2023年4月6日木曜日

最も小さい者たちのひとりにした

春深し ためすすがめつ 眺めおり
 ほぼ半崩れのアルバム帳に、一枚の写真があった。ほとんど数十年見ていなかった代物である。しかし、私にとって捨て難い写真ではある。写真のどの若者にも純な未来が透けて見える。この五人の若者は、私が1970年5月に下宿先から県営住宅に移った時に引越しを手伝ってくれた御仁である(写真は引っ越し先の県営住宅前のもの)。

 半世紀以上も経つ写真になぜそんなに愛着を覚えるのだろうか。改めて五人の若者の姿を見る時、その眼差しだけは今も鮮明に焼き付いているからである。それもあってだろうか、二十数年前、せんげん台駅で一人の方とすれ違い、思わず声をかけた。この写真の右端の人である。不思議なことにすらすらと名前が出て来た。

 先方はこれから電車に乗り、東京への出勤途上であり、長話もできず、ほんの2、3分の立ち話で終わった記憶がある。ところが昨年11月8日皆既月食の話で持ちきりだった時、NHKが一人のアマチュア天文家を紹介した。びっくりした。同じ彼だった。歳老けたとは言え、紛うことのない彼であった。

 その報道では同君は60年来の天文観察家であると報じていた。だとすれば、私は彼が高校一年の時の担任であったから、知っていても当然である。私は自らの不明を恥じる思いだった。同時に交通事故で担任を降りざるを得ず、その時の生徒諸君には顔向けできない思いもあった。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2019/03/1969312.html 私の引っ越しは、それから二年経って、ちょうど彼らが三年になったばかりであった。とっくに担任を離れ義理を欠く私のために、この五人の若者が手伝ってくれたのである。

 考えてみれば、人生すべてこれ塞翁が馬である。その時点、時点で誠意を尽くす人間の生き方こそ求められていると自戒する。また、五人の若者の純な眼差しが今も生きていることを切に祈る。受難週の火曜日、一昨日(4日)の引用箇所に引き続いて、やはりイエスさまは重要なことを語っておられる。以下がそのフレーズの一つである。

「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」(新約聖書 マタイの福音書25章31節〜40節)

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