2010年3月7日日曜日

ご結婚おめでとうございます


 土曜、日曜と西軽井沢福音センターで行われた結婚式のための出席を兼ねて長野県の御代田に出かけた。金曜日は全国的に気温が上昇して信州もその影響下にあったが、夜からは気温が低下したようだ。ちょうどこちらを出かけるころは曇りであったが碓氷峠に差し掛かるころから濃霧に覆われた。

 前日が天気が良かっただけに、急変する天気に内心びっくりさせられた。できれば結婚式は晴れやかな晴天の下でさせてあげたいなと思っていた。しかし、いざ終わってみると、そんなことはどうでもよいことに気づかされた。何よりも結婚されたお二人が主イエス様にあって結び合わされたことがはっきりしていた。それだけでなく、式に始まり、披露宴までが、すべて聖霊なる神様がご支配されるさわやかな結婚式であったからである。

 私は二人の結婚式のお証をとおして次の聖書の箇所を示された。それは族長アブラハムが妻サラの死後、一人息子であるイサクのお嫁さん探しに、遠く離れた生まれ故郷まで、しもべを派遣する場面である。

しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。・・・(創世記24・10~12)

 しもべは、一体だれが主人の大切な息子イサクの結婚相手がふさわしいか知らない。またたとえ見つかったとしても、どのようにしてその女性を説得して、その娘さんにとっては異郷の地である主人アブラハムの地まで連れて来ることができるのだろうか。その祈りが前出の記事である。

 しかし、しもべのこの祈りは長い旅路の末、目的地に着き、まず件の娘さんに出会い、叶えられる。祈りは答えられたのだ。

そこでその人は、ひざまずき、主を礼拝して、言った。「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」(創世記24・26~27)

 しもべははからずもアブラハムの兄弟ナホムの孫にあたる娘リベカを主君の息子であるイサクのお嫁さんとして探すことに成功したのであった。そしてこのリベカもまた果敢にも、まだ相手がどんな男であるかも知らずに、生けるまことの神様を信頼して、しもべと一緒に行をともにし、将来の夫君の下へと急ぐのであった。

イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が主人です。」そこでリベカはベールを取って身をおおった。しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。(創世記24・63~67)

 お証を通して、結婚されるお二人のそれぞれが人生の辛酸をこれまで十分経験されてきたことがわかった。新郎は生まれられたご家庭の中で幼き時から翻弄されながらも、しっかりと人生を生きてこられた。しかも何年か前、最愛のお母さんを亡くされ今や孤独の身であった。一方、新婦は恵まれた家庭に育たれたが、帰国子女として悩まれた。真剣に生きてきたつもりの人生も、のちに勝手気ままなる自らの人生の歩みと断ぜざるを得なかった。そのような彷徨の生活で傷つきながら、真の愛を求めておられた。そして主イエス様の救いにあずかられたのであった。全く環境の異なるお二人がもし主がおられなければ決して一つには結び合わされることはありえなかった。ここまで思い至ったとき前出の聖書の場面を思い出したのであった。

 新郎はその証の中で「私は新婦を通して、いのちのパンを食べることを知りました。Mさんは私よりすでにたくさんこのパンを食べておられ、私よりはるかに聖霊に満ちあふれる生活を経験されていますが、これからは二人してこのいのちのパンを一緒に食べられますので感謝です。そしてだれよりもまだそのパンを食べる喜びにあずかっておられない方々にイエス様をご紹介したいです」という意味のことを言われた。

 多くの方がこのお二人の結婚のために祈られ奉仕された。(私も新婦が家内の高校時代の親友の娘さんであったこともあり、祈らせていただいていた。)しかし主の祝福は二人だけでなく、招待されたご友人方130名余の方をふくめ当日集ったすべての人々に及んだ。

 今朝は土曜日の結婚式当日とまた打って変わり、長野県御代田地方は朝から雪だった。一夜にして顕われた白銀の世界に私は再び目を見張らされた。

たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。(イザヤ1・18)

(写真は今朝の西軽井沢福音センターの車寄せの景色。「白雪の ヴェールなりき 主の愛」「二人して 雪忘れまじ 結び合い」)

