昨夕、一人の方を訪ね、共に語らった。その方は私に「自分はあなたのように入信することはむつかしい」と言われた。「入信」と言われて、その真意をはかりかねたので、内村の『宗教座談』の中の天国談を思い出し、その話の大要を紹介させていただいた。まわらぬ舌はどの程度その話を正確にその方に伝え得たか心もとない。しかし、その方は大いにこの話に関心を示された。再度確認するためにその文章を写させていただく。内村はその宗教座談の最後で天国について二回に分けて語るが、それを閉じるにあたって次のように言うのだ。
しかし、この談話を終わります前に、天国についてなお一つ述べ置きたいことがございます。それは私どもが天国に行きました時に、その市民の中に思いがけない人の必ず多いことについてであります。多分かような人は決して天国にはいるまいと思う人がたくさんにおりましょうし、この人は必ずいるであろうと思うていた人がおりますまいと思います。
そしてそのような例として自信満々の宣教師、さては慈善家、牧師などがイエス様ご自身に頼ることなしに、この世でその地位・名誉をいただきながら天国の前で、門前払いされることに抗議するさまを描写しさらに次のように語る。
そうして彼らは一同に声を上げて天国の門衛に迫って申しましょう。「彼の人(天国の市民の一人を指して)は世にあってはかつて安息日に彼の職業に従事して神の聖日を汚した者であります。彼が天国にある理由はありません。」と。
また彼らは他の天国の民を指して申しましょう。「この婦人は在世の間はろくろく教会に出席したこともなく、かつその行状には我々どものゆるしがたきこともたくさんありました。彼女は実は洗礼もいまだ受けざるくらいの者でありまして、彼女が天国にあらんなどとはもってのほかのことであります。」と。
その他天国在住者に対しては彼らの批評が区々でありまして「彼はかつて姦淫を犯したことがある」といい、「この者は酒と煙草とを用いし者である」といい、「彼は洗礼の必要を否みしことがあり」といい、「これはかつて外国宣教師に無礼を加えしことがある」などと申します。
そうして彼らが失望落胆のうちに逡巡しておりますときに、門内より大喝一声して彼らに告ぐる者があります。
働きによるにあらず、その署名せし教義のいかんによるにあらず、その属せし教会のいかんまたは有無によるにあらず、また必ずしもその行状の完全無欠なるによるにあらず、すべて神を信じ、キリストにおいて現われたる神の救済を信じ、その罪を悔い神により頼みし者はすべてここにあり。しからざる者はその神学博士たると、牧師たると、宣教師たると、キリスト教文学者たるとを問わず、彼らは皆この国に入るの一つの資格をも有せざる者なれば彼らは速やかにここを立ち去るべし
と、時に私どもは彼ら一同の人々が哀哭歯切(かなしみはがみ)するのを見ることでございましょう。(内村鑑三全集第8巻197〜199頁より引用)
以上、内村のおよそ今から114年前、すなわち1900年(明治33年)の文章を紹介させていただいたが、もちろんこのような「天国」に対する洞察は内村独自のものではない。イエス様のおことばそのものが源流であり、救いの原点であるからである。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2・8〜9)
わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7・21〜23)
信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ14・23)
2014年5月31日土曜日
2014年5月30日金曜日
深い苦しみ
神のことばに従った結果は単に喜びを得られるだけでなく、「深い苦しみ」を与えられることにもなります。次にこのことを考えてみたいと思います。
主のみことばは聞く者には「喜びと恵みの言葉」ですが、他方では「悔い改め」と「さばき」を求める言葉にもなります。この意味で、主のみことばは喜びばかりでなく、「苦しみの言葉」でもあります。私たちが宣べ伝えるみことばを私たち自身が受け入れなければなりませんが、その受け入れたみことばは私たちをさばくことにもなるのです。
主のみことばは霊と魂とを切り離します。自分の感情や考え、意志などは投げ捨てられなければなりません。自己が否定されなければならないのです。
私たちが主のみことばを伝えるときには、この主のみことばが私たちを自己否定の苦しみへと導くのです。
エレミヤやパウロも誤解を受け苦しめられたことがありました。みことばを伝える者はこの世では「アウトサイダー」であり、「平和を乱す者」で、「異分子」とみなされます。悔い改めのない世界にみことばが宣べ伝えられるということは、つねに苦しみを意味します。
私たちは大勢の人々が救われることを望んでいます。しかし多くの人々からそれを拒まれます。これは私たちにとって苦しみとなります。
イエス様ご自身もみことばのこのような二つの面を経験されました。イエス様は大いに喜ばれたと聖書は一方で述べています。
ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。(ルカ10・21)
イエス様は「聖霊によって喜びにあふれた」とありました。しかし一方では、イエス様はさばきのことを思ってエルサレムのために「泣かれた」と書かれています。
エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。(ルカ19・41〜42)
エルサレムは悔い改めることがありませんでした。イエス様が泣かれたのは、人々がイエス様に逆らったからではなく、彼らがさばきにむかっていることをご覧になられたからです。
この苦しみが「とりなし」と「証し」との源となります。福音が、つまりイエス様が拒まれるときには、イエス様のみことばはさばきのみことばになります。イエス様なしにはどんな希望もなく、ただ「滅びる」だけです。私たちがこの事実をほんとうに知ったときには、もはや無関心ではいられないのです。私たちはネヘミヤやエズラ、ダニエルと同じように、滅びに向かっている人々のために自ら悔い改め、とりなしをしないではいられなくなるでしょう。これらの「神の使い」たちは、自分自身が罪を犯したかのように、その同国人のために悔い改めました。
そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」(黙示10・11)
真理が宣べ伝えられるときには、拒絶と敵意が生ずるものです。悔い改めとさばきが宣べ伝えられるところには、迫害が起こるものです。しかしヨハネは人々が彼に逆らい、刃向かってこようとも、預言を続けなければなりませんでした。
私たちはみことばによって自分自身を養っているでしょうか。みことばを食べて、みことばと一つにされているでしょうか。みことばがこの世のすべての甘いものよりも、私たちにとって甘いものとなっているでしょうか。
どんな苦難の中にあっても私たちがみことばから離れられなくなっており、すべての苦しみを喜んで受け入れるようになるなら、私たちは主に祝福され、主に用いられるようになります。
(『すぐに起こるはずのこと』第3巻ゴットホルド・ベック著123〜126頁および同録音テープより引用構成。昨日、今日と引用した文章はいずれも黙示録10章11節に関連するベック兄の聖書講解のことばを中心に再構成したものである。昨日も冒頭で内村鑑三の著作をほんの少し引用したが、内村が獲得している読者数にくらべ、ゴットホルド・ベック氏の著作の読者数はきわめて少ないと思う。その原因は知名度のちがいと私たちの内に存在する不確かな自己像にあるのではないかと思う。すなわち、搦め手からみことばを明らかにしようとする内村氏は私たちが受け入れやすく、直接みことばに肉薄して己を捨てることを迫るベック氏を私たちが敬遠するところにあるのではないかと思う。私はこのゴットホルド・ベック氏の著作『すぐに起こるはずのこと』全4巻はもっともっと多くの人に読まれて熟読玩味されるべき本ではないかと思う。)
主のみことばは聞く者には「喜びと恵みの言葉」ですが、他方では「悔い改め」と「さばき」を求める言葉にもなります。この意味で、主のみことばは喜びばかりでなく、「苦しみの言葉」でもあります。私たちが宣べ伝えるみことばを私たち自身が受け入れなければなりませんが、その受け入れたみことばは私たちをさばくことにもなるのです。
主のみことばは霊と魂とを切り離します。自分の感情や考え、意志などは投げ捨てられなければなりません。自己が否定されなければならないのです。
私たちが主のみことばを伝えるときには、この主のみことばが私たちを自己否定の苦しみへと導くのです。
エレミヤやパウロも誤解を受け苦しめられたことがありました。みことばを伝える者はこの世では「アウトサイダー」であり、「平和を乱す者」で、「異分子」とみなされます。悔い改めのない世界にみことばが宣べ伝えられるということは、つねに苦しみを意味します。
私たちは大勢の人々が救われることを望んでいます。しかし多くの人々からそれを拒まれます。これは私たちにとって苦しみとなります。
イエス様ご自身もみことばのこのような二つの面を経験されました。イエス様は大いに喜ばれたと聖書は一方で述べています。
ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。(ルカ10・21)
イエス様は「聖霊によって喜びにあふれた」とありました。しかし一方では、イエス様はさばきのことを思ってエルサレムのために「泣かれた」と書かれています。
エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。(ルカ19・41〜42)
エルサレムは悔い改めることがありませんでした。イエス様が泣かれたのは、人々がイエス様に逆らったからではなく、彼らがさばきにむかっていることをご覧になられたからです。
この苦しみが「とりなし」と「証し」との源となります。福音が、つまりイエス様が拒まれるときには、イエス様のみことばはさばきのみことばになります。イエス様なしにはどんな希望もなく、ただ「滅びる」だけです。私たちがこの事実をほんとうに知ったときには、もはや無関心ではいられないのです。私たちはネヘミヤやエズラ、ダニエルと同じように、滅びに向かっている人々のために自ら悔い改め、とりなしをしないではいられなくなるでしょう。これらの「神の使い」たちは、自分自身が罪を犯したかのように、その同国人のために悔い改めました。
そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」(黙示10・11)
