました。彼は奴隷となることを心に定め、人として時間と空間に制限されるようになりました。しかし、これで全部ではありません。主は自らへりくだって従順になられました。神たる方における従順は、全宇宙の中で最も驚くべきことです。主は死にまでも、十字架の死に至るまでも、苦痛と恥辱の死に至るまでも従順でした。ついに、神は主を最高にまで高くされました。自らへりくだる者は、高くされます。これが神の原則です。

元来、神たる方には服従の必要はありませんでした。しかし主が服従を創造されたため、御父は神たる方の中でキリストにとってかしらとなりました。権威と服従はいずれも神によって立てられました。それらは始めからありました。こういうわけで、主を知っている者は自然に服従します。神もキリストも知らない人たちは権威が何であり、服従が何であるかを知ることはないでしょう。キリストには、服従の原則があります。服従を受け入れる人たちは、キリストの原則を受け入れているのです。ですからキリストで満たされている人たちは、服従で満たされるでしょう。

今日、多くの人が言います、「なぜわたしはあなたに服従しなければならないのですか?」。彼らはまた次のようにも問います、「わたしは一兄弟であり、あなたも一兄弟です。それでは、なぜわたしがあなたに服従しなければならないのですか?」。実は、人はそのようなことを言う権利を持っていません。ただ主だけがこれを言う資格がありました。しかし、主は決してそのようなことを言われませんでした。主にはそのような思想さえありませんでした。キリストは服従を、全き服従をさえ代表します。それはちょうど神の権威が全き権威であるようにです。今日、ある人は自分は権威を知っていると考えます。しかし、彼らは服従を知りません。わたしたちはそのような人々については、神のあわれみを求めることができるだけです。

ヘブル人への手紙第五章八節は、主は苦難を通して従順を学ばれたと告げます。苦難は主に従順をもたらしました。真の服従は、苦難にもかかわらず、依然として従順がある時に見いだされます。一人の人の有用さは、彼が苦しんだか否かにあるのではなく、苦難の中で従順を学んだかどうかにあります。神に従順である者だけが有用です。もし心が柔らかにされていないなら、苦難は去らないでしょう。わたしたちの道は、多種多様な苦難の道です。安逸と享楽を渇望する人は役に立ちません。わたしたちはすべて、苦難の中で従順であることを学ばなければなりません。主が地に来られたとき、従順を携えてこられたのではありません。正確に言うならば、主は従順を苦難を通して学ばれたのです。

救いは喜びをもたらすだけではありません。それはまた服従ももたらします。もし人が喜びだけを求めているなら、彼の経験は豊富にならないでしょう。服従する人たちだけが、救いの豊満を経験するでしょう。さもないと、わたしたちは救いの性質を変えます。わたしたちは主が服従されたように、服従する必要があります。主は従順を通してわたしたちの救いの源となりました。わたしたちが神のみこころに服従することを望んで、神はわたしたちを救われました。人が神の権威に出会う時、服従は単純なことであるでしょう。そして神のみこころを知ることも単純なことであるでしょう。なぜなら、生涯を通して服従しておられた主が、主の服従の命をすでにわたしたちに与えられたからです。

(『権威と服従』ウオッチマン・ニー著の「第五章 御子の服従」より抜粋引用。みことばは引用者による。)

2010年12月9日木曜日

二十、酒飲み

(三条大橋 photo by K.Aotani)
(前略)わたしは、明治40年(1907)の暮れに、ヴォーリズさんと相談して、しばらく神戸の家に帰り、商業の実務にあたって経験をえてから、再び事を共にするという話がまとまって、41年(1908)の一月一日に八幡を去った。そして、自宅の商業に身をいれたり、後に三井物産会社の社員になったりした。またときに、神戸の諸教会で説教を頼まれたり、青年会の英語教師を勤めたりして、42年(1909)の暮れまでヴォーリズさんとは二ヶ月に一回ぐらい神戸から八幡に通うくらいの連絡をとって過ごしてしまった。わたしが去ったあとへ、例の酒飲みのXがひょうぜんとヴォーリズさんのもとに帰ってきて、41年(1908)ごろから通訳になったり、事務員になったりしていた。ところが、今ひとりKという青年がある。