2010年3月6日土曜日

沈丁花本番


 何回でも書きたいと思う。それだけ主の祝福が大きいのだ。昨日も闘病中の愛するAさんをお見舞いして、お交わりをいただいて喜んで帰ってくることができた。

 Aさんは段々体が動かなくなってきた。食事も消化の良いものを食べるようにしているが、最近ではもどすことがある、とおっしゃった。そのような彼と男同士で延々と二時間程度話しをする。歴史から今の政治状況や未来の日本の行く末を知って慨嘆されるAさん。私はもっぱら聞き役である。

 中国の撫順で生まれ、お父様は戦後復員される。生きて虜囚の辱めを受けず、との戦陣訓にもかかわらず生き延びるために日本に帰ってきたとき、日本の敗残兵を迎える視線は冷たかったと言う。長男として彼もまたその戦争の傷跡を受けて育った。しかし、自身の成長に合わせるかのように、世はもはや戦後は終わったと称し始めていた。何よりも彼自身が父親と違って今度は高度経済成長の企業戦士として大いに活躍した。

 その彼が定年後に経験したのは一昨年の癌の発病であった。爾来、押し迫る病苦との闘いが続く。彼の負わされた十字架である。友人を通してイエス・キリストの救いを受けられたことは全くもって僥倖であった。しかしにわか仕立てのキリスト者として、様々なこれまで歩んできた人生の残滓がある。そんなものが今もAさんを捉えて離さない。お嬢さんに五木さんの「親鸞」を買ってきて欲しいと所望したということである。彼の飽くなき知識欲は今も衰えていない。

 今日は私の出身地彦根の話から、井伊直弼論が飛び出し、それから話は発展して徳川慶喜論まで聞かされた。エンジニアーとして生きてきた彼だが、つねに彼の念頭を離れないのは原爆投下を行った人々を始めとする悪への断罪の言葉である。しかし所詮それは自分自身を含めて人間は罪人であることと同義であることに気づいている。そんな人間への鎮魂の思いが彼を捉えている。

 頃合を見計らって、私は聖書を取り上げる。神の言葉である聖書が何と語っているか、それが私と彼との共同作業でもあるからである。今日はローマ8章を取り上げた。ほとんど解説抜きである。互いに一節ずつ輪読する。彼は寝たままの姿勢で重い聖書を持ち上げつつ、老眼鏡もつけずほとんどつかえることなく、声に出して読み上げる。私は彼のベッドの脇で老眼鏡に頼りながらリードしていく。本当言って、途中(25節)で打ち切るつもりでいた。しかし委細構わず、彼の熱意は終わりに向かって疾駆した。とうとう39節まで全て読み終えた。

 病床にいる彼を誰が慰めることができようか。しかし聖書の生きた言葉は彼の衰えようとする精神を再び生き返らせる。まさしく次のみことばのとおりである。

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。・・・ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(2コリント4・11、16~18)

 病床で朽ち果てんばかりの病苦においやられていく彼と、こうしておよそ一年になんなんとする、聖書読みが続いている。彼はまさか私のたましいを救うためにも自分が生かされているとは思っていないかもしれない。しかし私にとってこの彼の存在はこの上もなく尊い。ましてや主イエス様は彼を高価で尊いと言われる。晩年に闖入した私という存在を彼もまたやさしく受け留めてくれている。

 ただ主に感謝するだけだ。

(写真はAさん宅の庭の沈丁花。生き生きとして威勢が良い。この窓の奥にAさんは病臥している。「ひとめぐり 沈丁花の 香新たに」「愛するは 沈丁花に 向かう人」)

2010年3月5日金曜日

愛は深い―昨日の家庭集会から―


 20年前良く泣いた。それは通勤途上でもそうであった。もっとも私の通勤は30分程度の自転車通勤であったのだが。その原因はウォークマンをとおして聞こえて来る吉祥寺キリスト集会という群れにいる人々の聖書のメッセージや証にあった。20年前の今頃、我が家は毎日毎晩それまで集っていた教会を出る出ないで家族内が引き裂かれるように混乱していた。その委細は省略するが、数ヶ月の葛藤苦しみの末、5月には私自身20年間集っていた教会、しかも自らが自主的に選んだ教会を退会した。私の人生でもっとも大きな決断であり、地殻変動とも言うべき出来事だった。

 私が泣いたのは、他でもない。自分が全く自己中心の生き方しかしていなかったことの悔い改めであった。今朝読んだ聖書のみことばに次のものがあった。

私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。(ローマ14・7~9)

