2013年9月30日月曜日

真夜中すぎ(4) ポーロ・B・スミス

いえの ひとは かなしんで ないていました(絵本聖書より)
人間の生涯において、夜中の時刻を打つ第二の出来事は、その人自身の死であります。彼の心臓がとまり、血が流れなくなり、呼吸が止んだ時に、その人が神に立ち帰る機会は失われてしまうのです。

ある人々は、すでに人生のうち「七十年」(詩篇90・10)の域を出ているのです。これらの人々は、すでに人生の峠を越え、墓が見える所に来ています。これらの人々は、ほかの人はいざ知らず、余す時が短いことを認めています。またある人々は、命取りの病にとりつかれており、自分も医者も、ぜんぶおしまいになるのは、ただ時間の問題であることを知っています。

あなたは、年をとっていようが若かろうが、健康であろうが病にとりつかれていようが、「死の陰の谷」(詩篇23・4)に住んでいるのです。あなたは、神が永遠の時より切り離された、有限な時の谷間を旅しているのです。この谷間では、死が管理者です。いついかなる時でも、あなたを犠牲者にすることができるのです。

いつかあなたは死なねばなりません。それはいつであるかわかりません。あるいは、今日であるかもわかりません。本当の意味であなたに属している時は、今この現在だけです。来年は神に属しています。来月は神に属しています。明日は神に属しています。あなたの次の時間は神に属しています。あなたのものである唯一の時間は今です。決心をすることのできる唯一の時は今です。キリストを受け入れることのできる唯一の時は今です。あなたは、あなたの人生における「今」を支配するのです。そして神が将来を支配なさるのです。

そのために、聖書は「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(第二コリント6・2)と言っているのです。そのために神は、われわれの一人一人に「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるのか、あなたは知らないからだ」(箴言27・1)と警告しておられるのです。戦争と事故と突然の死がいつ襲って来るかわからないこの時代にあって、われわれは、この章句を次のように解釈することができるでしょう。「次の時間を誇ってはならない。一刻のうちに何がおこるかを知ることができないからだ」。

もしあなたが、今イエス・キリストを救い主として受け入れないなら、明日という日はこないかもわかりません。ひとたび死があなたを犠牲者としてしまうなら、あなたが神との正しい関係に入る機会は、過ぎ去ってしまうのです。夜中の時刻が打ち、そしてあなたは外に取り残されるのです。

夜中の時刻を打つ原因となる、もう一つのものがあります。キリストの再臨はこの世代にはおこらず、したがって、この世代に影響を及ぼさないかもしれません。またわれわれは、この地上において長い間生き延びることができるかもしれません。しかしながら、余りにもしばしばキリストを斥けることによって、みずから夜中の境界線を踏み越えることがあり得るのです。

ほとんどすべてのキリスト者の働き人は、主イエス・キリストを受け入れる多くの機会があったにもかかわらず、彼を拒み続けたため、ついに反応を示すことのできない点に到達したと思われる、幾人かの人々を思い起こすことができます。

それは、このようにしておこるのです。まず最初に福音を聞いた時、その人の心は、ふしぎにかき立てられます。その人を神のほうへと引き寄せる、強い罪の自覚の霊が働きます。また神の御霊は、彼が主イエス・キリストのほうへ足を向けるように、強く言い伏せられます。彼の内にあるすべてのものは、彼を促して、神の招きを受けさすかのように思えます。そして彼が招きを受けることは、この地上で最も簡単なことのように思われます。ところが、なんらかの理由のために、この最初の場合、彼は認罪をもたらす神の御霊の力を拒み、心中の争いを経験しながらも、イエス・キリストに向かって最初の「ノー」を発するのです。この場合、斥けることが困難で、受け入れるほうが簡単なのです。

福音を次の機会に聞いた時、彼の上に再び大きな認罪の霊が臨みます。神の御霊は、再び彼の生涯にお働きになります。彼の内にあるものは皆、再び彼を押し出すように促します。この時もまた、神に近づくことは簡単に思えます。しかし、こんども彼は、彼の生涯の中に働くサタンのさしずに耳をかし、「ノー」と言うのです。この場合、斥けることは、前にくらべて少しばかり簡単になり、一方受け入れることは、少し困難になって来ます。