彼は、八幡の遊郭で育った乱暴青年だ。(中略)明治38年(1905)の秋の終わりごろであったと思うが、ある水曜日、バイブル・クラスに珍客があった。それはK君だった。酒を召し上がったのか、顔を真っ赤にして、臭い鼻息を手で押しかくして、入口に立っていた。「K君、やあ、きたまえ。こっちへ入りたまへ」といってだれかが引っぱりこんだ。ところで、ヴォーリズさんが例の赤シャツを着たままにこにこしながら、気をきかしてわざと彼に後ろの暗い席を与えた。

このK君が痛快な男らしい青年であって、思い切りよく、たばこを捨てる、酒をやめる、キリスト信者になる、とうとう遊郭に自分の家があるのは不愉快だといいだして、39年(1906)に卒業すると、しばらくヴォーリズさんと同居した。そしてその書記をやっていたが、同じ年の夏前にヴォーリズさんと衝突して、「出ていってやるぞ」と一言を残して大阪に行ってしまった。そして綿問屋や雑貨店あるいは大阪府警察部などに雇われて、痛快な歯切れのよい奉公をやっていたが、その年の暮れから一年志願兵で大津の連隊に入営していた。

ヴォーリズさんは、陸軍歩兵少尉になったK君を、再び招いて、以前の酒飲みのXとふたりを手伝わして、明治41年(1908)の暮れごろから、建築の設計監督を京都の三条キリスト教青年会館の一室で開業した。それまでは、あるいは同志社で英語を教えたり、京都の青年会館の嘱託教師をしたり、また個人教授をしたりして、ずいぶん英語の切り売りをしながら、それでも八幡を本拠として京都に通い、生計の道に苦心していた。

明治42年(1909)には京都の三条柳馬場に、ドイツ人デルランの設計になるキリスト教青年会館が、アメリカのワナメーカー氏の寄贈として、京都市をかざることになり、その建築が始まったので、わがヴォーリズさんはその監督として雇われた。毎日、セメントの粉末や壁土、木屑、れんがの破片のとびちる中で日本の職人や土方を相手にして、優しい若いアメリカの青年ぶりを発揮していた。昼飯はおやこどんぶりいっぱいで元気をつけて働いた。そしてその収入がいくぶん確定すると、すぐに使い途を考え、明治42年(1909)には、東海道線の要点、馬場(大津)と米原に、小さい借家をみつけて、ふたりの青年幹事を雇いいれ、鉄道従業員のために慰安ならびに教育の事業を始めた。

この時分のヴォーリズさんのむぞうさな生活ぶりは、実に、むかしの物語にあるフランシスコ・ザビエルのようであった。銭湯に平気で出かけて、番台の女の目を驚かしたり、うすぎたない飲んだくれのXの寝床にもぐりこんで寝るくらいは朝飯前のことだし、洋服などもいっこうお構いなく、いわゆる、なりも振りも忘れて、青春時代をただ一すじに、建築の設計監督を職業として成功せねばやまぬ、強い鉄の意志で働いていた。思えば一心不乱の権化のように、ただ神の国の拡張を夢みて、逆境に処したヴォーリズさんは、実に神々しいというよりほかはない。