このみことばは私にとって死語であった。「私は主のものです。」とこれっぽちも思ったことはなかった。だからこのパウロのことばは当時の私には、何のことを言わんとしているかわからなかった。

 教会20年の生活で、最初こそみことばを真剣に求めていたのに、いつの間にかそれがなくなってしまっていた。それは教会役員としてみことばに聞き従うより、組織としての教会を建設することに一生懸命にならざるを得なかったからである。教会のかしらであるイエス様の存在は教理として頭で理解していた。しかし、現実の自分は、今も生きて働いておられる主イエス様のみわざを信じていなかった。それを知ろうとも、もちろん目に見えない今も臨在される主イエス様を愛そうなんて、そんな意識はまるでなかった。要するに、生き生きとした、主イエス様に対する信頼がなかったのである。

 ところが教会を出て、今出席している集会に出た時、通勤途上のウォークマンを通して絶えず聞かされたのは赤裸々な自らの悪行を臆面もなく語ることばであり、その罪を赦された主イエス様に対する限りない感謝と愛の告白のことばであった。そのようにしてひたすら主イエス様に向かう人々の思いが20年前の私には極めて新鮮であった。鉛のように、また澱のように淀んでいた主イエス様から離れて罪を罪とも思わなくなっていた私の心に、それらの人々の言葉をとおして主イエス様の愛は再び怒涛のごとく流れ込んできた。私がその愛に対してお返しするのはただ悔い改めの涙以外しかなかった。

 それからまた20年が経過している。昨日は拙宅で家庭集会を開かせていただいた。多くの方が集ってくださった。お一人お一人のお顔を見て嬉しくなり、励まされた。八王子から来てくださる方のメッセージは一時間を越えた。その後、一人の私と同年代のご夫人の証をいただいた。メッセージと証は一体であった。なぜかとめどもなく涙が出てきた。できれば人目もはばからずそこでずっと泣いていたかった。

 その方はお寺の深窓でお生まれになり育たれた。本堂の仏像に囲まれた生活が彼女の生育環境であった。しかし、なぜか彼女はお堂の太い柱を回りながら、「ここには何もない」「ここには何もない」と独言(ひとりごち)したそうである。一方、そんなお寺で育った幼子である彼女が小さいころから耳にしていたのはラジオから流れ出る「ルーテルアワー」のテーマソングの曲だった。なぜか彼女はその世界に心惹かれるものを感じた、と言う。

 同世代の私にもその記憶がある。テレビっ子の今の世代と違い、私たちはラジオですべてを吸収した。ラジオは私たちに無限の夢を与えてくれた。小説、文学、音楽、相撲、野球、科学いずれの分野もすべてラジオが私たちの想像と独創への翼となってくれた。その中に確かにルーテルアワーのようなキリスト教の番組があった。その一齣がお寺の境内を取り囲んでいた豊かに展開した自然の風物とともに幼きときから彼女がひそかに憧れた世界であった。長ずるに及んで、夫君に連れられ教会を訪れることになる彼女はそこでまことの生き方を知る。二度と帰ることのない暗闇の世界でなく、光輝く世界であった。

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1・5)

 そして、ご家族全員が主イエス様の救いに預かられる。それだけでなく、お寺のお父様もお母様もそれぞれの人生の苦しみ悩みの現実を一手に引き受ける生活の中で主の十字架の贖いの愛を体感され召されて行かれた。わずか20数分のお話であった。しかし私は再び滂沱(ぼうだ)の涙に明け暮れたのだ。それは彼女が言われた二つの言葉と一つの事実であった。臨終の時であったか、いつであったか、お父様が、彼女が洗礼を受けたことを報告したとき、病の床から起き上がり、居住まいを正して「それはよかった」と言われたことである。

 あともうひとつはあのラジオの存在である。4歳の自分、幼子である自分の手の届かないところにあったラジオからどうしてあのルーテルアワーがスイッチも切られずお寺のお堂の中を流れていたのか、と彼女は不思議なことであったと回顧する。そうだ、あのラジオは父が聞いていたのだ、そして自分もその恩恵にあずかったのだ、ということであった。

 光はたしかにやみの中に輝く。そのことに思い至ったときに私の主イエス様に対する不信仰さを改めて思わされたのであった。しかもこの日のメッセージはその悔い改めは、個人個人の問題にとどまるのでなく、主イエス様を愛する人々の集まり、交わりの中で生み出されるのだ、と語られていた。そしてこれが今私たちが建設しようとしている教会(エクレシア)であると結ばれていた。