真理が宣べ伝えられるときには、拒絶と敵意が生ずるものです。悔い改めとさばきが宣べ伝えられるところには、迫害が起こるものです。しかしヨハネは人々が彼に逆らい、刃向かってこようとも、預言を続けなければなりませんでした。
私たちはみことばによって自分自身を養っているでしょうか。みことばを食べて、みことばと一つにされているでしょうか。みことばがこの世のすべての甘いものよりも、私たちにとって甘いものとなっているでしょうか。
どんな苦難の中にあっても私たちがみことばから離れられなくなっており、すべての苦しみを喜んで受け入れるようになるなら、私たちは主に祝福され、主に用いられるようになります。
(『すぐに起こるはずのこと』第3巻ゴットホルド・ベック著123〜126頁および同録音テープより引用構成。昨日、今日と引用した文章はいずれも黙示録10章11節に関連するベック兄の聖書講解のことばを中心に再構成したものである。昨日も冒頭で内村鑑三の著作をほんの少し引用したが、内村が獲得している読者数にくらべ、ゴットホルド・ベック氏の著作の読者数はきわめて少ないと思う。その原因は知名度のちがいと私たちの内に存在する不確かな自己像にあるのではないかと思う。すなわち、搦め手からみことばを明らかにしようとする内村氏は私たちが受け入れやすく、直接みことばに肉薄して己を捨てることを迫るベック氏を私たちが敬遠するところにあるのではないかと思う。私はこのゴットホルド・ベック氏の著作『すぐに起こるはずのこと』全4巻はもっともっと多くの人に読まれて熟読玩味されるべき本ではないかと思う。)
2014年5月29日木曜日
大きな喜び
みことばを食べるということについて内村鑑三の解説とベック兄のメッセージを紹介したい。先ずは内村氏の『宗教座談』からの引用である。
私どもの肉体を養うに 魚 肉 野菜 穀類などの食料がございます。また私どもの智能を養うに宇宙万象に現われたる天然の理がございます。しかし食物も天然も私どもの霊魂を養うには足りません。私どもの霊魂を養うに足るものは人類に下し給いました霊の糧なるキリストでございます、聖書にこう書いてあります。
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6・35、51)
キリストの血を飲みその肉を食うといえば何やら食人人種のなすことのように聞こえますが、実際我々が霊魂の苦悶と飢餓とを感ずるときにはこれを癒し、これを充たすものは彼の血と肉とより他はありません。その化学上の説明のごときは神聖に過ぎてここにこれを述べることはできません。もし貴下方が聖アウガスチンや、詩人ミルトンや、偉人クロムウエルや、バンヤンや、グラッドストンが神を需(もと)めしような熱誠を貴下方の心に持ってご覧なさい、私がここに述べましたことが決して夢でもなければ幻でもなく、実の実、真の真であることがお解りになりましょう。要はまず霊魂の存在を確かむることでありまして、これを確かめて後にキリストを信ずるに至るのは自然の順序でございます。
( 『宗教座談』内村鑑三全集第8巻164頁より)
次にベック兄が主のみことばを受け入れる態度について述べた文章からの抜粋引用である。
主のみことばは、ただ聞いて理解するだけではなく、食べて、自分自身の一部としなければなりません。ここで二つの問題についてさらにくわしく考えて見ましょう。一つは「正しい聞き方」とはどういうものかです。
正しく聞くということは、主の前に黙って主が語ってくださるのを待つことと、主が語ってくださったみことばを受け入れる、「食べる」ということです。
主がすべてのことについて語ってくださることができるように、私たちも備えをしようではありませんか。聖書のみことばの中で自分の好きなところだけを探して読むのはまちがっています。イエス様は私たちの生活をよりよくするために忠告を与えようとなさっているのではなく、私たちの生活全体をご自身の御手の内で用いたいと望んでおられるのです。
私たちが主のみことばを受け入れるときにのみ、主のみことばは私たちのものとなります。食物は 「食べられる」ことによって私たちのものとなり、身体の成長を助けます。同じように主のみことばは、私たちが「食べる」ときにはじめて実をもたらすのです。そして主のみことばに服従することです。
次に何が「正しい聞き方の結果」か考えてみたいと思います。二つのことが言えるのです。第一番目は「大きな喜び 」、第二番目は「深い苦しみ」であります。
まず、(みことばの)正しい聞き方の結果は「大きな喜び」です。
食物の中の食物として、神のことばはどんな食物よりも人の心を満足させるものです。
主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。(詩篇19・8)
あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。(詩篇119・103)
私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。(エレミヤ15・16)
主のみことばを通して、私たちはキリストの苦しみと死を知るのです。またキリストの流された血潮と、値なしに与えられている救いを知ることができるのです。「正しく聞く」というのは自分が黙して主に語っていただくことです。自分の意見や考えはむなしくして、神に従うということです。そうするときに絶えることのない喜びと平安が保たれます。
喜びの土台は罪の赦しを与えられているということと、主との間に平和をもっているということ、そして義とされているということにあります。この確信を私たちは主の偽りのないみことばを通して与えられます。
私たちはどれほどの豊かさを主のみことばを通して与えられているでしょうか。もし喜びに満たされていないとしたら、その人は主のみことばによって生きていないのです。今日世界には多くの飢饉があります。しかし、なんと多くの主を信ずる人々が、みことばの飢饉の下で苦しんでいることでしょうか。主のみことばを正しく聞くことをしない人は、飢え渇きに悩むのです。
私たちが宣べ伝えるべき福音は「喜びの福音」です。私たちの意見ではなく、主のみことばを宣べ伝えなければなりません。「預言する」ということは主の権威によって主のみことばを宣べ伝えることです。
主のみことばは、ことを起こすものです。私たちが罪の赦しのみことばを宣べ伝えるときに、罪の赦しが起こるのです。罪が赦されるであろうことを私たちが自分勝手に望んでいるというのでは決してなく、主のみことばによって実際に罪の赦しが起こるのです。人間的にみると、「神の使い」、つまりみことばを宣べ伝える「神のしもべ」たちは無力で、その人自身は何も誇れるものは持っていないように見えます。しかし主のみことばが彼らの宝なのです。このような「神の使い」については聖書の中に数多くの実例があるのです。
たとえばヨセフはエジプトで囚われの身となり、何の希望もありませんでした。しかし彼は主のみことばを通して力を得ました。またモーセは平凡な羊飼いでしたが、主のみことばと権威によってイスラエルの民を囚われの身から解放しました。そしてダニエルはバビロンに囚われていましたが、主のみことばによって力を得ることができたのです。
(『すぐに起こるはずのこと』ゴットホルド・ベック著第三巻118〜123頁より引用構成。)
私どもの肉体を養うに 魚 肉 野菜 穀類などの食料がございます。また私どもの智能を養うに宇宙万象に現われたる天然の理がございます。しかし食物も天然も私どもの霊魂を養うには足りません。私どもの霊魂を養うに足るものは人類に下し給いました霊の糧なるキリストでございます、聖書にこう書いてあります。
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6・35、51)
キリストの血を飲みその肉を食うといえば何やら食人人種のなすことのように聞こえますが、実際我々が霊魂の苦悶と飢餓とを感ずるときにはこれを癒し、これを充たすものは彼の血と肉とより他はありません。その化学上の説明のごときは神聖に過ぎてここにこれを述べることはできません。もし貴下方が聖アウガスチンや、詩人ミルトンや、偉人クロムウエルや、バンヤンや、グラッドストンが神を需(もと)めしような熱誠を貴下方の心に持ってご覧なさい、私がここに述べましたことが決して夢でもなければ幻でもなく、実の実、真の真であることがお解りになりましょう。要はまず霊魂の存在を確かむることでありまして、これを確かめて後にキリストを信ずるに至るのは自然の順序でございます。
( 『宗教座談』内村鑑三全集第8巻164頁より)
次にベック兄が主のみことばを受け入れる態度について述べた文章からの抜粋引用である。
主のみことばは、ただ聞いて理解するだけではなく、食べて、自分自身の一部としなければなりません。ここで二つの問題についてさらにくわしく考えて見ましょう。一つは「正しい聞き方」とはどういうものかです。
正しく聞くということは、主の前に黙って主が語ってくださるのを待つことと、主が語ってくださったみことばを受け入れる、「食べる」ということです。
主がすべてのことについて語ってくださることができるように、私たちも備えをしようではありませんか。聖書のみことばの中で自分の好きなところだけを探して読むのはまちがっています。イエス様は私たちの生活をよりよくするために忠告を与えようとなさっているのではなく、私たちの生活全体をご自身の御手の内で用いたいと望んでおられるのです。
私たちが主のみことばを受け入れるときにのみ、主のみことばは私たちのものとなります。食物は 「食べられる」ことによって私たちのものとなり、身体の成長を助けます。同じように主のみことばは、私たちが「食べる」ときにはじめて実をもたらすのです。そして主のみことばに服従することです。
次に何が「正しい聞き方の結果」か考えてみたいと思います。二つのことが言えるのです。第一番目は「大きな喜び 」、第二番目は「深い苦しみ」であります。
まず、(みことばの)正しい聞き方の結果は「大きな喜び」です。
食物の中の食物として、神のことばはどんな食物よりも人の心を満足させるものです。
主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。(詩篇19・8)
あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。(詩篇119・103)
私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。(エレミヤ15・16)