それにひきかえて、飲んだくれのXは、ヴォーリズさんの小金を横領したり、同僚K君の止めるのもきかないで、京都の遊郭なぞにひたりこみ、ヴォーリズさんが涙を流して祈っているのもうわの空に聞き流し、酔いつぶれては、人通りの多い三条大橋で欄干ごしに立小便をしてみたり、無銭遊興で警察の世話になり、わけのわからぬブロークン・イングリッシュで巡査たちをてこずらしたりした。なんでも、Xは警察にゆくと、いっさい日本語を使用しないそうだ。ヴォーリズさん直伝の英語を、のべつ幕なしにどなりたてて、例の象のような巨大な体格を資本にして暴れまわるので、ずいぶんやっ介なことこの上なしであったという。しばらくたって後、Xはヴォーリズさんのところに、いたたまれずに出奔、ある船会社の船員になってしまった。あるときなどは、日本刀を引き抜いて人を強迫したこともあったが、よく涙とともに悔悟する男であった。悪くいえば、まことに改心の名人であった。

こんなわけで、初めのうち、ヴォーリズさんの建築事業は、歯切れのよいまっすぐな村田幸一郎君とふたりでやっていたが、明治42年(1909)の冬、わたしが神戸を引き揚げてきて、その事業に参加することになった。「われらは、20年の将来をみるのだ」とは、そのころのヴォーリズさんの標語であった。

(『近江の兄弟』吉田悦蔵著83~85頁引用。本文は「前略」のところではXが「中略」のところではKがいかに酒飲みであったかくわしい話を載せているが、冗長になるので省略させていただいた。「人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」マタイ11:18とイエス様はご自分について言われたことを述べておられる。「大工」マタイ13:55であるヴォーリズさんはその生き方からしてイエス様の弟子であった。)

2010年12月8日水曜日

閑話休題 二つの会合

(琵琶湖畔・さざなみ街道を走る、車内から)

私の出た高校は滋賀県にある。当然卒業生は関西に在住の人が多い。ところが、いつのころからか、毎年決まって12月の第一土曜日に同窓の有志が集まって都内で会食会を持ち始めた。会の名称は「東京36(さぶろく)会」である。言うまでもなく、私たちが卒業した昭和36年を名称に挿し込ませている。八クラスの内、一クラス程度が東京近郊に住んでいる勘定になろうか。私も二度、三度出席してきたが、ここ数年は欠席している。これも何年前か記憶が定かでないのだが、同じ12月の第一土曜日とその翌日の日曜日にかけての二日間、滋賀県の守山市の「ラフォーレ琵琶湖」を会場に「聖書の集い(通称近江八幡・喜びの集い)」が開かれ、たまたま曜日がかち合ってきたためだ。

ここ二、三年この日が近づくと私は二つの会合のどちらに出席するべきか随分迷わされてきた。今年は私のいとこも出ると聞いていたし、何人かの親しい同窓生や久しぶりに会いたい同窓生もいたので大いに食指は動いたが、結局今年も「東京36(さぶろく)会」を尻目に、土曜日に関東から滋賀県へと、のこのこと出かけていった。帰ってきてから、「東京36(さぶろく)会」の様子を聞いたら、30名余の参加で今年も中々盛んで、皆、元気を持て余しているような賑やかさがあり、日本の将来を憂う挨拶をする人も何人かいたということだった。家内も同じ高校で三学年下であるが、もっと活発だ、と聞いている。私たちの高校の特徴かもしれない。が、こちらの方は曜日が異なるので家内は毎年楽しみにして出かけている。

さて、私が参加した「喜びの集い」だが、こちらは関西を中心に老若男女全国から様々な人々が集まる。総勢三、四百名というところか。岐阜の高山から大学の同級生を連れて出席された方が、月曜日電話を下さった。「今年の集いも良かったです。会場に入った途端、主を恐れる清々しいきよらかさが満ちていることを感じました。静かな落ち着いた雰囲気の中で心が喜びに満たされてきました。自分の考えでなく、聖書のみことばだけが大切なんですね。」という意味のことを伝えてくださった。同級生の方とはほぼ大学卒業以来の再会で、在学中にミッションであるその大学の教会の礼拝にともに集われていた間柄だ。しかし、その方は信仰はお持ちにならず、今では福音とは無縁の方なのでお誘いしたと言う。お聞きしてみると、私の小中高の同級生も職場が同じで面識がおありであった。