互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(新約聖書 ヘブル10・24~25)

 ここまで書き終えて、大切な彼女の証の核心部を抜かしていたことに気づいた。それは彼女が言わんとした「やみ」は単なる仏教寺院の堂内の暗さではなかった(のではないということである)。彼女がお寺の出にもかかわらず、主イエス様を求め家族で喜んで集ってい た教会をあとにせざるを得なくなった事情が語られたからである。それは、その教会が、いつの間にか、人間が中心になった組織に堕してしまったからである。その「やみ」をも照らされるのは主イエス様ただお一人であった。それは冒頭に述べたほろ苦い私自身の経験と涙を思い出させ るものであった。あだやおろそかに主イエス様のきよめのみわざを私たち自身が否定することのないようにと、切に祈る思いでお聞きせざるを得なかった。

(写真は今朝のクリスマスローズ。久しぶりに晴天である。)

2010年3月4日木曜日

父は栄光を受ける 


 旧ブログ「泉あるところ」(http://livingwaterinchrist.cocolog-nifty.com/blog/)の10月4日以来中断していたアンドリュー・マーレーの「まことのぶどうの木」の再開である。通算17回目になる。あと16回ほど続く。

「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」(ヨハネ15・8)

 私たちはどのようにすれば神の栄光を輝かすことができるであろうか。それは神の栄光を増そうとするのでもなく、栄光を新しく加えようというのでもない。ただ神の栄光が、私たちの中に、そして私たちをとおして世に現れることによって、光り輝くようにすればよいのである。多くの実を結んだぶどう畑の農夫は多くの称賛を受ける。というのは、それは農夫の技術と手入れのよいことを物語っているからである。それと同じように、弟子が豊かな実を結べば、父なる神はあがめられる。人と天使との前で神の恵みと力との証拠が示されて、神の栄光はその弟子をとおして輝くからである。

 ペテロが、「奉仕する者は、神から賜る力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである」(1ペテロ4・11)と書いているのはこのことを意味するのである。人が神だけから来る力によって働き、奉仕する時、神はすべての栄光を受けられる。私たちがすべての力が神だけから来たことを告白するとき、その働きをする人も、これを見る人も等しく神の栄光を輝かすことができる。なぜなら、それをされたのは神ご自身だからである。人は畑になっている果実を見て、栽培人の腕前を判断するものだ。そのように、人は神の植えられたぶどうの木に実る果実によって神を判断するのである。わずかな実りはぶどうの木にも農夫にもけっして栄光をもたらさない。

 私たちは時々、実りの少ないことを私たち自身や仲間の損失として嘆き、その原因は私たちの弱さによると訴えてきた。しかし実りの少ないことから生じる罪や恥は、むしろ神が私たちから当然受けるべき栄光を、私たちが神から盗み取ったことにあると考えるべきである。神が与えられる力を役立て、神に栄光をもたらす秘訣を学ぼうではないか。「あなたがたは何一つできない」というみことばを全面的に受け入れること、神がすべてをされるという素直な信仰を持つこと、そしてキリストにとどまること(神はキリストをとおしてみわざを行われるからだ)、これが神に栄光をもたらす人生である。

 神は多くの実を求められ、私たちが神に多くの実を差し出すかどうかを見ておられる。神は少しの実では満足なさらないのだ。私たちも少しの実で満足してはならない。キリストの「実」、「もっと多くの実」、「豊かな実り」というみことばを、キリストが考えられるとおりに私たちも考えることができるようになるまで、そしてキリストが私たちのために結ばれた実を、いつでも受け取ることができるようになるまで、私たちの心にとどめようではないか。そうしてこそ父は栄光を受けられるのだ。ご命令の最高まで実を結ぶことが私たちの義務である。それは私たちの能力をはるかに超えたことであるだけに、キリストの上に私たちのすべてを投げ出さねばならない。主は私たちの中にそれを実現させることができるし、また必ず実現されるに違いないのだ。

