2022年12月2日金曜日

イエスの逮捕(上)

そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。(マルコ14・43)

 『弟子のひとり』と書いたのはマルコがユダの罪を如何に苦しく感じたかを示している。ああイエス御自身が選び給うた十二人の中からさえも反逆者が起こったのだ、と言う嘆息の気分が見える。

 しかも彼は十一弟子が決死の防御をするであろうことを虞れて、あるいはホザナを叫んだガリラヤ人のある者がイエスの周囲に集まっているかをも考慮して、周到なる用意のもとに『剣や棒を手にした群衆』を連れて来た。

 ユダの反逆は一時の出来心ではない。充分に用意してかかっている。犯行の後に縊死(いし)した時の半分の反省があったならば、かかる大罪を犯さなかったであろうが、これが罪の恐るべき性質である。犯すまでは反省することが出来ないほどの力をもって迫って来るのである。

祈祷
主よ、あなたは十字架によって罪を滅ぼし、私たちをその威力から救い出して下さったことを感謝申し上げます。私たちの罪はユダのそれよりも暗くして醜いです。しかしあなたは私たちに悔い改めを与えて下さったことを感謝申し上げます。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著335頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌542https://www.youtube.com/watch?v=PngmjEn6pyU 

ここで、David Smithの『The Days of His Flesh』の詳細な記述を読んでみたい。11/25『ゲッセマネの祈り(2)』所収の 8 イエスの憂悶 に続く個所である。邦訳884頁 原著458頁

9 ユダとその団体

 斯く仰せられる間にイエスが予想された一団は進んで、眼前に現われた。楼上の客室から出たユダは有司に赴いて、その約束を当夜果たすべきを報告したので、彼らはイエスを逮捕のため一団体を招集した。先づ第一に神殿の役人のあるものを集めた。これで十分であるのに、彼らはなおローマ兵の一分隊を応援せしめた。過越の祝いの間に武器を携帯するのはユダヤの律法の許さざる所である。かつイエスは何の防御の手段のないことは明らかであったけれども警戒を加えることは必要であって、群衆がその中心人物を逃れしめんがために集合するかも計り難いからであった。ただにそれのみならず、常に秩序を維持するに汲々と心を砕く知事が、ことに祭典の季節で市内の雑踏せる折り柄、一閃の火もたちまちに大火となるべきを恐れて、斯くの如き計画をただユダヤ人の手にのみまかせて置くことを許さなかった。而して彼の好意と協同とを得るのは、彼らの計画を確実に遂げる最上の策であったので、彼らは寸刻を焦りつつ彼に請うて、保民官の命令の下にアントニヤ要塞から一分隊の兵を借り受けたのであった。兵卒は甲冑を纏って、列を整えて来たが、訓練のない神殿の奴僕どもは、棒を握って提灯や炬火を手にしつつ不秩序な団体を組んでいた〈マタイ26・47、マルコ14・43、ルカ22・47、ヨハネ18・3〉。ユダは先導に立った。蓋し彼はその主や同輩に弟子たちと共に毎夜ここへ来たのでこの隠れ家をよく知っていた。雑漠たる団体はユダの後に続いた。而してその内には熱心のあまりにその威儀を繕うことすら忘れた祭司長、神殿の役人長老らのあるものが加わっていたのであった。

10 謀反

 逮捕するのは兵士の役であったけれども、彼らはイエスを知らなかった。而して彼らの近づくや提灯と炬火との光の前に一人ならずして十二人の人物が現れたので、何れを逮捕すべきやに惑った。ユダはこれを助けんとして『私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ』と合図した。斯くて進んで恭敬の状を装いつつ挨拶して『先生。お元気で』と強く口づけした。実に恥を知らず、冷酷にして厚顔な所業であったが、イエスは憤怒と侮蔑にわななかれつつ、制するような宣告を下して『友よ』との一句に謀反人の下劣なことを示し「汝の使命を遂げよ」と仰せられた。ユダを傍に押しやってイエスは進んで兵士に問われた。『だれを捜すのか』と。その調子にも態度にも自ら彼らを圧するものがあったので、彼らは震えながら『ナザレ人イエスを』と答えた。彼らは悪逆な謀反人の側に躊躇しつつ立っていたがイエスが『それはわたしです』と自ら進んで彼らの手に己を委ねられたとき、驚駭に打たれて、地上に倒れた。これは決して奇蹟ではなかった。ある日ジョン・バンヤンの説教中に警官の一隊が家に入り来たって、そのうちの一人が、彼を逮捕せよと命令した。彼は聖書を開いて手に載せつつ正面に警官の顔を見詰めると、警官は色を失って後ろに倒れた。バンヤンは侶伴を顧みて『見よ、この人の神の人に戦慄する様を』と叫んだと言う。またジョン・ウェスレーは迫害の起こったとき、無頼漢の一隊に囲まれた。彼らはその犠牲の顔を知らないので、群衆の中を『何れか彼なりや』『何れか彼なりや』と叫び求めた。神の人は前に歩み出て大胆に彼らに相対して『私はそれなり』と言うや、彼らは驚いて退き去ったと伝えられる。従ってイエスの敵が人の子の権威に打たれて頭を垂れたのを怪しむ要はないであろう。その権威には凶暴なナザレ人も圧伏せられた〈ルカ4・29〜30〉。而して断崖の頂上からイエスを投げ落とそうとした。その毒手を控えたのであった。しからば今ゲッセマネの夜の妖気の下に、イエスが面前に立たれたのにこの一団が逡巡したのは怪しむに足るまい。