大半は主イエス・キリストの救いを受け入れている人々ばかりだが、このように一事が万事、それぞれの方が、一人でも多くの愛する家族や友人にイエス様をご紹介したいと願い、誘って来られるので、集いは「閉じた空間」でなく「開かれた空間」だ。その上、会場のあちらこちらで持たれる、自由な交わりの中に、必ず主イエス・キリストがご臨在される様がしのばれる。私は宿泊せず、生家から通いで参加したので、そのような交わりには縁遠いものだったはずだが、後述するように、それでもそれら一つ一つの交わりの余徳にあずかれた。

集いが解散されて、今回の「喜びの集い」を準備され裏方で奉仕してくださった一組のご夫妻の車で湖岸を近江八幡まで連れて行っていただき昼食のご馳走にまでなった。その車中や会食中、ご夫妻から喜びの集いに様々な交わりがあったことを教えていただいた。奥様が10年来の親しい方に、つい最近になって福音を伝え始めたら、その方のご主人が二日前にご病気であることが判明し、すごく落ち込んでおられたという。今回その方をお招きしたということであった。その方が、その集いの中で、まだ30代のご婦人で昨年の11月22日に二人のお子さんを残しご主人を亡くされた方が、寂しさと悩みの中で、いかに主イエス様を通して天国での再会を待望んでいるかをお話されたとき、すごく心を動かされ、その話をされた方と直接お話したいと言われ、実現したということであった。

近江八幡から米原、米原から東京と久しぶりに新幹線を乗り継いで日曜日の夕方にはこちらに戻ってくることができた。「喜びの集い」の余韻は今も静かに私自身を支配している。「東京36会」には出席できなかったが、いつの日か「東京36会」の人々と一緒にこの「近江八幡・喜びの集い」に出席したいと願っている。「東京36会」の開始以来、終始裏方として取り仕切っている幹事の方は実は『近江の兄弟』の著者の甥御さんであるし、何よりも晩年のヴォーリズさんの息吹に触れた方である。「東京36会」にはまだまだこのヴォーリズさんの薫陶に触れた方々がいる。

最後に昨年に引き続き、ベックさんが入院中のため、日曜日の福音集会のメッセージをベックさんのかわりになされた高村さんが引用されたみことばを載せさせていただく。

天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。・・・招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。(新約聖書 マタイ22:2、14)

2010年12月5日日曜日

飼葉おけの中に クララ

(オーストリア・アドヴェントカレンダー by K.Aotani  )
「客間には彼らのいる余地がなかったからである」(ルカ2:7)
「見よ、わたしはすぐに来る」(黙示録22:12)

選民としての歴史のうちに長い年月を経ましたユダヤ人は、預言と約束をもって育成されていました。彼らは時代について深刻な感覚をもっていましたから、彼らは約束の救い主を待ち望んでいたのです(ルカ2:15)

神はその真実をもって約束を重んじ彼らの待望みに答えて、遂に独り子を彼らの救いのために遣わし万民の救いとなし給いました。学者も宗教家も心してこの時を待ち、メシヤ待望を忘れませんでした。

ところが一面においてはユダヤはローマの属国として肉の生活に窮々としていました。事実神の遣わし給うた御子はご自身の国に来たり給うたのに、世は彼を受け入れる余地がありませんでした。聖書に記されているように客間には余地がなかったのです。何と厳かな出来事でしょう。人の子は来たり給うたのに知らなかったのです。真の王は押しのけられ、この世の君が栄えています。

しかしこれは昔の出来事、よそごとに見ておられません。主イエスがわれわれの心に訪れ給う時、われわれの客間は他の客で混乱しており、世の旅人がわがもの顔に飲食をほしいままにしていますし、われわれもそれらを押しのけて主を迎えようとの強い抵抗をしません。そして栄光の主は馬小屋の飼葉おけの中に宿られたのです。あさましいことです。私どもは二千年前のクリスマスをふりかえって胸痛むように思います。しかし自分の心を反省します時、自分にも同じ心がひそんでいますまいか。

客間の主客である救いの君が飼葉おけに迎えられ、神を喜ばせ奉る信仰の主客には馬小屋をお使いくださいと平然とし、当然のように思っているとは!