主のみことばを通して、私たちはキリストの苦しみと死を知るのです。またキリストの流された血潮と、値なしに与えられている救いを知ることができるのです。「正しく聞く」というのは自分が黙して主に語っていただくことです。自分の意見や考えはむなしくして、神に従うということです。そうするときに絶えることのない喜びと平安が保たれます。
喜びの土台は罪の赦しを与えられているということと、主との間に平和をもっているということ、そして義とされているということにあります。この確信を私たちは主の偽りのないみことばを通して与えられます。
私たちはどれほどの豊かさを主のみことばを通して与えられているでしょうか。もし喜びに満たされていないとしたら、その人は主のみことばによって生きていないのです。今日世界には多くの飢饉があります。しかし、なんと多くの主を信ずる人々が、みことばの飢饉の下で苦しんでいることでしょうか。主のみことばを正しく聞くことをしない人は、飢え渇きに悩むのです。
私たちが宣べ伝えるべき福音は「喜びの福音」です。私たちの意見ではなく、主のみことばを宣べ伝えなければなりません。「預言する」ということは主の権威によって主のみことばを宣べ伝えることです。
主のみことばは、ことを起こすものです。私たちが罪の赦しのみことばを宣べ伝えるときに、罪の赦しが起こるのです。罪が赦されるであろうことを私たちが自分勝手に望んでいるというのでは決してなく、主のみことばによって実際に罪の赦しが起こるのです。人間的にみると、「神の使い」、つまりみことばを宣べ伝える「神のしもべ」たちは無力で、その人自身は何も誇れるものは持っていないように見えます。しかし主のみことばが彼らの宝なのです。このような「神の使い」については聖書の中に数多くの実例があるのです。
たとえばヨセフはエジプトで囚われの身となり、何の希望もありませんでした。しかし彼は主のみことばを通して力を得ました。またモーセは平凡な羊飼いでしたが、主のみことばと権威によってイスラエルの民を囚われの身から解放しました。そしてダニエルはバビロンに囚われていましたが、主のみことばによって力を得ることができたのです。
(『すぐに起こるはずのこと』ゴットホルド・ベック著第三巻118〜123頁より引用構成。)
2014年5月22日木曜日
Immel wenn der Tag beginnt
ドイツ映画『朝な夕なに』を半世紀ぶりに観た。 もっとも全編を観たわけでない。YouTubeで4つのシーンを断片的に観たに過ぎないが、往年映画の印象として心の奥にしまっていた清らかな想いと実際の映画とは随分異なることに気づいた。
筋はギムナジウムの教師と生徒との交流が描かれるのだが、その中に男子生徒が女性教師に思いを寄せるということがあったように思うが、一つ一つのシーンは観ていた自分の中で時の経過とともに自然と思いが浄化されて行っていたのであろう。けれども当時は気づかなかったが、自らの青春の蹉跌がそのままそこに描かれているのは間違いなかった。
この映画は高校の映画鑑賞会の一環として映画館に出かけて観させられたものであるが、それが一年の時か、二年の時かはっきりしない。1958年9月が日本での初公開であったようだが、私の高校は地方都市にあったから、それよりは後であろう。当時教師陣はどのような思いでこの映画を選ばれたのだろうか。ましてその後、自らがその教師の端くれとなることなど思いも寄らなかった。
映画の中の葬送のシーンで悲しくも切なく流れるトランペットの演奏「真夜中のブルース 」はベルト・ケンプフェルトのヒット曲になった。ソニーのテープレコーダーを使いオープンリールで録音もし、私にとっては忘れがたい曲であった。
高校卒業後二ヵ月ほどして亡くなった母の追悼に、その夜一室にこもって繰り返し流したのもその曲であった。そうでもしなければ私の悲しみは癒されなかった。
往時、喜びもし悲しみもした事柄は、半世紀後の今の自分にとって別世界のように思える。それは生けるまことの神を知らなかったゆえの喜び悲しみであったからである。
人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる。(箴言14・12〜13)
このドイツ映画も神不在の映画であろう。確かに葬送の場所はドイツの教会である。しかし、そこには悲しみしか描かれていなかったからである。葬送の場面を観ながら、このシーンはどこかで観たことがあると思った。それは同じドイツ人であるゴットホルド・ベック氏がお嬢さんのリンデを20歳で亡くされた時の葬送を写されたビデオを思い出したからである。
場面は同じようにドイツの墓地であるが、そこには悲しみだけでなく、喜びが満ちあふれていたからである。53年前、母の死を悲しむ術を知らなかった私だったが、母の死をとおしてまことの神様イエス様を知るように導かれ、半世紀後の今も主の愛のうちに生きている。もし主イエス様を知らなかったら、『朝な夕なに』の映画は依然として私のノスタルジーである記念の作品であり続けたかもしれない。しかし、それはカタルシスであって、死への勝利を約束するものでない。
『実を結ぶいのち』という本の中で「死は勝利にのまれた」と題してゴットホルド・ベック氏は次のように書いている。「世界は、今しばらくの間、神の許しによって、悪魔の支配にゆだねられています。その結果、大勢の人々が惑わされ、真理に対して盲目にされています。人々は、この地上で心の満足と真の幸せを手に入れることができると思い込もうとしています。しかし、それは幻想です。神の御子、主イエスだけが、私たち人間の心に真実の満足を与えてくださるということを、愛するリンデとともに、読者の皆さまにお伝えしたいと願っています。」(※)
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6・23)
愛する母は53年前の今日召された。主を知ることはなかった。しかし臨終にあって一人息子を置いたまま死んで行かなければならないことを思い、両目から真珠のような涙を流した母の想いを主は受けとめてくださったと知る。
(※『実を結ぶいのち』ゴットホルド・ベック著4頁より引用)
筋はギムナジウムの教師と生徒との交流が描かれるのだが、その中に男子生徒が女性教師に思いを寄せるということがあったように思うが、一つ一つのシーンは観ていた自分の中で時の経過とともに自然と思いが浄化されて行っていたのであろう。けれども当時は気づかなかったが、自らの青春の蹉跌がそのままそこに描かれているのは間違いなかった。
この映画は高校の映画鑑賞会の一環として映画館に出かけて観させられたものであるが、それが一年の時か、二年の時かはっきりしない。1958年9月が日本での初公開であったようだが、私の高校は地方都市にあったから、それよりは後であろう。当時教師陣はどのような思いでこの映画を選ばれたのだろうか。ましてその後、自らがその教師の端くれとなることなど思いも寄らなかった。
映画の中の葬送のシーンで悲しくも切なく流れるトランペットの演奏「真夜中のブルース 」はベルト・ケンプフェルトのヒット曲になった。ソニーのテープレコーダーを使いオープンリールで録音もし、私にとっては忘れがたい曲であった。
高校卒業後二ヵ月ほどして亡くなった母の追悼に、その夜一室にこもって繰り返し流したのもその曲であった。そうでもしなければ私の悲しみは癒されなかった。
往時、喜びもし悲しみもした事柄は、半世紀後の今の自分にとって別世界のように思える。それは生けるまことの神を知らなかったゆえの喜び悲しみであったからである。
人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる。(箴言14・12〜13)
このドイツ映画も神不在の映画であろう。確かに葬送の場所はドイツの教会である。しかし、そこには悲しみしか描かれていなかったからである。葬送の場面を観ながら、このシーンはどこかで観たことがあると思った。それは同じドイツ人であるゴットホルド・ベック氏がお嬢さんのリンデを20歳で亡くされた時の葬送を写されたビデオを思い出したからである。
場面は同じようにドイツの墓地であるが、そこには悲しみだけでなく、喜びが満ちあふれていたからである。53年前、母の死を悲しむ術を知らなかった私だったが、母の死をとおしてまことの神様イエス様を知るように導かれ、半世紀後の今も主の愛のうちに生きている。もし主イエス様を知らなかったら、『朝な夕なに』の映画は依然として私のノスタルジーである記念の作品であり続けたかもしれない。しかし、それはカタルシスであって、死への勝利を約束するものでない。
『実を結ぶいのち』という本の中で「死は勝利にのまれた」と題してゴットホルド・ベック氏は次のように書いている。「世界は、今しばらくの間、神の許しによって、悪魔の支配にゆだねられています。その結果、大勢の人々が惑わされ、真理に対して盲目にされています。人々は、この地上で心の満足と真の幸せを手に入れることができると思い込もうとしています。しかし、それは幻想です。神の御子、主イエスだけが、私たち人間の心に真実の満足を与えてくださるということを、愛するリンデとともに、読者の皆さまにお伝えしたいと願っています。」(※)
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6・23)
愛する母は53年前の今日召された。主を知ることはなかった。しかし臨終にあって一人息子を置いたまま死んで行かなければならないことを思い、両目から真珠のような涙を流した母の想いを主は受けとめてくださったと知る。
(※『実を結ぶいのち』ゴットホルド・ベック著4頁より引用)
2014年5月19日月曜日
歳月人を待たず
2013.5.18 小諸城趾から見下ろす千曲川※ |
でも、その次に襲って来た感情は、人にはまる一年間互いに消息を知らないで過ごしてしまう間柄もあるんだということだった。
それにしてもこちらの態度がそもそも問題なのだと悟るのには随分あとになった。不思議なことだがその二三日前、私にもその知人の存在を覚えた時があった。知人がいつも行くところを私は知っている。それにもかかわらず私は出向いて彼に声かけることをこの一年間していなかったのである。
むしろ彼の方こそ、私を覚えてわざわざメールを寄越してくださったのだ。決して「舞い込んで来た」ものでなく、彼の愛のあらわれであると知った。私の方こそ、この一年全く彼に失礼を重ね続けてしまったのである。
彼に一年前に次男夫妻を襲った出来事と、その後一年の歩みを淡々と綴って返事した。彼から「何も知らずにおりまして申し訳ありません。ただ”火のような試練”という聖句がとっさに浮かんできました。ただ祈らせていただきます。」とあった。ありがたいことだ。
愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。(1ペテロ4・12〜13)