 神が多くの実を求められるのは、神がその力を示すためではない。実は人の救いのために必要なのである。それによって神は栄光を受けられるのである。私たちのぶどうの木と農夫に多くの祈りをささげようではないか。父なる神に人の糧である果実を私たちにくださるように一生けんめい願い求めようではないか。キリストがあわれみの心を動かされて重荷を負われたように、私たちも飢えている人や死にかかっている人の重荷を負ってあげようではないか。そうすれば、私たちの祈りの力と、私たちがキリストにつながっていることと、父の栄光のために多くの実を結ぶこととは、私たちが今まで考えることもできなかったほどの現実性と確実性とを持つようになるに違いない。

祈り
「『父は栄光をお受けになる』とあなたは言われます。何という恵まれたお見通しでしょうか。神は私の中でご自身の栄光を現わされます。神は私の中で、そして私をとおしてみわざを行われることによって、慈愛と力との栄光を示されます。神が私の中で多くのみわざを行われるように、私にも多くの実を結べと命じられるのは、何という恵まれた尊いみ教えでしょう。父よ、私の中であなたの栄光を現わしてください。アーメン」。

(文章は『まことのぶどうの木』安部赳夫訳の引用である。「稟として 沈丁花の 薫香よ」 「待ち焦がれ 沈丁花の 来る春」)

2010年3月3日水曜日

病床にあった妻の夫への手紙(3)


 一人の異国の病床にあった方の手紙を紹介してきたが、ずっと中断してしまった。その後の彼女はどうしたのだろうか。間を抜かして1月26日以降の手紙を抜粋させていただく。

(ジュネーヴにて 1931年1月26日)
 いつもいつも、御自分の脈を見ておいでになってはいけません。「自分は信仰的に進歩したのだらうか、それともしないのだらうか」と、繰り返し御自分におたずねになってはいけません。わたくし共自身がそれを少しも感じないといふことこそ、信仰の本質でございます。わたくし共は本たうに単純に、その日その日を送らなければいけないと存じます。目前の務めを出来るだけよく果たして、余のことは皆―信仰の進歩も含めて―神様の御手におまかせしなければいけないと存じます。わたくし共自身ではなしに、神様だけがわたくし共の魂と生命の支配者なのでございます。神様は、お望みのものをお望みの時に、わたくし共からお創りになります。

 わたくし共のただ一つの努力は、神様の愛と全能の御手の中に身を置いて、静かに、さうして喜んで、神様に身をゆだね切るといふことでなければならないと、存じます。ああ、それにはわたくしはまだまだ、だめでございます。今でもやはりわたくしの心は、最初の一吹きでもう、怖れと気後れで一杯になってしまひます。・・・あなたは、わたくしの信仰上の進歩といふことをおっしゃいます。もし信仰上の進歩といふものが、わたくし共が自分をだんだん小さなもの、不安なもの、無用なものと感じることでございますなら―「自分は、神様がこんなものでも用ひようと思召しになる、使ひ古した銹びた道具のやうなものだ」と、思ふことでございますなら―わたくしも、ほんの少しは進歩いたしましたのかも知れません。けれども、それだけでございます。そして本たうにへり下った思ひで申し上げますけれども、皆さまがわたくしについておっしゃいますことを聞きますと、わたくしは大へん恥しうございます。忠実な証人(あかしびと)になりますことは、わたくしの一番大きな望みなのでございますから、それは嬉しいのでございますけれど、自分が相変わらず、神様の婢(はしため)となるには余り相応しいものではないといふことは、やはり恥しうございます。

(ローザンヌにて 1931年2月8日)
 わたくしも×夫人のやうに「もし私の病気が治ったら、それはお祈りで治ったのです」とは、申せませんでせうか。わたくしのためにお祈り下さったのは、一人ではなく大勢の方でございますもの。それはともかくも、わたくしは、神様がもしさうしようと思召すならば、わたくしをお治しになれるといふことを知って居ります。また、良かれ悪しかれ、今後起りますことは、神様の御意(みこころ)であることを知ってをります。

(ローザンヌにて 1931年2月16日)
 わたくしの容態についてお尋ね下さいましたけれど、容態は大へんよろしうございます。このことについてお尋ね下さる皆さまに、左様お伝え下さいませ。二三ヶ月前と同じやうに幸福な健康状態にいるといふだけではございません。その言葉の本たうの意味で幸福なのでございます。わたくし共の結婚の最初の数年と同じやうに幸福なのでございます。ですから、この数年の間よりも、ずっと幸福なのでございます。一月後には自分がどのやうになるか、またロンドンに帰りましたらどのやうになるか、わたくしにはわかりません。ただ、只今の一時は、わたくしは大へん元気でございます。