それからも、彼は幾度も幾度も福音を耳にします。そのたびに、魂はあがきます。神の御霊は、罪の自覚をもたらします。そしてサタンは、反対のほうへとひっぱるのです。ところが、幾年もの間決心を変えないでいると、「いいえ」と斥けることは実にたやすくなり、反対に「はい」と受け入れることは、いっそう困難の度を増して来るのです。そうなれば、御霊の働きを斥けることは、日常の茶飯事となり、御霊の働きに身をゆだねることは困難になるのです。

(『真夜中すぎ』11〜15頁より引用。)

2013年9月29日日曜日

真夜中すぎ(3) ポーロ・B・スミス

キリストの昇天(使徒1・9) 絵:ギュスターヴ・ドレ
(著者はマタイ25・1〜13を通して文中の「夜中」を問題にし考えてきました。一つはその意味を問うことでした。二つ目は夜中に花婿であるイエス様に会えなかった人々がどうなるかでした。そして、今日からは最後の問題を考えようとしている箇所です。)

この問題に対する質問は、最も大切なものであります。それは、われわれの生涯において、夜中の時刻を打つものは何であろうか、ということです。

もしわれわれが、キリストの再臨の時まで生きているとすれば、われわれの生涯において夜中の時刻を打つものは、この再臨であります。イエス・キリストが再び帰ってこられる時に、われわれ人類のうち、どの世代が生きているでしょう。これは次の世代であるかもしれません。あるいは、この世代であるかもしれません。この出来事を見逃しにしようとすることはできません。なぜなら、聖書は絶対に誤りのない言葉をもって、いつの日か主イエスが、この古い世界のもやを破り、御自分の教会をみもとに携えるため再びこられると宣言しているからです。

神の言葉である聖書は、この思想で満ち満ちています。三十の節があれば、一つの節はそのことに関連性を持っています。第一降臨が一度記されると、第二降臨は八度の割で記されています。主イエス・キリストの再臨を説明するのに、ぜんぶの章、もしくはぜんぶの書が用いられている場合があります。それは旧約聖書の中に予告されており、新約聖書の中に、くりかえしくりかえし強調されています。

あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ14・2、3)

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。(1テサロニケ4・16、17)

「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1・11)

その日は近づいています。たぶん、ずいぶん近い所まで来ているかもわかりません。その日が来たら、それは、その時まで生きている人にとって夜中となるでしょう。そうすれば、神との正しい関係に入る機会は去ってしまい、永遠に帰ってこないのです。イエス・キリストを救い主として受け入れた人々は、彼と一緒になるため取り去られます。一方、継続的にイエス・キリストを斥けて来た人々、すなわち、夜中がすぎるまで、安全を意味する箱舟の外にいる人々は、取り残されてしまいます。それから神の裁きがこの地上に降されるのですが、その時、あとに取り残された人々は、山やほら穴へ逃げて行き、小羊の怒りからかくまわれるため、岩が彼らの上に落ちて来るようにと、絶望の中から叫び声をあげるのです。

イエスは今日にでも帰ることがおできになります。もしそのようになったら、今日全世界に夜中の時刻が打ち鳴らされることになります。そうすれば、あなたが神との正しい関係に入る機会は、なくなってしまうのです。

『真夜中すぎ』9〜11頁より引用。引用者註:「再臨」は聖書信仰の根幹です。しかしその日がいつかわかりません。だから古来不信仰な人々は未だ主イエスが来られないことを指して、その約束はどうなったか、実現していないではないかとあざ笑います。しかしそれは主の忍耐のあらわれであると聖書ははっきり語っています。2ペテロ3・3〜15参照のこと。

2013年9月28日土曜日

真夜中すぎ(2) ポーロ・B・スミス

婚宴の席 2013.8.3
娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、 賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。(マタイ25・7〜13)

さて、この問題に関する二番目の質問に入りましょう。神の夜中の時刻が打ったあとまで残っている人々の上に、どのようなことが起こるでしょうか。もしあなたが賢い娘と愚かな娘の物語を注意して読むなら、あなたはこの質問に対する解答を、聖書の中に見出されるでしょう。愚かな五人の娘たちは、夜中すぎに婚宴のへやに入ろうとしましたが、聖書は「戸がしめられた」と書いています。そして、戸が再びあけられたと信じて良い理由は、どこにもありません。