このような試練の中、主イエス様はいのちの危うかった彼女を立ち上がらせ、回復への道を与え続けてくださっている。次男夫妻はそのことが起こる前に聖書を通して次のみことばが与えられていたと言う。
「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(ホセア6・1〜3)
このような不変的なみことばに頼って、信仰にもとづく恵みのうちに第二年目も歩めるよう祈っている。
(※昨年私は大学の先輩後輩と4人で信州を旅していた。最終日は小諸であった。その時の写真である。そのほぼ同時刻に椿事が東京で発生していた。)
2014年5月17日土曜日
「補聴器」と祈り会
古利根川堤 |
恋する鳩の男女 |
ほぼ一月ほど試聴期間であったが、いよいよ昨日から本格的に自前の補聴器になった。補聴器は病院側で斡旋していただいたが、購入には二の足を踏んだ。高額であり、業者が信用できるかの不安があったからである。私につきあってくれた方は青年で、感じのいい誠実な人だった。一生懸命にこちらの不安にも答えてくれ、うちの店でなくっても他の業者さんでもいいですよ、と鷹揚な態度も披瀝してくれた。そのお店は隣の町なので不便なのだが、結局彼を信頼してそのお店で購入することにした。別れ際、一人の方の御好意で刷り上がった名刺をお渡しし、ついでにブログ(名刺にはブログのアドレスが記入してある)を読んでくださいねと、言い添えた。
赤つめ草・白つめ草 |
祈りは主イエス様に向かってささげるもので、各人がそれぞれ自由にささげる。声の大きさはまちまちであるが、普段話す話よりは大体が小さい声になる。だから祈っていても自分と反対側の人ほどその声が聞きとれないので、不自由していた。もちろん聞こえなくってもそれはそれで良いのだが、七人で祈っても三人の方の祈っている言葉は断片的でよくわからないということばかりだったのだ。果たせるかな、昨日その祈り会で(出席者は7名であったが)補聴器を使用して聞いてみたが、今まで聞きとれなかった方々の声が聞こえた。やはり自分の耳が悪くなっていたことを認めざるを得なかった。
補聴器使用の二日目、このブログを書いている間も、玄関のチャイムが二回ほど鳴った。いつもより敏速に階下に降りて行くことができた。今朝の空は青空である。何か気持ちが快活になりそうである。補聴器を使用するように勧めた家族の者、また現実に補聴器の世話をしてくださったお店の方に感謝したい。昨日帰り際、今一度ブログの話題をした。彼は「文章が難しいですね、パソコン上では読み取ることが難しいですね、プリントアウトして読まないと」と言われた。率直な感想をいただいて嬉しかった。読んでいる方々のご苦労をはじめて知った思いがしたからである。彼が今後も誠実に仕事をされるように祈りたい。
また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(マタイ6・5〜8)
2014年5月16日金曜日
とかげは天敵か?
この前、思わず、とかげは家人にとって天敵と書いたが、決して天敵でない。友人とは言いたくないが、敵ではないと言う。何しろとかげは草花に寄って来る様々な虫を獲物に地上から草花を伝いながら這い回っており、ガーデナーにとって得難い味方であるからである。今朝、久しぶりに見るともなく、庭を見ていたら、風もないのに草花が揺れている。そのありかを見てみれば、二三日前に格闘した同類のとかげ君であった。しかも一匹ではない。二匹それぞれちがう草花に足繁く動いていた。庭に降り立ち、とかげ君を探したが、もういなかった。代わりに、草花の様々な芳香がそれぞれ心地よく漂って来た。これは何という魂の「温浴」であろうか。草花をめぐって多くの生き物が群がって来るのもうべなるかなと思いながら室内に戻った。
室内に戻り家人に「とかげは天敵でないね」と念を押したら、案の定「そうだ」と言った。むしろとかげのたまごは小さい時から馴染んでおり畑や庭で始終見たし触ったと言う。問題はそのとかげが室内にいるのが嫌なのだと言う。確かにそれは誰しも気持ちのいいものではない。そこへ行くと、蜂の巣はもはや女王蜂と切り離した存在なので、それを気持ち悪がる心理はわからない。今でも私の小さな書斎に記念として「蜂の巣」を置いているが、家人は決して足を踏み入れない。今や、「蜂の巣」は、我が城に家人の出入りを容易に許さないとんだ「魔除け」になった感じだ。
安倍首相が、集団的自衛権を解釈改憲で押し通すつもりだ。とかげが天敵であるかどうかは場合場合があり、細かな議論が必要だろう。感情論で物申すのでなく、冷静な思索が必要である。首相会見にパネルを持ち出し、説明されるのは結構なことだが、もし起こり得る事態を自己の都合のいいように図示し論理をすりかえてしまうための道具だったら問題だ。とかげが室内に入らないようにしたい。それにもかかわらず、入って来たらどうするか。瞬間湯沸かし器のように当方は恐怖心にあおられて、「自衛」と称して流さずにすんだ血を流してしまった。あとで悔いが残った。一国を預かる首相に今や誰も鈴をつける人がいない。民主主義は選挙至上主義だ。一人一人が覚悟をもって政治社会の構築に向かうべしである。
今朝の朝刊各紙の見出しを参考までに列挙する。
朝日 集団的自衛権行使へ検討
読売 集団的自衛権限定容認へ協議
埼玉 首相「確固たる信念」
JAPANTIMES Panel lists steps for bypassing Article 9
日経 首相「憲法解釈の変更検討」
産経 首相 行使容認へ強い決意
毎日 集団的自衛権 容認を指示
東京 「戦地に国民」への道
新聞は社会の木鐸だと言って育った私にとり、今の新聞は果たして木鐸の役割をしているのか疑問なしとはしない。ちなみに私は東京新聞を講読している。
その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」サムエルは、この民の言うことすべてを聞いて、それを主の耳に入れた。主はサムエルに仰せられた。「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」(1サムエル8・18〜22)
室内に戻り家人に「とかげは天敵でないね」と念を押したら、案の定「そうだ」と言った。むしろとかげのたまごは小さい時から馴染んでおり畑や庭で始終見たし触ったと言う。問題はそのとかげが室内にいるのが嫌なのだと言う。確かにそれは誰しも気持ちのいいものではない。そこへ行くと、蜂の巣はもはや女王蜂と切り離した存在なので、それを気持ち悪がる心理はわからない。今でも私の小さな書斎に記念として「蜂の巣」を置いているが、家人は決して足を踏み入れない。今や、「蜂の巣」は、我が城に家人の出入りを容易に許さないとんだ「魔除け」になった感じだ。
安倍首相が、集団的自衛権を解釈改憲で押し通すつもりだ。とかげが天敵であるかどうかは場合場合があり、細かな議論が必要だろう。感情論で物申すのでなく、冷静な思索が必要である。首相会見にパネルを持ち出し、説明されるのは結構なことだが、もし起こり得る事態を自己の都合のいいように図示し論理をすりかえてしまうための道具だったら問題だ。とかげが室内に入らないようにしたい。それにもかかわらず、入って来たらどうするか。瞬間湯沸かし器のように当方は恐怖心にあおられて、「自衛」と称して流さずにすんだ血を流してしまった。あとで悔いが残った。一国を預かる首相に今や誰も鈴をつける人がいない。民主主義は選挙至上主義だ。一人一人が覚悟をもって政治社会の構築に向かうべしである。
今朝の朝刊各紙の見出しを参考までに列挙する。
朝日 集団的自衛権行使へ検討
読売 集団的自衛権限定容認へ協議
埼玉 首相「確固たる信念」
JAPANTIMES Panel lists steps for bypassing Article 9
日経 首相「憲法解釈の変更検討」
産経 首相 行使容認へ強い決意
毎日 集団的自衛権 容認を指示
東京 「戦地に国民」への道
新聞は社会の木鐸だと言って育った私にとり、今の新聞は果たして木鐸の役割をしているのか疑問なしとはしない。ちなみに私は東京新聞を講読している。
その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」サムエルは、この民の言うことすべてを聞いて、それを主の耳に入れた。主はサムエルに仰せられた。「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」(1サムエル8・18〜22)
2014年5月15日木曜日
「次なるもの」はこんな結果に終わりました。
看板右はイチジクだが実が成らない! |
家庭集会は前日からその準備が始まっています。その中には様々なことが起こります。今回ももちつき機械がピーピーという音を立てており、スタートボタンが点滅しているので、忙しくしている家人に気を効かせるつもりでスイッチを入れました。ところが家人はよもぎを放り込んでそれからスタートボタンを押して欲しかったようです。何も知らない亭主がボタンを押してしまったからたまりません。そのまま時間が経ち、仕上げ三分前に台所に戻った家人にその旨告げました。家人は慌ててよもぎをどっさり入れ込みました。果たせるかな、10分程度でこねあげる仕組みですから、十分行き届かず、一部はよもぎのかたまりができてしまったようです。それでも人間の手仕事では決して出来ないよもぎもちが七分方できて、十分皆様に味わっていただけたはずです。一時が万事こんな行き違いはしょっちゅうです。でも家人の偉いところはそんな時に決して腹を立てないし、あきらめないで可能な次善策を考えます。大したものです。
鳥は今雌雄蜜月の時です。 |
ご訪問した所の近くの風景です |
この日の家庭集会では急遽メッセージのCD録音を担当させていただきました。昼の部は問題なかったようですが、夜の部では40分程度の録音時間のうち私の判断ミスで初めの方の6分間ほどが音なしになってしまったようで申しわけなく思います(もっとも万一のため別にiPhoneを活用して録音は収めてありますので完全盤の作成は可能です)。家庭集会は準備、また当日の働き、様々な働きがあります。でもみんな文句を言わず、喜々として行ない参加しておられます。それぞれが車座になって真剣に主イエス様の恵みを分かちあっておられる姿はいつみても麗しいものです。次回はベックさんはお見えになりませんが、6月のいずれかの日に開きたいと思っています。
あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。(詩篇55・22)
2014年5月13日火曜日
とかげに、蜂に、さて、次なるものは?