(ローザンヌにて 1931年2月22日)
 魂の救ひについておっしゃいますこと、わたくしにはよくよくわかります。結局それだけが、努力する値うちのあることでございます。そして信仰といふ点からも、全くの心理といふ点からも、それは強くわたくし共の心をとらえます。一つの魂をその深みにまで究めるといふことは、なんといふ驚異でございませう。そして、この魂を助けることが出来るといふことは、更になんといふ大きな驚異でございませう。わたくしは誰か人と接触いたしますと、その人を究め尽くして懺悔に導きたいと、あまり熱望いたしますので、人に「召しによる悪指導」と言はれかねないくらいでございます。けれども、もし愛をもっていたしますならば、それは良い行ひと信じます。いえ、良い行ひであることを、わたくしは知ってをります。自分に出会ふ人々の外面しか見ない人を、わたくしは本たうに気の毒な方と存じます。

(以上は『その故は神知り給ふ』井上良雄訳65~67頁の引用である。旧かなをなるべく残した。いつも同じことを言うが、この手紙文は女性らしさが出ていていつも感動する。ところが一方「婢」の字を印字するために女扁の漢字を探していたら、実に様々な女扁の字が出てきた。まさしくエバそのものだった。その中で「婢」はエバの末裔マリヤのことばだと思い至った。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」〔1サムエル16・7〕。久しぶりに晴れ間が出た。庭のバラもやっと蕾を開いた。かくして、花瓶におさまる記念写真と相成った。)

2010年3月2日火曜日

11章 THE GOSPEL IN SONG (2) 聖歌429番『九十九ひきの羊は』


 サンキー氏は続いて物語を続けている。「ノースフィールドの新しいコングリゲーショナル教会のために隅石を置こうとしていた時、ムーディー氏が私に隅石に立ってオルガンの伴奏なしに「九十九ひきの羊」を歌ってくれと言った。彼はこの教会の使命は失われた魂を捜し求めることにあると切に望んでいたからであった。私が歌っている間、ムーディー氏の家の近くの小さな小屋で死の床にあったカルドウエル氏は川沿いで歌を聴いた。ちょうどその時、彼は妻をベットサイドに呼んで南の窓を開けてくれと言ったのだった。彼は誰かが歌っているように思ったからであった。二人は一緒になって彼をいのちに導くために用いられてきたあの歌を聴いた。しばらくして彼は息を引き取ったが、天国の大牧者のもとへと凱旋していった。」

 この特別な賛美歌の始まりに関して(もっともこれもサンキー氏自身が語ることによるのだが)、その述べていることを信ずることはそんなに難しいことではない。彼が初めてスコットランドに行った時、グラスゴーからエジンバラまでムーディー氏と一緒に旅していたが、たまたまアメリカの新聞に載っていたエリザベス・クレファンの詩を読んでいた。その詩を切り取り、賛美歌の間に挟んでおいた。

 翌日伝道者たちはエジンバラの大きなフリー・アセッンブリー・ホールで集まりを持っていた。ムーディー氏は「良き羊飼い」について話をしていて話の終わりにサンキー氏にソロで歌って欲しいと頼んだ。その瞬間、汽車で読んだ言葉が心に浮かんできた。サンキー氏は目の前にその詩を置いて小さなオルガンに座り、二三のコードを鳴らしていたが、それから無意識のうちに次から次へ浮かび上がってくる音調で詩を歌ったのだった。彼の声だけが全聴衆に聞こえるほどであり、凛とした静けさが場内を覆っていた。

九十九ひきの羊は檻にあれども
戻らざりし一匹はいずこに行きし
飼い主より離れて奥山に迷えり

九十九ひきもあるなり、主よ良からずや
主は答えぬ「迷いし者もわがもの
いかに深き山をも分け行きて見い出さん」

主は越え行き給えり、深き流れを
主は過ぎ行き給えり、暗き夜道を
死に臨める羊の泣き声をたよりに

「主よ山道をたどる血潮は何ぞ」
「そは一ぴきの迷いしもののためなり」
「御手の傷は何ゆえ」「茨にて裂かれぬ」

谷底より空まで御声ぞひびく

 それから大きなクライマックスの部分

「失われし羊は見い出されたり」
御使いらは答えぬ「いざともに喜べ、いざともに喜べ」
There arose a glad cry to the gates of heav'n, ‘Rejoice, I have found my sheep.’

