川縁に パラソル開く 釣り人ら |
今日の雨降りは、一層水かさを増して、魚たちは喜んでいるのだろうか。魚の生態も知らず、呑気なこと、児戯にも等しいことを考えている。釣り人らは、この雨天下、次なる秘策をねらって格好のポイントを押さえる準備をしておられるのだろうか。人ごとながら興味ある川縁の人と魚と緑の織りなす平和な風景である。
さて、われらが主なるイエス・キリストは大工であったが、どっこい海にも魚にも強かった。そのエピソードを福音書から引いてみよう。
群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。(新約聖書 ルカの福音書5章1節〜6節)
この福音書を書いた人物はルカと言い、医者であった。魚は海に川に生息する。釣り人は釣果(ちょうか)を求めて根気強く釣り糸を垂れておられるのだろう。一方、漁業者は漁獲を求めて日々天候と相談されながら漁をされており、私たちはそのおかげで魚を食べることができる。いつも変わらぬ人間世界の現実である。
その現実世界にあって、イエスはこの石をパンに変えて見ろというサタンの声に耳を貸されなかった。しかし、ここではたいへんな奇跡が行なわれている。十字架から飛び降りてみろと罵られたイエス・キリスト、そんなことは日常茶飯事で神の子はできたはずである。しかし、十字架からは降りられなかった。かえって人間のなすがままにまかされ、逆にそのような人間(自分を十字架につけてやまない人間)の赦しをひたすら祈られた。そのことも、やはりこの医者ルカが後半で記している。だとすると、このシモンという漁師になさったみわざは、シモンのためになさった奇跡、シモンの「信仰」のためになさった奇跡だと考えるしかないのではないか。
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