赤い薔薇、白い薔薇etc. |
結局亭主は竹べらを持ち出し、打擲にかかった。初発は不成功であった。とかげの尻尾切りに終わってしまったからである(なるほどこれがいわゆる「とかげの尻尾切り」なのだとへんなところで感心している)。でもそのあとは頭上に竹べらを一度二度振り下ろす。その効果はテキメンであった。家人は思わず拍手の思いだったようだ。しかし汚れた床面をきれいに拭き取ったのは家人だが、始末は亭主にしてくれと言う。見るのも嫌だと言う。生理的な嫌悪感が先立つようだ。亭主は家人の言に従い、室内から外に持ち出し、枯れ葉の下に、肢体をおさめてやった。戦い終わって、互いに男女の違いを思い、その労に感謝する。
ところが、今日は今日でまた家人が騒いでいた。金木犀の小枝に蜂の巣をみつけたからだ。スズメバチのようだった。その黒い胴体の姿を見るだけでこれまた生理的に嫌悪感を覚えたようだ。ところが亭主が不在だったので、恐る恐る室内から遠目に覗き見ながら、裁ちバサミを延長して小枝を切り取り、思い切り良く外の道路に投げ飛ばしたそうだ。その直後亭主は帰って来て、その一部始終を聞くことができた。女王蜂は幸い、巣を取りかかった時にはいなかったが、その後、その巣のところへと戻ってきたそうだ。昨日は「とかげ」で、今日は「蜂」だ、明日は何が起こるかわからないと不安そうに語る。ガーデナーとして庭の点検に事欠かない御仁だが、こんなことに怯えている。そこへ行くと亭主はいい気なもんだ。庭にどんな花が咲こうと無頓着である場合が多い。ましてや家人がこんないのちあふるる生活をしているのに手伝い一つしないからである。
きれいな卵が産みつけられている |
この地上には小さいものが四つある。しかし、それは知恵者中の知恵者だ。蟻は力のない種族だが、夏のうちに食糧を確保する。岩だぬきは強くない種族だが、その巣を岩間に設ける。いなごには王はないが、みな隊を組んで出て行く。やもりは手でつかまえることができるが、王の宮殿にいる。(箴言30・24〜28)
2014年5月8日木曜日
十字架こそ唯一の救いである(下)
「私たちの主キリストのものとなり」賛美の大団円 |
わたしは主であり、あなたの医者である。
主イエス様がこの地上におられた時、ご自分が偉大なる医者であることを証明してくださいました。盲人が目に見えるようになりました。足なえが歩けるようになりました。死人もよみがえらされました。イエス様の最大の批判者、および敵でさえも目の前で起こった奇跡を否定することはできませんでした。なぜなら彼らはそれらの奇跡をすべて自分の目で本当に見たからです。旧約聖書の中でイザヤ書53章に次のようなことばが記されています。
救い主はわれわれの病をにない、われわれの苦しみをご自身の身に受けた。主イエスの、救い主である主イエス様の傷によって私たちはいやされた。
罪の支払う報酬は、死です。けれどイエス様はこの報酬をご自身の身に受けてくださいました。主イエス様はわれわれの代わりに罰を受けてくださったのです。イエス様は債務を支払ってくださいました。唯一の主なる神が今日提供したいと思っておられることは先ず第一に、富とか健康とかいうものではなく、わがままの赦し、絶えざる喜び、まことの平安です。
それでは、人間はどのようにしてこれらのものを自分のものにすることができるのでしょうか。主イエス様のみもとに行くことによって、主イエス様に自分の債務を告白することによって、そしてまたイエス様を信じ、忠実に従うことによって、です。恐らく私たちの中にはまだ精神的に悩んでいる人や、主なる神との平和を持っていない人や、希望と喜びを持っていない人もいるかもしれない。そのような方々に私は次のような勧めを致したいと思います。どうか次のように祈ってもらいたい。
イエス様、どうかあなたが私の生活を見ておられるように私に私の生活を見させてください。
この祈りは必ず聞き届けられ、あなたは次のことを知るようになります。すなわち、あなたの生活のうちには何一つ主なる神によって受け入れられるものはない。ひとつも、ということです(※)。誰でもは、死、すなわち主なる神との永遠の隔て以外の何ものにも値しないものでしょう。けれども、生けるまことの主なる神はお一人お一人にも主イエス様による永遠の救いと罪の赦しが人間一人一人のために備えられていることを聖書ははっきり言っています。十字架においてイエス様は聖なる神のさばきを受けてくださいました。イエス様はわれわれの身代わりとして死んでくださいました。そして、イエス様の死と、イエス様のよみがえりこそ、罪の赦しの土台また源です。自分のあやまちをイエス様に打ち明ける者は次のことを知ることができるようになります。
すなわち、私のあやまち・わがままは赦されている。イエス様は私をも受け入れてくださった。私は新しいいのちを持つことが許されている、と。
聖書の言っている「罪の赦し」と「薬」とはお互いに似ている点を持っています。 すなわち誰もそれを受け入れることを強制できません。医者はあなたに薬を与えることが出来ますが、それを強制することはできません。それと同じように、主なる神も御子イエス様を通して罪の赦しを与えたいと望んでおられます。けれども、その救いを受け入れ、永遠に言い表わすことのできない栄光のうちにイエス様とともにいるようになるか、あるいは、主なる神なく、望みなく、永遠の時を送らねばならないか、に対して責任を問われています。たいせつなことは、肉体上の健康でもなければ、またはたくさんのお金を持つことでもありません。また、多くの友だちを持ったり、権力や名誉を持つことでもありません。たいせつなことは、人間が債務の重荷から解放されること、そして、主なる神が自分の罪を赦してくださり、自分に永遠のいのちを与えてくださったという確信を持つことです。人間は自分の健康や名誉のためにどれほど測り知れない努力をしているかわからないほどですが、「死後の世界」、「永遠の救い」については何も考えていないとは、何という悲劇でしょうか。
今日、ここにおられるすべての方々が自分の罪と債務を主イエス様に告白し、そしてイエス様は私を受け入れてくださったから、私は救われているということを体験なさることこそ私の祈りです。ただイエス様にだけ私は従いたい、ただイエス様にだけ栄光があるように、という切なる願いを持つ者は大いに祝福され用いられるようになります。
( ※その若き友人は「ゼロからのスタート」をした自分にとって、もはや自らに依り頼むなにものもない、イエス様だけに頼るんですと言った。考えて見れば、上のメッセージ中のわが「生活のうちには何一つ主なる神によって受け入れられるものはない。ひとつも、」ないことを心の底からその友人は言っていたのだ。友人と言ったが、実際はわが息子とも言って良い年齢差が私たちにはある。にもかかわらず、私もまたその友人と同じように、わが詰まらぬ誇り・自我から離れて、ゼロからのスタートをせねばならないことを改めて意識させられた。そこには私たちがともに神の子であり、ともに兄弟であるという不思議な一体感の醸成があった。車の同乗を願ったばかりに、渋滞まじりの高速のドライブはこうして互いに望外の幸せを主イエス様から提供される一時となった。)
2014年5月7日水曜日
十字架こそ唯一の救いである(上)
これから最初にお話することは本当にあった出来事です。私も何年間かスイスという国に住んでいました。あるスイス人は大学生に向かい合っていろいろな話をしていました。彼らは時の経つのを忘れるほどいろいろな話を話し合ったのですが、一段落してあのスイス人は大学の窓の外を指差しました。そこには畑もあれば、牧場もあり、果樹園もあれば、美しい湖もあり、その後ろには雪におおわれた大きな山々が聳えていました。「これはすべて私のものです、これは私の楽園です」とあのスイス人は言いました。彼は大変な金持ちで、欲しいものは何でも持っていました。
二、三年あと同じ訪問客が再び彼のところにやって来ました。畑も牧場も前と同じように、そこにあり、湖も同じように美しく輝いていました。しかし、彼はもはや何一つ役に立つものを持ってはいなかったのです。確かにすべてのものはまだ依然として彼の所有物でした。しかし、彼はつらいことを経験したのです。すなわち、ひとり息子は湖で溺れ死んでしまい、娘は不幸な結婚をし、そして彼自身も恐らくは癌と思われる不治の病に罹っていました。訪問客が彼と話していると、彼の末娘が部屋に入って来て尋ねました。「お父さん、これから町へ買い物に行きますが、何を買ったらいいの。」すると、彼は言いました。「そうだね、ピストルを一つ頼む。もうこれ以上生きたいとは思わない」と。
私たちは皆、次のことを良く知っています。すなわち、この世の富は過ぎ行くものであり、この地上の一生はすぐに消えてなくなる、霞のようなものである。しかし、主なる神の御目的は富やこの世の一生をはるかに越えたものです。主なる神は人間が永遠の幸せであることを望んでおられます。主なる神はそのことを望んでおられるのみならず、主イエス様が主イエス様を通して永遠の幸福への道を開いてくださいました。その道とは取りも直さず、「十字架」です。十字架につけられた主イエス様です。この十字架によって全人類の債務を ご自分の上に、引き受けてくださり、そのために、ご自分のいのちをささげてくださったのです。