そんな生活でどうしてやがての日、主の前に立つことができましょうか。主のお顔をさけて暗い木かげにかくれるよりほかにありません。そんなことは思うだに辛いことです。

真実な心をもってクリスマスを喜ぶことはそうたやすいことではありません。真に罪と滅亡の恐ろしさを知り、救いの恵みの、何物にもかえられない価値を知った時本当の意味でクリスマスが祝えるようになります。大切な客間を主にささげ、熱い心をもって主を迎えまつる日こそ真のクリスマスです。そうでないと二千余年前のある日のあの町のように世のもので心を一パイにしているのです。

救いの恵みを心から喜ぶ者は再び来たり給う主に対する待望も強いことです。その日首を挙げて主を迎えまつるために、また勝利と喜びにみつる朝を迎えるために、きょうわが生活の客間を主に提供しましょう。人類同志の関係においては言訳も都合も肩巾ひろく通過できましょうが、すべてを知り給う主の前にわれらの内なる思いはかくれる山かげも、身をよせる岩かげもありません。主に飼葉漕を提供した過去を悔い、砕けてへり下った心の客間に主を迎え、救い主の降誕を賛美しましょう。やがて栄光の王としてきます主を思いつつ!

(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著12月5日の項目から引用)

2010年12月3日金曜日

内村の小文二つ

(初冬の琵琶湖、奥に見える島は沖島?09.12.6)
昨今の政治の世界を見ると混乱極まりなく、一体どこへこの国が行こうとしているか定かでない。昨日のヴォーリズ氏の話は今からおよそ100年ほど前である。日本は日露戦争に勝利して、西園寺公望内閣の時のようだ。ざっと年表を見てみると1907年には日仏協約、日露協約、さらに第三次日韓協約と小さな国日本が諸列強を前に外交交渉を繰り返していることがわかる。もちろん隣国を足蹴にしてではあるが・・・。

大状況である国家が新生国家よろしく帝国主義国家形成を目指しているとき、ようやく個人と家制度の相克が明らかになり、自然主義文学が澎湃と姿を現わしてきているようだ。田山花袋の『布団』がこの年の作品である。一方夏目漱石は大学を辞し、朝日新聞に入社、新聞小説として『虞美人草』の連載が始まっている。ヴォーリズさんは田舎の近江の地で苦戦中である。当時のキリスト者が生きる上での風当たりはどんなであったろうか、と想像を逞しうするのだが、わからない。

手元の内村鑑三全集の15巻はちょうどその年に当たる。紐解くと、彼の父が4月に亡くなっていることがわかる。内村の二つの文を抜粋引用する。(引用は同全集59~61頁より)

父死して感あり

肉の父は逝けり、されども霊の父は残れり、地上の父は去れり、されども天に在す父は存せり、小なる父は我を離れたり、されども大なる父は我に近し、我は我が父を失いてこの世にありてなお孤児(みなしご)ならず、天に在す我らの父よと、しかり、我は父を失いて父を失わず、天に在(いま)す我が父は存す、而して我が失いし地に在りし父もまた天に在す父に在りて存す、天に在すわが父を失わざる我は地に在りし我が父を永久に失わず、我は我が父を失いて泣く、然れども我は希望なき他の人の如くに嘆かず、そは我らイエスの死にてよみがえりしことを信ずるが故にイエスによれるところのすでに眠れる者を神、彼とともに携え来たらんことを信ずればなり。テサロニケ前書四章十三、十四節

悲痛の極

人の死するは悲し、されども品性の堕落するが如くに悲しからず、品性の堕落は霊魂の死なり、これに復活の希望あるなし、これ永遠の死なり、嘆じてもなお余りあるは実にこのことなり。
預言者エレミヤ曰く