11 逮捕

 イエスはさらにその問いを繰り返して『だれを捜すのか』と尋ね給うたので彼らも再び『ナザレ人イエスを』と答えた。『それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。』とイエスは宣い、さらに加えて『もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい』とこの危機迫る恐ろしき時期にすらなお弟子に対して心を砕かれた。恐怖がさると、兵士らはイエスにその手を加えて、その弱点を見透かされたる恥ずかしさに一層残忍にこれを縛したことであろう。十一人は恐怖に縮み上がった。しかしその慕い奉る主を彼らが斯くも無礼に扱うのを見てペテロはこれを控えることが出来なかった。

ペテロ、マルコスを斬る

 絶望的な勇を揮って、彼はその外套の下に隠し持った剣を抜き、最も近い男を目掛けて打ち降ろし、その右の耳を切った。この不運な男は祭司長の奴隷のマルコスと言うものであったと言う。彼はイエスと兵士とが問答を交わされている間に、後ろに立っていた。而して兵士がイエスを捕らえて、これを縛するときに同輩らと近く寄って来て、群衆の肩の上から成り行きを眺めている所に、ペテロが後ろから切りつけたのであった。この軽率な弟子の運命はその無謀な行為で定まったものと思われた。瞬間ならずしてペテロは地上に切り倒されるべきはずであったが、しかし敵の刃が鞘を離れて飛ぶまもなく、イエスは遮って『剣をさやに収めなさい』とペテロに命じなお未だ捕縛のかからない右の手を伸べて『わたしを彼処まで行かしめよ』と兵士に命じ、マルコスの許に近づいて、切られた耳に触れ、その傷を癒された。奇蹟によってペテロの生命は助かった。しからずんば雨の如き復讐の刃は降って彼は寸断せられたに相違はない。

12 主、ペテロを叱責せらる

 マルコスの同僚が群がり寄って来て傷を調べて祝している間にイエスはペテロを叱責して『剣を取る者はみな剣で滅びます』と諺の如き名句をもって仰せられ、なお『それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことが出来ないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう』と宣うた。聖クリソストムは旧約全書中のセナケリブの軍隊の滅亡をイエスが引照せられた者であろうと想像している〈2列王紀19・35〉。一軍団は六千人であって、もし一人の天使にして能く一八万五千人を撃ち殺したりとせば七万二千の天使に対してこの賎民の一群が果たして物の数とも思われようか。

13 イエスの風刺

 主の平静な自制力は、この恐るべき危機に際してすら、ペテロを叱責せらるるのみならず、なお、この後に続いて言われた言葉のうちに現われている。すなわち祭司とパリサイ人の団体を団体を顧みて侮蔑をもって『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか』と詰められた。彼らが斯く武装せる者を率いて、さながら暴虐な凶漢を遇する如き策を取るほど、イエスが、彼らに恐ろしく見ゆる理由があったろうか。イエスは骨を刺すような言葉をもって『わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです』と宣うた。一句彼らの胸を貫く感があったことであろう。彼らは群衆を恐るるが故に、神殿においてはイエスを捕らえなかった。臆病な彼らは、ここでも臆病で、孤独な赤手のイエスに対し武装の団体を率いて来た。この御言葉に彼らが憤慨したか、あるいは喧々諤々脅迫したか、この間にともかく弟子の心を畏縮せしむべき事件が起こった。