スエーデンの首都ストックホルムの墓地には有名なスエーデンの詩人ストリンドベリーが葬られています。その墓石には次のことばが刻まれています。すなわち、「十字架こそ唯一の救い」。この詩人は長い間、主なる神を否定していました。しかし歳をとってから、彼はそれまでの間違った道から立ち戻りました。死の少し前、彼は自分の日記に、次のことを書き記したのです。「私は、神なしに、自分勝手に生きたと思っていたことから、私のすべての不幸がやって来た」ということを、正直に告白せざるを得なかったのです。
生けるまことの神との結びつきを持っていない者を主なる神は祝福することができません。人間が自分自身の力、自分自身の知恵によって本当の幸福を見いだすことができません。イエス様が祝福してくださらなければ、すべてのことはまったく意味のないことであり、むなしいものです。それから、彼は自分の墓石に「 十字架こそ唯一の救い」ということばを刻み込んでくれるように頼みました。
私たちは親しい人に会うと、しばしば、「お元気ですか」と尋ねます。すると、ドイツではしばしばユーモアを交えて次のように答えます。「お陰さまで、元気です。健康でもあり、お金もたくさんあることですし」と。しかし、健康で、お金がたくさんあるということは、ほんとうにたいせつなことなのでしょうか。決してそうではありません。病気でその上貧しい人々。しかし、それにもかかわらず、ほんとうに幸せな人がいます。なぜなら、その人々は主イエス様にあって、永遠の幸福を見出したからです。人間は誰でも死に向かう者です。なぜでしょう。なぜなら、人間は誰でも主なる神の前に過ちを犯す者であるからです。
善を行なう者はいない。ひとりもいない。(詩篇14・3)
と、聖書は言っています。聖書の言っている罪は、生けるまことの神からの隔てです。人間の本来の病は、罪の本質です。この病をいやすためにイエス様は十字架にかかってくださいました。
(5月5日、西軽井沢国際福音センターで開かれた「喜びへのコンサート」で語られたベック兄のメッセージの聞き書きである。私もその場におり、短い話だが感銘を受けた。昨日6日こちらに戻った。帰る際、若き友に願って車に便乗させていただいた。聞き書きをするうちにこの若き友との車内での豊かな交わりの中にメッセージと同質のものがあったことを思い出した。それが何なのか、明日は少しその恵みについて書き加えたい。)
2014年5月2日金曜日
「永遠の愛」に導かれたお母様(下)
人は死ねばどんな者もすぐ極楽浄土に行く(と考えるか)、あるいは極楽浄土に行くためにお坊さんがお経を読んで、そして一生懸命執り成されます。けれどもそのようなことは一切必要ないのです。また逆にそのようなことをしても私たちのいのちは天の御国に行くものではありません。(そのことは)逆に考えると、(死は)恐ろしいものです。だれもが天の御国に行くことができないのです。イエス様を信じ受け入れる者だけが天の御国に行けるのです。
「(このような考え方は )ものすごく独善性に満ちているのじゃないか、なぜそんなことが言えるのか、あなたは。」とおっしゃるかも知れません。けれども聖書はそのことをはっきり言っているのです。なぜなら聖書は人間の死の根本原因が「罪」であると言っているのです。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6・23)といのちの書である聖書はこのように言っているのです。
人は、自分が気に入らないことがあったりすると腹を立てるものです。でも、いつもそんな時ばかりではありません。サラリーマンとして一生懸命に家族のために犠牲を払って生きて来、人様から何の後ろ指を指されることをした覚えもない(特に法律上の罪を犯したこともない)そんな自分に向かって薮から棒に「罪」と言われても、何だ、と多くの人は思われると思います。でも聖書が言っている、死の原因は罪であるということについて、真剣に考えて見る必要があります。
聖書が私たちに伝える罪は(育ててもらった)子どもが親に向かって、あなたは私の親でないと言うようなものです。親でなくてももし子どもがそのような態度を取るなら、人はとんでもない子どもだと言うに違いありません。しかし、実はこのどうしようもない子どもが私たちで、私たちにそんなことを言われてもじっと我慢している親が神様だとあてはめて考えればいいのではないでしょうか。
神様は天地創造の主です。私たちをそれぞれ母の胎内のうちに育まれた方です。そしてそれこそ太陽、水、空気とその他実に様々な恩恵を与えて、いらっしゃるお方です。私たちが静かに胸に手をあてて考えて見れば、びっくりするような愛のうちに私たちの命を支えておられるのです。まさしく「永遠の愛」をもってわたしはあなたを愛した、わたしはあなたに誠実を尽くし続けたと言われる神様です。
そのお方は、私たちにとって目に見えないお方です。私たちの心のうちには、でもどんな人間にも、霊、その神様に応答する霊が与えられているのです。その証拠に、恐らく先頃韓国の水没する船の中で多くの人が「神様!助けてください」と叫んだのではないでしょうか。何と悲惨なことかと私たちは思います。けれども「助けてください」という祈りは必ず聞かれるのです。問題は私たちが助けてくださる神様を認めない、神様に感謝しない、ちょうど子どもが親に育ててもらったのに、親を親として認めない。それが罪なのです。
「自分の人生だから自分の思うように生きていいじゃないか。何でそんなことを言うのだ。」と人は思うのです。罪というのは自分がいつも主人で、神様の前に頭を下げたくないという心です。そしてその心は偉そうなことを言っている私の心のうちに(つねに)あるんです。そして私だけでなく、ここにいらっしゃるすべての人が同じように神様が信じられないのです。神様に対する不信仰と言う罪をもって人は生まれて来ているんです。その結果が死だと言うのです。死は平等です。なぜならすべての人が罪人ですから。
でも、イエス様は、その、人が自分を認めようとしない罪、神様を認めようとしない罪が、結局、人が生きていく上でどんなに様々な不安や恐怖に陥れ、またその挙げ句、罪を持ったままで死んでしまえば、死後二度と生ける神様と交わることがない、それこそ「地獄の死」という苦しい目にあうかを一番良く知っておられるのです。
そして、父なる神様は、罪人が(悔い改めて)自分のところに帰れるように尊い御一人子であるイエス・キリストをこの地上に人として遣わしてくださったのです。この方はそのような私たちのわがままな罪を、自分の(父なる神から受ける)罰として十字架で全部負わせられたのです。それが2000年前のイエス様の十字架上での死(と三日後の復活の事実)です。
H子お母様はこのイエス様をご自分の救い主として信じられたのです。イエス様を信ずるとは自分のわがままな罪は全部イエス様が背負ってくださった、ありがとうございますという態度を持つことです。その態度を持つ人は罪の支払う報酬である「死」から完全に解き放たれるのです。もはや「死」はその信仰を持つ人を支配しないのです。そうでなく、神の下さる賜物である永遠のいのちをいただき、「いのち」が生き続け、そして死後も支配する生活です。
H子お母様は私たちの目には死んだように見えますが、それは肉体が死んだだけです。この確かな信仰を持たれたH子お母様の霊は神様の前で死んでいるのではありません。ここにいる誰よりも幸せなのです。それはもはや病気になることや様々な恐れを持つ状態から解放されているからです。イエス様は
神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」(ルカ20・38)
と言われましたが、H子お母様は神様の前に生きておられるます。
だから私たちは死を忌まわしいものとして恐れる必要はないのです。また別離を悲しむ必要はないのです。神様の前に生きておられる方、誰よりも幸せでいらっしゃるH子お母様と天の御国で会える喜び、それを獲得すべきなのです。
けれども、お母様と天の御国で再会するためには、私たち自身が神様の前に生きている必要があります。先ほども申しましたけれど、神様の目から見て、人は生きているか死んでいるか、それを神様は見ておられるのです。それは、今生きていても神様を信じない者は、神様の目から見ると、失われた人、死んでいる人なのです。今何も言うことのできないH子お母様は死んでいるように見えますが、その霊はいずれ不死のからだを着せられるまで神様の前で私たちの来るのをイエス様と一緒に待機して待っていてくださる、誰よりも生き生きとして生きておられるのです。
お母様の死は決して終わりではありません。天の御国にいらっしゃる。そのことを私たちは確信したいと思います。お手元のソングシートの賛美の歌詞にありましたが、それはお母様の姿を歌ったものです。日々の歌223番の歌は
水晶のように光る川のほとりでまた会いましょう。神様の川はやさしくやさしく流れ、みんながまた集まるその楽しさよ
と書いています。この歌は聖書の黙示録のみことばが出典となっています。その黙示録のみことばを読んで終わりたいと思います。
御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。(黙示22:1〜6)