私は少年時代トロントにいましたが、私たちの家庭では、特別の許可があって外出した場合、必ずその日のうちに帰ってこなければならないという規則がありました。夜中になる前に帰宅すれば、ドアはあいています。しかし夜中がすぎると、ドアはしめられ、かぎがかけられるのです。夜中前であれば、ドアをあけて家の中へ入りさえすれば良いのです。この場合、なんら説明をする必要はありません。しかし夜中すぎに帰ると、ドアをノックするか、それともベルを鳴らして、誰かを起こさなければなりません。それから、遅くなった理由を話さなければなりません。私の少年時代、記憶に残っていることは、どんなに遅く帰って来ても、結局誰かを起こすことができ、したがってドアがあけられたということです。しかし聖書を読む時に、神の夜中の場合はそうでないことがわかります。聖書は、誰かの人生において神の時計が夜中を打った場合、機会の扉はしめられ、しかも永遠に開かれないと明らかに告げているのです。

愚かな五人の娘たちは、招待されていなかったから閉め出されたのではありません。彼らは、賢い五人の娘同様、招かれていました。彼らは婚宴について一部始終を知っていました。しかし聖書は、彼らが招かれていたにもかかわらず閉め出されたと、言明しているのです。

愚かな五人の娘は、中に入った者と同じ招きを受けていただけでなく、中に入った者と同じ望みを持っていました。この世界で最大の驚きを経験した人々は、夜中がすぎて閉め出された、愚かなこれらの娘でありました。彼らは婚宴の席につらなることを期待していました。またそこに行くつもりでした。彼らは首を長くして、婚宴を待ち望んでいたのです。しかも彼らは、中に入るつもりであったのが、閉め出されてしまったのです。

理由はただ一つ、来るのが遅すぎたからです。彼らは婚宴のために時間をかけて必要な準備をしなかったので、夜中の時刻が打った時に、準備されていない自分たちを見出したのです。彼らはあとになってやって来ました。しかし、すでにあとの祭りでした。

幾度も幾度も、主イエス・キリストを救い主として受け入れるようにとの招きを受けた多くの人々が、いつの日か、一度も招きを受けたことのない異教の人々と一緒に、天から閉め出されることは、なんという悲劇でしょうか。いつかは神との正しい関係に入ろうと思って生活している多くの人々が、救いについて振り向きもしなかった大多数の人々と共に、天国から閉め出されるとは、まさに肌に粟を生じる思いではありませんか。

もしかりに、永遠にわたって、あなたが神の御臨在より別たれる日が来るとすれば、それはあなたが招きを受けなかったからではなく、またあなたがいつか救われようと思わなかったからでもないということを、思い出してください。そのような日が来るのは、あなたが夜中すぎまで外に戦っていた(※)からです。

(『真夜中すぎ』6〜8頁より引用※引用者註:少し、わかりにくい表現です。多分、この戦いとは主イエス・キリストを受け入れるか受け入れないかの心の戦いのためにいつまでも逡巡していて、折角の花婿の招待による婚宴の宴に結局間に合わず、外に残されてしまったことを指しているのではないかと思います。)

2013年9月27日金曜日

真夜中すぎ(1) ポーロ・B・スミス

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。(新約聖書 マタイ25・1〜6)

「夜中」という言葉は、聖書全巻のうち、わずか14回しか出て来ません。この言葉は、いつでも、救いとか審判とか、顕著な神の力の顕現に関して用いられています。しかし、この言葉が、これらの思想に関係なく出て来る例外が、ただ一度だけあります。

「夜中」という言葉が、最初に聖書に出て来るのは、イスラエルの民が、過越の祭をはじめて取り行なった、あの旧約聖書の物語の中であります。エジプト人の間にいるういごを滅ぼすため、神が死の御使いを送られたのは、夜中でありました。イスラエル人の家の柱には、血がつけてあったので、死の御使いは、イスラエル人を殺さずに彼らの家々を過ぎ越しましたが、それはやはり夜中でありました(このあと、士師16・3、使徒16・25、使徒12・29の言及があるが略す)。