死者のために泣くことなかれ、これがために嘆くことなかれ、むしろ捕え移されし者のためにいたく 嘆くべし、彼は再び帰りてその故里を見ざるべければなり(エレミヤ二十二章十節)

と、悪魔にとらえられ、その社会に移されて再び帰りて父の故里を見る能わざる者の如くに悲しむべくして痛むべき者はあらず、我は我が首を水となし、我が目を涙の泉としてかかる者のために泣かんと欲す。同九章一節

国家いかにあろうともキリスト者の闘いが100年前も100年後の今も変わらざることを思う。

2010年12月2日木曜日

十九、断頭台(下)

(初冬の琵琶湖、比良山系を対岸に仰いで 2009.12.6)
その生活状態は、全く、昔の物語にある籠城のそれであった。外出すれば、「免職の異人」と、ののしる声がきこえる。そして後任としてきた外国人雇教師は、水夫あがりの酒飲みで、太いステッキに犬をつれたりして町を散歩する。ときには、怪しい日本の女も町にくるという有様だ。

がらんとした青年会館に、ヴォーリズさんとわたしは謄写版を使って、卒業した信仰の友へ、毎月日英両文の「月報」を印刷して、送ることと、朝から夕方まで、読書したり、水彩画を画いたり、石油ストーブをつついて自炊したりした。

ときには、おかずに困って、学校の寄宿舎から、うすぎたない小僧がもってくるさげ箱にいれた豆腐や油あげ、小あゆのあめだき、サイラの乾物をふたりで食べた。わたしはヴォーリズさんがそんなものを箸で口に運ぶのをみて、涙を落としたことが、たびたびあった。

5月になると、6人の学生がきて青年会館に下宿ずまいをすることになた。ヴォーリズさんの国の人たちが同情して送金してくれる金が、毎月すこしずつくるので、夏前から掃除夫兼料理人を雇うことになった。そして、サラダ油の代わりに、滋養分に富むからというので、バナナ、りんご、みかんのフルーツ・サラダに、たらの肝油をかけてだされたり、生たまごは毒だと思ったのか、アイスクリームをつくらせると、焦げくさくてしかたのないものなどを食わされていた。

わたしはある日、外国の雑誌で、かえるの足のフライがうまいという記事を読んだので、さっそく実験することに相談がまとまった。それで、百姓の子供に一かご十銭で、三かごのかえるを捕らしにやり、持ってきたものを、みな足をはずして、新米の料理人に油で揚げにさせた。そして舌鼓をうった。が、その翌日、
「吉田さん、たいへんです。ちょっときてください」
とコックの呼ぶ声に階段をおりてゆくと、真っ赤な顔にけわしい人相をした、八幡町雇の掃除人夫がどなっていた。
「なんぼ、ごみ取りのおれでも、かえるの腹ばかりのごもくは取らんぞ、オイッ、コラッ、コックたら、クックたらぬかす、板場! なんとか返事せい」
わたしは頼んで、二十銭の銀貨でかえるの死骸をかたずけてもらった。

ヴォーリズさんはもう八幡でなにもすることができなくなった。それで毎日聖書の研究と詩作と製図の練習にふけるほか、求められるままに、彦根、長浜、水口などの教会の応援をしたりして明治40年(1907)はなんのなすところもなく終わってしまった。
わたしは相変わらず、英語の勉強をしたり、通訳をしたり、製図のけいこを手伝ったりした。

(『近江の兄弟』吉田悦蔵著78~80頁)

明治40(1907)年はヴォーリズさんたちにとって忍従の年となったようだ。聖書には「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(1ペテロ5:5~6)とある。

2010年12月1日水曜日

十九、断頭台(上)