「信仰」は信心ではありません。正面の掛け軸に書かれているみことば
わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11・25)
「よみがえりです。いのちです。」と言われる方(イエス様)をお母様は信じて私たちよりも元気です。私たちの大好きなお母様と会うためにはどうしても(イエス様を信ずる)「信仰」が必要です。
「(このような考え方は )ものすごく独善性に満ちているのじゃないか、なぜそんなことが言えるのか、あなたは。」とおっしゃるかも知れません。けれども聖書はそのことをはっきり言っているのです。なぜなら聖書は人間の死の根本原因が「罪」であると言っているのです。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6・23)といのちの書である聖書はこのように言っているのです。
人は、自分が気に入らないことがあったりすると腹を立てるものです。でも、いつもそんな時ばかりではありません。サラリーマンとして一生懸命に家族のために犠牲を払って生きて来、人様から何の後ろ指を指されることをした覚えもない(特に法律上の罪を犯したこともない)そんな自分に向かって薮から棒に「罪」と言われても、何だ、と多くの人は思われると思います。でも聖書が言っている、死の原因は罪であるということについて、真剣に考えて見る必要があります。
聖書が私たちに伝える罪は(育ててもらった)子どもが親に向かって、あなたは私の親でないと言うようなものです。親でなくてももし子どもがそのような態度を取るなら、人はとんでもない子どもだと言うに違いありません。しかし、実はこのどうしようもない子どもが私たちで、私たちにそんなことを言われてもじっと我慢している親が神様だとあてはめて考えればいいのではないでしょうか。
神様は天地創造の主です。私たちをそれぞれ母の胎内のうちに育まれた方です。そしてそれこそ太陽、水、空気とその他実に様々な恩恵を与えて、いらっしゃるお方です。私たちが静かに胸に手をあてて考えて見れば、びっくりするような愛のうちに私たちの命を支えておられるのです。まさしく「永遠の愛」をもってわたしはあなたを愛した、わたしはあなたに誠実を尽くし続けたと言われる神様です。
そのお方は、私たちにとって目に見えないお方です。私たちの心のうちには、でもどんな人間にも、霊、その神様に応答する霊が与えられているのです。その証拠に、恐らく先頃韓国の水没する船の中で多くの人が「神様!助けてください」と叫んだのではないでしょうか。何と悲惨なことかと私たちは思います。けれども「助けてください」という祈りは必ず聞かれるのです。問題は私たちが助けてくださる神様を認めない、神様に感謝しない、ちょうど子どもが親に育ててもらったのに、親を親として認めない。それが罪なのです。
「自分の人生だから自分の思うように生きていいじゃないか。何でそんなことを言うのだ。」と人は思うのです。罪というのは自分がいつも主人で、神様の前に頭を下げたくないという心です。そしてその心は偉そうなことを言っている私の心のうちに(つねに)あるんです。そして私だけでなく、ここにいらっしゃるすべての人が同じように神様が信じられないのです。神様に対する不信仰と言う罪をもって人は生まれて来ているんです。その結果が死だと言うのです。死は平等です。なぜならすべての人が罪人ですから。
でも、イエス様は、その、人が自分を認めようとしない罪、神様を認めようとしない罪が、結局、人が生きていく上でどんなに様々な不安や恐怖に陥れ、またその挙げ句、罪を持ったままで死んでしまえば、死後二度と生ける神様と交わることがない、それこそ「地獄の死」という苦しい目にあうかを一番良く知っておられるのです。
そして、父なる神様は、罪人が(悔い改めて)自分のところに帰れるように尊い御一人子であるイエス・キリストをこの地上に人として遣わしてくださったのです。この方はそのような私たちのわがままな罪を、自分の(父なる神から受ける)罰として十字架で全部負わせられたのです。それが2000年前のイエス様の十字架上での死(と三日後の復活の事実)です。
H子お母様はこのイエス様をご自分の救い主として信じられたのです。イエス様を信ずるとは自分のわがままな罪は全部イエス様が背負ってくださった、ありがとうございますという態度を持つことです。その態度を持つ人は罪の支払う報酬である「死」から完全に解き放たれるのです。もはや「死」はその信仰を持つ人を支配しないのです。そうでなく、神の下さる賜物である永遠のいのちをいただき、「いのち」が生き続け、そして死後も支配する生活です。
H子お母様は私たちの目には死んだように見えますが、それは肉体が死んだだけです。この確かな信仰を持たれたH子お母様の霊は神様の前で死んでいるのではありません。ここにいる誰よりも幸せなのです。それはもはや病気になることや様々な恐れを持つ状態から解放されているからです。イエス様は
神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」(ルカ20・38)
と言われましたが、H子お母様は神様の前に生きておられるます。
だから私たちは死を忌まわしいものとして恐れる必要はないのです。また別離を悲しむ必要はないのです。神様の前に生きておられる方、誰よりも幸せでいらっしゃるH子お母様と天の御国で会える喜び、それを獲得すべきなのです。
けれども、お母様と天の御国で再会するためには、私たち自身が神様の前に生きている必要があります。先ほども申しましたけれど、神様の目から見て、人は生きているか死んでいるか、それを神様は見ておられるのです。それは、今生きていても神様を信じない者は、神様の目から見ると、失われた人、死んでいる人なのです。今何も言うことのできないH子お母様は死んでいるように見えますが、その霊はいずれ不死のからだを着せられるまで神様の前で私たちの来るのをイエス様と一緒に待機して待っていてくださる、誰よりも生き生きとして生きておられるのです。
お母様の死は決して終わりではありません。天の御国にいらっしゃる。そのことを私たちは確信したいと思います。お手元のソングシートの賛美の歌詞にありましたが、それはお母様の姿を歌ったものです。日々の歌223番の歌は
水晶のように光る川のほとりでまた会いましょう。神様の川はやさしくやさしく流れ、みんながまた集まるその楽しさよ
と書いています。この歌は聖書の黙示録のみことばが出典となっています。その黙示録のみことばを読んで終わりたいと思います。
御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。(黙示22:1〜6)
「信仰」は信心ではありません。正面の掛け軸に書かれているみことば
わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11・25)
「よみがえりです。いのちです。」と言われる方(イエス様)をお母様は信じて私たちよりも元気です。私たちの大好きなお母様と会うためにはどうしても(イエス様を信ずる)「信仰」が必要です。
2014年5月1日木曜日
「永遠の愛」に導かれたお母様(上)
ほぼ一週間の間に親しい方の訃報に接し、今週は月曜日と今日の木曜日と二度葬儀に出席した。月曜日は仏式であった。今日は聖書に基づく葬儀であった。下記はその葬儀で語られたメッセージの聞き書きである。
H姉妹のご逝去はご家族の皆様にとっては大きなショックであったのではないかと思います。死が突然やって来ることを私たちはお母さんの死を通して考えなければなりません。でも、「備えあれば憂いなし」と言います。
確かに私たちの前からお母さんの、今は亡骸はありますけれど、日常(的に)会話するお母さんは私たちの前から奪われたわけですが、そのことだけを目に留めると、本当にショックと同時に心は動揺するばかりであります。しかし、先ほど兄弟が、司会の兄弟、また祈りの兄弟が、祈られましたように、一旦目をお母様が召された天の御国、そしてイエス様ご自身に目を転ずることを通して全く違った見方、というよりもその本当の真実の姿を私たちは知ることができるのであります。
私もお母様とはそれほど深い会話をしたわけではありません。けれどもお母様が集会に集われて、そして礼拝にともに参加した間柄です。そしてお母様が召されてからお母様自身の聖書を通して、私はお母様の新しい姿というのを存分に知ることができたのです。先ほど「備えあれば憂いなし」と申しましたが、お母様はご自身の死に対してはっきりとした聖書、すなわち、いのちの書である神のことばで備えておられたことを私は知りました。自分の息を引き取るあとのことをはっきりと書いておられます。
先ほど兄弟が紹介されましたように70歳の時にイエス様を受け入れて、そして80歳の時に、いつ死んでもいいようにその証を書きとめられたのであります。70歳と言うのは、私は今71歳ですから全く同年齢、その時にお母様はイエス様を信じられました。そのことはお嬢様でいらっしゃる長女のM子姉妹から祈られ、そして福音を聞かれた結果であります。お母様が洗礼を受けられた時にM子姉妹は次のみことばを読まれました。エレミヤ書31章3節です。