に達した時、感動が場内を覆った。

 以来この歌詞が歌われ聴かれるたびに何十万人という人々の心が一様に感じる感動である。この音調は決して高い質の音楽ではない。サンキー氏の他の作曲にくらべ見劣りさえする。だがまさしく単純そのもののメロディーが特別な目的をもたらすためにいかに有用であるか、それにくらべて、もっと完全な作品がうまく行かなかったりするかの例証である。音楽自身は注目されないかも知れないがそれに対してメッセージを運ぶのに充分な力を持っていることを証明しているのだ。(D.L.Moody By CHARLES R. ERDMANの107~108頁をもとに)

あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。・・・ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(新約聖書 ルカ15・4、7)

(昨日今日の文章は音楽の専門家からすると首をひねる部分があるかもしれない。この聖歌は良く歌われた。最近はどうなのだろう。私も最近歌っていないが、歌詞を読むだけでなく、やはり歌を歌う時に、よりこの詩の意味するところがリアルに迫ってくる。)

2010年3月1日月曜日

11章 THE GOSPEL IN SONG (1) ドレミファソラシド


 東京新聞の夕刊(2月19日)の「あの人に迫る」は下垣真希さんという一人のソプラノ歌手を紹介していた。私も親戚に歌い手さんがいるので、思わず読んでしまった。ところがこの記事を読んでいてこちらの心まで豊かにされた。それはこの方が技術的な訓練もさることながら、思想の大切さを指摘されていたからである。彼女は何度か喉を痛め、歌えなくなる。その都度歌うことの原点に立ち返って危機を乗り越えらている。そのような間にドミンゴ氏から言われた次の励ましのことばが忘れられないと言う。

「声は神様からの贈り物だよ。声の出る限り感謝して歌い続けなさい」

 このインタビュー記事をまとめるに当たって編集氏は次の彼女のことばを載せていた。「日本の昔の歌の素晴らしさって、理想を歌っていることだと思うんです。自然の美しさや命を貴ぶこと。今の時代で忘れられかけているのではないでしょうか。」昨今の日本の経済不況は歌い手さんたちをも直撃している。全国何人おられるかわからない歌い手さんが今日もそのような中で訓練を積み重ねられている。

 ところで以下に紹介するのはムーディー氏の評伝の11章のTHE GOSPEL IN SONGである。前からこの項は紹介したいと思っていて中々出来なかった。この機会に紹介しておく。(以下はD.L.Moody By CHARLES R. ERDMAN の104頁~106頁の引用である。この項目は旧版「泉あるところ」のD.L.Moody の三番目に位置する。興味ある方はhttp://livingwaterinchrist.cocolog-nifty.com/blog/の昨年の3月24日をご参照ください。)

 歌が歌えない、旋律のちがいがわからない男が当代のいかなる作曲家や音楽家よりもたくさんの聖歌を歌わせ、はやらせていると知ったらあなたは驚くのでないだろうか。こんなことをムーディー氏はやってのけたのだ。それは賛美歌の指揮者や作詞家に協力し、またその作曲が知られるようにたくさんの聴衆者を集め、本を発行し頒布して全世界に「ことばとメロディー」を広めることによってであった。

 洗練された趣味を持ち、疑い得ない才能を持っている人の中には「福音賛美歌」は貧弱な歌詞や質のよくない音楽だと言って軽蔑する人がいるのは事実だ。そのような賛美歌に関しては二、三の事実が心に留められる必要がある。第一は明らかにこの手のすべての賛美歌は全部が全部同じものではないということ。あるものは感傷的な感情を産み出し、もはや「鈴のように聞こえるシンバル」以上のメロディーをもたないものもある。しかし他のものは真実な感情を伝え、キリスト教会の賛美歌として永久に残るものもあるということだ。

 それに世は音楽自身が必ずしも人の気持ちを高めたり、霊感を与えたり、気高くするものではないということを学ばねばならない。万事は音と組み合わされている思想によるのだ。音楽はいかなる他の芸術よりも感情を速やかにかつ深く震撼させるものだ。しかし引き立てられた感情が取る方向は旋律と結び合わされるようになったことばや思想と一緒になるのだ。