このように「夜中」という言葉は、聖書全巻を通して、ひじょうに重要な意味を持っています。この言葉が、前後に関係なくひょっこり出て来るのは、ただ一度だけです。(略)この言葉は、マタイによる福音書25章に記録されている、10人のおとめの物語の、いわばてこの支点となっています。

この物語に出て来る「夜中」について、私は三つの質問に答えてみたいと思います。ここでこの言葉は、どのような意味を持っているでしょうか。夜中すぎまで残っている人々のうえには、どのようなことが起こるのでしょうか。われわれの生涯において、夜中の時刻を打つものは、何でしょうか。

もちろん、ふつうの意味において、夜中という言葉は、一日の最後と次の日の始まりとを区切る一点を指します。(略)世間一般に言っても、この夜中という言葉は、たいてい終りと始めとを意味しています。

極めて現実的な意味において、夜中の時刻と考えることのできる、ひじょうに多くの出来事があります。(略)年寄りの人は、隠居の時が来ると、夜中を迎えることになります。その人は、余儀なく、若かりし日々を振り返ってみるでしょう。多分、青年時代の夢と抱負、生涯において達成しようと思っていた事柄を、思い浮かべることでしょう。しかし今や、峠を越して下り坂を降りるようになり、自分の夢が実現されたか、それともついに実現されなかったかの、どちらかであることを知るのです。(略)夜中の時刻が打ったのです。働く時はすでに終わり、隠居の時が始まりました。

しかしながら、私は今、人々の生涯に起こる、これらの夜中について考えているのではありません。私が今重大な関心を払っている夜中とは、マタイによる福音書25章に記されている時刻のことです。今まで述べた、ほかの意味での夜中も重要な意味を持っています。しかし神の夜中は、人生において起こり得る、最も厳粛で、最も真剣な、また最も重要な夜中であります。それは、神との正しい関係を持ち得る人間の機会に終止符を打ち、神と共に、あるいは神なくして送る、永遠の始まりを告げるのです。

これは、絶対に避くことのできない、また逃れることのできない、人生における夜中であります。あなたの心臓が動き、また血液が血管の中を流れているのと同じほど確実に、いつの日かあなたの生涯に、この夜中の時刻が打つのです。そして、あなたが神と正しい関係を持ち得る機会は終わりを告げ、あなたは、救われているのか、それとも失われているかの状態で、永遠を迎えなければならないのです。

(『真夜中すぎ』いのちのことば社1957年刊行1〜6頁まで抜粋引用。著者はオズワルド・J・スミス氏の令息である。)

2013年9月26日木曜日

私の日本地図⑩武蔵野・青梅 宮本常一著 未来社

野川堤内にうっそうと生い茂る雑草 2013.8.5
日曜日「ある町のたたずまい」と題して一文を草させていただいた。その日の午後、入院中の家族を見舞いに病院に出かけた。すると、彼らがリハビリを兼ねて附近を散策した話をして、一枚の地図を見せてくれた。「はけの森マップ」であった。まさしく、私が病院に出かける序でに歩きまわったり、バスに乗ったりしている場所を鳥瞰するものだった。互いに世代は異なるが同じ思いを共有していたことになる。以心伝心とは言え、不思議なことだ。そして無性に1970年代初頭に発刊された宮本常一氏の本が読みたくなった。幸い図書館にあった。以下はその宮本氏の著書の抜粋(同書48〜53頁)である。

人々がこの野に開拓の鍬をふるいはじめたのはきわめて新しい。中には府中のように古い集落もあるが、大半は江戸時代に入ってからである。それ以前の武蔵野の景観がどのようなものではあったかはほとんどわからない。ケヤキが古くからこの野の木の一つであったことは、府中大国魂神社のケヤキ並木などでも察せられるのであるが、そのほかにもいろいろの木があったであろう。昭和10年すぎに保谷というところに居たころにはマツの木もずいぶん目についた。スギもまた多かった。それらは今日ほとんど姿を消している。