主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」
お母様は永遠の愛をもって愛してくださる方、誠実を尽くし続けてくださる神様、イエス様の愛を心の中心に受けとめられました。そして聖書が示す、「死は終わりではない、死んでも生きる道」をご自身の霊で感じておられたのではないでしょうか。聖書に対する書き込み、あるいは様々な傍線の箇所、また集会に出席した時のノートを見せていただいたのですが、メッセンジャーが語られるメッセージ、それは御霊なる神様が人を用いて語られるものでありますけれど、素直にそのとおり記されているのです。
私たちは人の話を聞く時に、本当に素直でしょうか。お母様は70歳を越えて、ご主人とともに集会に出席したその時に、年下の者が話すことをそのまま素直に書きとめておられるのです。書き込みがない場合にも聖書のメッセージをその聖書の中に鉤括弧で記しておかれるのです。私はそれを見て、今日の葬儀は何も必要ないな、と思ったのです。お母様の記されたその聖書のことばを朗読するだけでもう十分私たちの心は満たされるという思いがしました。
なぜならば御霊なる神様ご自身にお母様は心の深いところでやはり支えられていたのです。家族の中ではM子さん、Iさんの知らないお母さん、いや良く知っておられたのでしょうけれど、やはり(人の)霊のことは(神の)霊を通してしかわかりません。たとえ親であろうとも生けるまことの神様に対する心の思いというのは、本当に主ご自身しかわからないのです。けれどもお母様はそのような聖書を私たちに残して下さいました。
それはお母様に誠実を尽くし続けられたのが、「永遠の愛」をもっておられる神様で(あるからで)す。お母様のお名前は本当に(ある意味で)珍しい、姓と名の組み合わせですが、この「永遠の愛」を受け継ぐにふさわしいお名前ではないでしょうか。どのように生きられたか、死んで終わりではない、永遠の生に連なる生き方をイエス様をとおして受けとめられていたのであります。だから今日の葬儀はイエス様にあって召されるということがどんなにすばらしいことか聖書をとおして考えさせていただければ幸いであります。H子お母さんが一番喜んでくださることはそのことであります。
人は息を引き取ります。しかし、イエス様を信じて死ぬ者は聖書には
『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』(黙示14:13)
とはっきり書かれています。息を引き取った瞬間。妹さんのIさんはその時に立ち会われてもっと自分が(お母さんの状態に)気がついていれば良かったのにと自分を責めておられるということを漏れ聞きしましたが、確かにお母様は病院を、いろんな病院を経由して私たちが信じられないような形で早く召されたのですが、お母様は、イエス様のもとに(息を引き取られた瞬間)、行っておられるのです。だから、お母さんのことは何も心配する必要はないのです。問題は遺された私たちの方です。 なぜならばイエス様のところに行かれたお母様は、地上のすべての生活にまさって、素晴らしい生活、私たちが想像できないような
見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示21・3〜4)
と、書いてありますように、そのような「目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」(天の御国に行かれたのです)。本当にこの地上で生きることは私つくづく思うのですが、つらい悲しいことが多くあります。けれどもイエス様にある死者、イエス様を信じている者は決して死が終わりじゃないのです。
H姉妹のご逝去はご家族の皆様にとっては大きなショックであったのではないかと思います。死が突然やって来ることを私たちはお母さんの死を通して考えなければなりません。でも、「備えあれば憂いなし」と言います。
確かに私たちの前からお母さんの、今は亡骸はありますけれど、日常(的に)会話するお母さんは私たちの前から奪われたわけですが、そのことだけを目に留めると、本当にショックと同時に心は動揺するばかりであります。しかし、先ほど兄弟が、司会の兄弟、また祈りの兄弟が、祈られましたように、一旦目をお母様が召された天の御国、そしてイエス様ご自身に目を転ずることを通して全く違った見方、というよりもその本当の真実の姿を私たちは知ることができるのであります。
私もお母様とはそれほど深い会話をしたわけではありません。けれどもお母様が集会に集われて、そして礼拝にともに参加した間柄です。そしてお母様が召されてからお母様自身の聖書を通して、私はお母様の新しい姿というのを存分に知ることができたのです。先ほど「備えあれば憂いなし」と申しましたが、お母様はご自身の死に対してはっきりとした聖書、すなわち、いのちの書である神のことばで備えておられたことを私は知りました。自分の息を引き取るあとのことをはっきりと書いておられます。
先ほど兄弟が紹介されましたように70歳の時にイエス様を受け入れて、そして80歳の時に、いつ死んでもいいようにその証を書きとめられたのであります。70歳と言うのは、私は今71歳ですから全く同年齢、その時にお母様はイエス様を信じられました。そのことはお嬢様でいらっしゃる長女のM子姉妹から祈られ、そして福音を聞かれた結果であります。お母様が洗礼を受けられた時にM子姉妹は次のみことばを読まれました。エレミヤ書31章3節です。
主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」
お母様は永遠の愛をもって愛してくださる方、誠実を尽くし続けてくださる神様、イエス様の愛を心の中心に受けとめられました。そして聖書が示す、「死は終わりではない、死んでも生きる道」をご自身の霊で感じておられたのではないでしょうか。聖書に対する書き込み、あるいは様々な傍線の箇所、また集会に出席した時のノートを見せていただいたのですが、メッセンジャーが語られるメッセージ、それは御霊なる神様が人を用いて語られるものでありますけれど、素直にそのとおり記されているのです。
私たちは人の話を聞く時に、本当に素直でしょうか。お母様は70歳を越えて、ご主人とともに集会に出席したその時に、年下の者が話すことをそのまま素直に書きとめておられるのです。書き込みがない場合にも聖書のメッセージをその聖書の中に鉤括弧で記しておかれるのです。私はそれを見て、今日の葬儀は何も必要ないな、と思ったのです。お母様の記されたその聖書のことばを朗読するだけでもう十分私たちの心は満たされるという思いがしました。
なぜならば御霊なる神様ご自身にお母様は心の深いところでやはり支えられていたのです。家族の中ではM子さん、Iさんの知らないお母さん、いや良く知っておられたのでしょうけれど、やはり(人の)霊のことは(神の)霊を通してしかわかりません。たとえ親であろうとも生けるまことの神様に対する心の思いというのは、本当に主ご自身しかわからないのです。けれどもお母様はそのような聖書を私たちに残して下さいました。
それはお母様に誠実を尽くし続けられたのが、「永遠の愛」をもっておられる神様で(あるからで)す。お母様のお名前は本当に(ある意味で)珍しい、姓と名の組み合わせですが、この「永遠の愛」を受け継ぐにふさわしいお名前ではないでしょうか。どのように生きられたか、死んで終わりではない、永遠の生に連なる生き方をイエス様をとおして受けとめられていたのであります。だから今日の葬儀はイエス様にあって召されるということがどんなにすばらしいことか聖書をとおして考えさせていただければ幸いであります。H子お母さんが一番喜んでくださることはそのことであります。
人は息を引き取ります。しかし、イエス様を信じて死ぬ者は聖書には
『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』(黙示14:13)
とはっきり書かれています。息を引き取った瞬間。妹さんのIさんはその時に立ち会われてもっと自分が(お母さんの状態に)気がついていれば良かったのにと自分を責めておられるということを漏れ聞きしましたが、確かにお母様は病院を、いろんな病院を経由して私たちが信じられないような形で早く召されたのですが、お母様は、イエス様のもとに(息を引き取られた瞬間)、行っておられるのです。だから、お母さんのことは何も心配する必要はないのです。問題は遺された私たちの方です。 なぜならばイエス様のところに行かれたお母様は、地上のすべての生活にまさって、素晴らしい生活、私たちが想像できないような
見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示21・3〜4)
と、書いてありますように、そのような「目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」(天の御国に行かれたのです)。本当にこの地上で生きることは私つくづく思うのですが、つらい悲しいことが多くあります。けれどもイエス様にある死者、イエス様を信じている者は決して死が終わりじゃないのです。
登録:
投稿 (Atom)