 たとえばその歌の誕生地ではつまらない愛の歌にすぎない音符があらゆる英語圏の礼拝者に「血潮したたる主の犠牲」のメッセージを伝え、私たちを十字架の足もとにひざまずかせるという場合がある。このようにして、いくつかの福音賛美歌の単純で芸術味のない旋律が、私たちに私たちの神である主に関する何にも代えがたい真理をもたらす道具となっている。

 また聖歌や福音賛美歌およびすべての教会音楽は厳密な面でなく応用芸術の分野であり、抽象的な基準でなく求められている目的を遂行するにあたって役にたつか、また結果がどうかで評価されねばならないということを頭にとめる必要がある。音楽的な作曲は純粋芸術のカノンによって判断される時、賞賛に値するであろう、しかし様々な階層をふくみ種々雑多な人々と使徒信条が賛美に際し一つになる点では完全に役に立たないかもしれない。一方で数曲の控えめでつつましやかな賛美歌が非常に多くのキリスト者の信仰を形作り、かつ調子の良いメロディーと大層一体となっている。それはそれらの賛美歌が何千という人々のくちびるだけでなく心にまで歌を浸透させ、海の果てにまで朝の翼のようになって急速にひろがっていくほどだ。

 ムーディー氏の働きとつながりのあるもっとも有名な歌い手はイラ・ディ・サンキーであった。彼は専門的な音楽家でなくペンジルヴァニア州のニューカッスルに住んでいる税務署勤めの役人であったが、宗教的なまた政治がらみの集まりで歌を歌う人のリーダーとして名声を勝ち得ていた。この二人が最初に会ったのは1870年でインディアナポリスでのコンベンション大会での席上だった。ムーディー氏は直ちにサンキー氏の才能を認め、強引にも彼に仕事をやめ、当時シカゴでムーディ氏が主催していたミッションに入り、大会の働きを助けてくれるように要請した。

 しばらくの間、この歌い手は躊躇していたが、半年経たない間に彼は招聘を受け、爾来その名前がムーディ氏とは切っても切れない関係で固く結びつけられるようになった。1873年にサンキー氏はムーディー氏をイギリスに伴った。彼の名前は音楽の世界では全く知られていなかった。二年して彼がイギリスから母国に帰ってきたがその時はもう当代の最も有名な歌い手になっていた。

 彼の影響の下、新しい種類の賛美歌が世界的に流行るようになり、「福音賛美歌」、すなわち聖歌の新手の歌が集められ発行されるようになった。その結果12ヶ国語に翻訳され、500万冊が全地球の各国に頒布されたほどだ。サンキー氏は音楽や歌唱の訓練を受けていなかったが、天性の非常に高い賜物を持っていた。彼は音域の狭いバリトンの声の持ち主であったが、並外れた感情と声量をもっていた。彼の賛美歌解釈や彼の言い回しは常に音楽芸術の常道によらず、歌の心を捉えそのメッセージを聴衆に完全にはっきりと伝え得た。彼が明らかにしたことは音楽はそれ自身が目的でなく常に他の人々の心や意識に真理を伝えるつつましやかな手段であることだった。

 彼は深い感情をもって歌い、また歌いぶりは明確な目的のもと、聴衆に確信を与えるものであった。彼は自らの口調を大変正確にすることを会得していた。かなり遠くにまで言葉尻がはっきりととられるようにしていたので、各音節は遠くの広範囲にわたる聴衆が聞いて理解できた。たとえば次に紹介するできごとは彼自身が書いている人生の物語によっているが疑う余地のないものである。ある静かな夏の夕べ野外の礼拝で彼は「99匹の羊」を大変はっきりとかなりな声量で歌い上げた。その場所はノースフィールドのコングリゲーショナル教会で木造家屋の前面が共鳴版として働いたこともあって、それで完全に一マイル離れたちょうどコネチカット川沿いにいた一人の男に聞こえたということだ。その男はその賛美歌を聞いて改心し、「それまで甘い歌しか歌っていなかった生活から教会の正式のメンバーとして歌う生活になった」(と書いてある)                 続く

(写真は二月の下旬、古利根川を散策していた時目にした雀の一団。明らかに彼らは「合唱」していた。歌声に聞きほれていればよかったのに、ついこちらの下心が芽生えてしまい、カメラを構えた。途端に彼らは飛び去った。イエス様はこんな雀の一羽も無視されない。「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」マタイの福音書10・29