多分この野に住んだ人たちは大きな木の茂っているところはそのままのこしておいて、その他の所は火をかけて焼いて畑として利用したり草刈場としつつ利用していたものであると思われる。そういう野を拓いて多くの村が発達するが、野は風が強いために、すぐ木を植えて防風の備えにしたのであろう。だから木の大きさで家の歴史を見ることができた。その木は防風のためばかりでなく、家を建てかえるときには利用したようで、家の建てかえもだいたい100年くらいたつとおこなわれたのではないかと思われることは古い屋敷にあるケヤキを見ると、だいたい250年、150年、50年くらいの三段階になっているものが少なくなかった。(中略)

しかしそれらの木が次々に伐られてゆくようになった。一つは家を明るくするためであったという。いま一つは道をひろげるためであった。武蔵野の道は街道とよばれるものを除いては荷車の通る程度のものが多かった。ところが住宅地を予定せられる道は次第にひろげられ、曲がっているものもできるだけ真直ぐにしていった。そうした道は太平洋戦争がすんでから多くつくられた。(中略)

農民の開拓は自然を相手にし、自然を利用するものであった。畑をひらいてもそこに植えるものはやはり木や草のような植物であった。原始の自然から人手の加わった二次的な自然へかわっていったのであるが、戦後あらたにこの野に住みついた者は農にいそしもうとする者でもなければ、この自然を守ろうとする人たちでもなかった。大切なことはより便利に住むことであり、より合理的な生活をそこに見出すことであった。

私の家から駅まであるく道は木の多い道であり、竹薮などもあった。そういうところへ新しい住宅がならびはじめたのは、その土地を百姓たちから買いとって家を建てていったのであろう。竹薮ははじめ手入れがよくゆき届いていたが、いつの間にか放置せられるようになった。ある年その竹薮を蔓草が覆いはじめた。そして蔓草のいきおいはすさまじく、アッという間に竹薮をおおいつくしてしまった。そして竹が枯れていった。自然はそのままにしておいても荒廃するものである。武蔵野を美しからしめるために働いた人たちが手をひきはじめ、一方この自然に無関心な人たちが新しく住みつくことによって、この野は大きくかわろうとしている。農民の開拓も、今日の都市化も、開拓にはかわりないのであるが。

全文を紹介できないのが残念だが、著者は旧版のあとがきで、「私はこの書を書きつつ、この書が武蔵野の挽歌のようになるのをどうしようもなかった」と書かれている。

神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2・15〜17)

2013年9月25日水曜日

主は近い(下) ゴットホルド・ベック

はけの小路 2013.8.8
主に頼ると、私たちは守られ、導かれ、満たされ、用いられます。 主に頼らなければ、主は私たちを守ることが出来ないし、導くことも出来ないし、満たすことも出来ないし、用いられ得ないのです。

パウロはローマの刑務所の中でピリピにいる兄弟姉妹を励ますために手紙を書いたのです。このピリピ人への手紙の4章5節に非常に短いことばが出て来ます。

主は近いのです。

すなわち、イエス様の再臨を喜びつつ生活しなさい、とパウロは心から願ったのです。やがて行なわれる主の再臨に対して心の備えをすることが要求されています。主の再臨が近いということを喜びつつ、生き生きとした信仰生活を送っている信者がちょっと少ないなのではないでしょうか。イエス様は今日来られるかも知れない。今日はこの地上での私たちの最後の日となるかも知れない。こういう思いをもって今朝起きた人はいるなのでしょうか。

生まれ変わった人は誰ひとり主の再臨を疑いません。というのは、それが新約聖書の中だけでも430回書き記されています。430回、イエス様の再臨について書き記されています。けれども、問題は私たちが主の再臨を待ち望みつつ生活しているかどうかということです。ただイエス様の再臨を信ずるだけじゃなく、日々毎日主の再臨を待ち望みつつ生きることが考えられないほど大切です。

私たちは二三日自分のところに泊まりたいという特別なお客さんが来るのを待つとき、特別な準備を行ない、掃除したり、買い物に行ったりするでしょう。結局準備します。けれども私たちは大宇宙を創造され、尊い代価を払ってわれわれを贖なってくださったイエス様を待ち望んでいます。もし主が明日いらっしゃるということが分かれば、最近出した手紙の内容を書き直したり、悪口を言われ興奮したようなこととはちがった反応をしたことでしょう。ヨハネ第一の手紙3章3節に、ヨハネは当時の信ずる者に次のように書いたのです。

キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。 

別のことばで表現するならば、私たちは主の再臨を意識しつつ待ち望んで生活しているならば、もっと注意深くなり、光の中を歩むでしょう。それは今まで以上に待ち望みの生活をしなさいという意味です。イエス様の再臨を待ち望んでいない人々は結局この箇所を見ると不従順です。不従順は罪です。主とあなたの間の隔たりの壁のようなものです。今まで以上に主に喜ばれる生活をしなさいという意味です。それは自分自身の気に入るようなことだけをするのじゃなくて、また人の気に入られるようなことだけをするのではない。ただ主のみこころに叶うことだけをしなさいとあります。パウロはそういう願いでいっぱいでした。彼はガラテヤ書の1章10節に、次のように書いたのです。すばらしい証です。

いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

もうひとつ、今までより以上に、まだ救われていない家族・親戚・知り合いの人々のために祈り、かつ戦いなさい、という意味です。イエス様はわれわれに答えようとなさっていますけれど、いつもわれわれの祈りに対して答えようとされています。それを考えると、祈ることとは考えられないほどたいせつです。救い出しなさい。失われている魂の救いのために行きなさい。これは(新約聖書で)手紙を書いた人々の切なる呼びかけでした。

主の愛の対象である失われた魂の救いのために燃えている愛が要求されています。もし私たちは光の中を歩むならば、他の人々もまた主の愛を経験し、やみから光へと移され、あらゆる束縛から主の解放へと移されることがわれわれの関心事となります。イエス様について書かれています。マタイ伝9章36節

(イエスは)群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。 

私たちは正直に自らに尋ねてみましょう。私たちが心の支えもなく、生き甲斐のある人生の目標もなく、平和とまことの喜びのない人々を見ると、そしてまた羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている人々を見ると、私たちもまた心を動かされるなのでしょうか。あるいは無関心なのでしょうか。火の中からつかみだして救い出しなさいと聖書は言ってます。魂を獲得することは、すなわちイエス様だけを紹介することは、もっとも緊急を要する使命です。人は地獄に行かないように救われるべきです。ここでは世界観や宗教性ではなく、永遠の救いか、永遠の滅びかが問題となります。

光のうちに歩む兄弟姉妹は、もはやまだ救われていない大ぜいの人々に対して無関心でいることは出来ません。パウロは、パウロの証とは、次のわれわれの証ともなるべきです。コリント第一の手紙9章の16節です。

私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。

そして22節。

(私は)すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。

最後にパウロによって、御霊の願い、また呼びかけを読んで終わります。コリント第二の手紙の7章の1節です。

愛する者たち。私たちはこのような約束を(すなわち、イエス様の再臨という約束を)与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。 

私たちは自発的に断固としてこの態度を取るときにのみ、光のうちを歩み、また主に用いられるようになります。意識的に主にだけより頼みましょう。主の再臨を喜びながら生きましょう。失われている魂の救いのために祈りましょう。イエス様への待ち望みがわれわれの毎日の生活を決定するものでなければならない。私たちが救われたことの理由の一つはイエス様を待ち望むということのためです。

(以上で9月11日の家庭集会でのメッセージの聞き書きは終わりです。次回の家庭集会は10月9日午前10時半からです。)

2013年9月24日火曜日

主は近い(中) ゴットホルド・ベック

はけの森美術館の小窓から 2013.8.8
だから、多くの人々は光であるイエス様と関係を持ちたくない。イエス様の時代でそうだったし、もちろん今日まで同じです。だからヨハネ伝3章19節に書かれています。

光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。

光よりもやみを愛する人々がいる、とあります。

光である救い主について、もうすでに旧約聖書の中でイザヤは書いたのです。9章の2節ですね。

やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

と、あります。60章の2節。

見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。

と、あります。光である主イエス様が来られたから希望があります。イエス様は光としてわれわれの暗やみの中を照らしてくださり、罪を明らかにしてくださいます。しかし、イエス様は罪を赦す(お方)、(罪を)明るみにされるお方だけではない、「救い」を成就してくださいました。