(Vogelbeere in Salzburg by K.Aotani)
(久しく中断していた『近江の兄弟』の続きを、ほぼ半年振りに書き写す。第3回に「ヴォーリズさんの胸中には、如何にして湖畔の住民八十万に、天地に唯一の神あり、ただ一人の救い主イエス・キリストがある事を伝える事ができるであろうかという大問題が、潜んでいたのである。」と書かれてあったが、彼の思いは主イエス様によって嘉納され、滋賀商業の生徒の中に福音を受け入れる者が次々起こされた。しかしその後、ヴォーリズさんはその福音伝道のゆえに滋賀商業の英語教師の職を追われる。県から免職にされたからである。そして自ら設計し建設した青年会館に起居する。)

『真理は永久に断頭台に据えられ、
醜悪は永久に王座を占む。
されど断頭台は未来を揺り動かすなり。
未知の闇には、暗きあたりに神立ち給い、
神の者等を守り給わん』(ローウェル)

「あのように長くふりかざされていた刃は、遂におちてきた。しかし、わたしたちの事業は、収入が絶えたのみでは終わりとならない。わたしの心は壊かれない。その理由は『神を愛する者にはすべてのこと働きて益をなす』と聖書にあるではないか。『正義は正義だ。故に神は神である。正義は勝利者である。疑いは神に対する不忠である。気おくれするのは、罪ではないか』とだれかもいっている。

神は、わたしにこの問題を解決する光栄を担わせてくださったのだ。わたしは、今、驚くべき機会を目のあたりに見る。わたしが存在すること、生活することに、少しでも意義があるならば今やそれを発見するときがきた。

わたしは希望をもって出発するのだ。そして見えざる神にたよるのだ。失敗すれば、わたしは倒れてやむ。しかし、世の人はわたしが背後に傷をうけて、逃げ死したのでないことだけは疑う者があるまい。わたしがもし成功すれば、近江の国は愛の福音を聞くのだ。」

ヴォーリズさんは、こんな悲壮な文章を書いた。そして明治40年(1907)の4月から、THE OMI MUSTARD SEED 「近江の芥(からし)種」と命名した英文月刊雑誌を、手紙に代えて米国その他の友人に送ることになった。

わたしはヴォーリズさんと共同生活をすることに決めたので、まとめた行李をといて、相変わらず学生時代と同じように、淋しい青年会館に住んだ。そして4月を迎えた。

4月になると、東京で万国キリスト教学生大会があって、ヴォーリズさんとわたしとは本部より招待されて出席した。ふたりは三等席の一隅に、小さくなって上京した。途中、夜中の12時ごろから車中がこみあってきたので、相並んで座ることにした。そして一時間交代に、お互いのひざまくらを提供し、ひとりはひとりの安眠を守る約束をして、寝たり起きたりしていると、向かい座席の客が、
「いったい、この異人さんは、あなたのなににあたる人なのですか」
とおもわず大声に聞いたので、わたしは往生して一言もなかった。
神田の青年会館で開かれた万国キリスト教学生大会では、ヴォーリズさんはオルガンをひき、わたしは地下室で日本に関する書籍を売った。

大会が済んで帰ってくると、一通の手紙がふたりを待っていた。ヴォーリズさんが開封すると、中から金50円のかわせ券がでてきた。そして手紙には
「このかわせ券は、無名の友人よりヴォーリズ氏の生活費として、今後、毎月送られるものです。キリストの福音のため大いに自重してください」
とあり、手紙の差出人は、京都キリスト教青年会館の主事フェルプス氏であった。

ふたりは涙をもって神に感謝した。そして、わたしの毎月17円の学資を加えて金67円で生活することになった。そうこうしているうちに、各地の学校よりヴォーリズ氏を英語教師として招いてきた。京都の同志社はもちろん、(旧制)高等学校から滋賀商業学校以上の給料をもって迎えにきた。しかし、ヴォーリズさんはわたしとふたりで毎月67円の生活を捨てなかった。

(『近江の兄弟』吉田悦蔵著75~78頁より引用)