パウロの回心について、次のように書いてあります。彼はもちろんイエス様を知ろうとしなかったし、イエス様を信ずる者を迫害する男でした。けれども彼はいっぺんに変えられました。使徒行伝の9章3節に書かれています。

ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

このひとことばによって彼は変わりました。どういうショックを受けたのか想像できません。今までの持っていた目的は間違っていたし、今までの考えたことは、もちろん、とんでもないことだったし、まことの神に仕えようと思ったけれど、知らないうちに悪魔の道具になってしまった。どうしよう、どうしたらいいのと聞くようになったから、彼は世界一の伝道者になったのです。

光に照らされた時、彼は初めて自分のやっていることはとんでもないことであり、全く悪魔的であり、的はずれの行ないであると、いっぺんにわかったのです。同じようなことを経験した人々はいっぱいいます。たとえば旧約聖書をヨナ書を見ると、開かれた口によって主の御顔を必死になって避けたようなという預言者は明るみに出されました。前よりも主に用いられるようになったのです。あるいは女中の指差しによって、ペテロと言うイエス様を裏切った弟子を明るみに出されました。遣わされた預言者ナタンをとおしてダビデ王を明るみに出されたのです。

私たちはどうでしょうか。明るみに出されたことがあるのでしょうか。主によって見つけ出され、明るみに出されたことを望むなのでしょうか。すべてを隠さず告白しようではないでしょうか。イエス様の呼びかけとはいつも同じです。

わたしのもとに来なさい。わたしは光そのものです。

光のもとに行きたくない人は、自分の過ちを隠す者であり、正直になりたくない思いの現われです。すなわち不幸への道です。人間にとってもっとも必要なのは光に照らされること、罪の赦しを得ること、そして光であるイエス様との交わりを持つことです。イエス様を信ずることとは、取りも直さず光に来ること、すなわちイエス様のみもとに行くことです。そしてイエス様のみもとに来る者はまちがいなく受け入れられ、またその最後は赦されます。ヨハネはその第一の手紙の中で、皆さん暗記していることばですけれど、次のように書いたのです。ヨハネ第一1章7節。素晴らしいことばです。

もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

御子イエスの血は! すべての罪からきよめる。まことの満足の秘訣は暗やみから脱出して光であるイエス様のみもとに行くことです。イエス様はすべてを新しくしてくださいます。ですから、イエス様の呼びかけとはいったいどういうものなのでしょうか。すなわち、やみの中を歩かなくてもいい、何も隠さなくても結構。わたしに従いなさい。光であるわたしに従う者は決してやみの中を歩むことがない。いのちの光を持つ。いのちの光とはもちろんイエス様ご自身であります。パウロはエペソにいる兄弟姉妹に書き記したのです。5章の8節ですけれども

あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

と、あります。 あなたがたは光となったから、だからOKなのではない。あなたがたは主にあってのみ光である。すなわち主であるイエス様から離れて、自分勝手な生活をすると、自分の知恵や自分の力に頼るといっぺんに駄目になります。光である主とつながっている時にのみ、主は光である、とイエス様ははっきり言われました。わたしを離れてはあなたがたは何もすることができないし、わたしから離れたらあなたがたは光じゃない。暗やみです。またコロサイ書1章13節にも次のように書き記されています。

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

「暗やみの圧制」と「御子イエス様のご支配」とありますが、何というちがいなのでしょうか。ここでも同じことが言えます。もし、私たち信ずる者がイエス様に頼らなければすべての努力はまったく無駄であり、的はずれの行動です。将来についての主の呼びかけとは始めに(司会者に)読んでもらいました箇所※の中に書かれています。テサロニケ第一の手紙4章ですが、もう一回読みます。16節と17節だけです。

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

何があってもこれだけ毎日覚えるべきです。 「私たちは、いつまでも主とともにいることになる」。考えられない栄光、将来になります。同じ内容の箇所はコリント第一の手紙の15章の中で次のように書かれています。コリント第一15章の51節52節。今のテサロニケ第一の手紙4章と全く同じ事実についての箇所です

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

最後の58節。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

「主にあってむだでない」と約束されています。

(※テサロニケ第一4・13〜18を指す)