遁逃

『弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった』。

14 麻の夜具を破れる若者

 ここに聖マルコのみが一事件を紹介している。不思議な姿をした一人の影が後ろを徘徊して従って来たーーすなわち『裸で』麻の敷布に包まった若者であったと言う。彼は主の一団ではなかったけれども、その同情者で心を寄せていたものに相違はない。脅迫された弟子たちが驚いて逃げ去ったので、余憤に燃えた有司たちはその男を捕らえたが、彼は敷布を棄て、それを彼らの手に残したまま裸で逃げ去った。ある人は斯くの如き事件が後年に残ったことを怪しむのである。さながら悲劇の中に不似合いな喜劇を挿入したと言う他に、この滑稽な青年を引き出す必要はないようである。これをことさら記すには特別の理由がなければならぬ。これは畢竟聖マルコその人であって、聖書の記者の例に漏れず、自己の名はこれを曖昧にして事件を添えたものと推測せらるるのである。この青年はイエスが過越の祝いの晩餐を取られた家から来たものと昔からせられているのであるが、それが果たしてマリヤの家であったとすれば彼はその息子であったものとするのが至当である(※)。

恐らくヨハネ・マルコ

 彼の被った麻の敷布は寝床に用いるものであって、マルコは晩餐後に寝たのであろうが、凶事前の不安の思いに眠りもやらず、イエスが十一人と共に楼上を降りて家を出られるのを聞いて、彼も起き出で、とりあえず敷布を被りつつ、何事を起こるのかを見るために一同の後に尾いて来たものと総合せられるのである。

15 指を断たれたマルコ

 事件は一小些事に過ぎない。しかもマルコの記憶には明確であって、福音記者としてその光景を自ら目撃したことを示すにおいて特別の価値があるのである。彼の謙譲よりそれを些事に取り扱ったので、実は記事以上の価値があるであろう。初代の教会のうちにマルコについて奇妙な物語が伝えられる。すなわち彼は「指を断たれた」マルコと称せられていることであって、その由来の信ずべき説明を欠く所から、この忘るべからざる夜に敵と取っ組み合って、ついに刃をもって指を切り落とされたものであろうと推せられるのである。もし然りとせば彼はその主の危急の場合、これに忠誠を献げたことを得意として紹介し、その負傷は名誉としても差し支えないはずであった。

※David Smithのこのような推測は必ずしも彼独自のものではないようだ。英文ではあるがオースティン・スパークスの以下の論考にもこれを肯定する記事があるので紹介しておく。https://www.austin-sparks.net/english/books/000945.html なお、上記の10 謀反 の記事中「 」で示した語句は聖書中に見当たらない。David Smithの想像ではないかと思う。念のために、英文は「to thine errand!」である。

併せて、繰り返しになるが、クレッツマンの昨日の続きを読むのも無駄ではあるまい。

 彼らがある不幸な裏切り者に先導されて来た時、主はこれを迎えに出られた。

 かくして、二人の者は顔を合わせる。身を低めて、人の姿をとってはいても、罪に手を染めたことのない天から来られた主と、「滅びの子」であり、サタンのずるさと残忍さの前に捧げられた最も痛ましい生贄〈いけにえ〉の一つであり、「十二弟子の一人」なるユダと。キリストに属するものの一人であるということは、キリストから脱落しないことの保証ではない。

 「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい〈1コリント1 ・12〉」。

 ユダはユダヤの議会に雇われて、剣や棒で身をかためた兵卒や僕たちの大勢を引き連れて来たが、これは彼にとって、あまり心安らかなことではなかったに違いない。彼は、主が実際に示されたように、一言口にされるだけで、彼らみんなを地に打ちのめすことができるのを知っていたが、どういうものか、主は御自身を守る努力をなさらなかったので、こんなおかたを捕らえてとくとくとする訳にゆかなかった。裏切りの合図でありしるしである、偽りの親しさを込めた接吻は、にがさ以外の何ものもなかったにちがいない。

 こうして、生命の主は、その定められた死を迎えようとされる。みずからの意志で、主は、彼らがそのけがれた手を触れて、捕らえるにまかせたのである。剣で師を守ろうとしたペテロの、つたない試みはすぐに退けられた。敵たちは主を捕らえて、満足を味わうはずだったが、主は彼らの剣や棒が権力のむなしい誇示にすぎないと指摘なさったので、その満足はすべてだいなしにされてしまった。もし彼らに正当な理由があるなら、主が宮で教えておられる時に、正々堂々と捕らえることができた訳だが、彼らは卑怯にも、そういう方法では捕えに来なかった。今、彼らが主を縛って引いて行くことができる唯一の理由は、それが神の御前において定められたことであり、主御自身の意志による、ということだけだった。

 主がご自身を渡されたのを見た時、ペテロやその他の人々のあの誇らかに勇気や信仰心は、みんなどこかに消え失せてしまった。彼らは夜の闇の中へ逃げこんだ。この騒ぎに接して、おそらく、眠りから覚まされたのであろうか、たった一枚の布を身にまとっただけで、そばへ近寄って見ようとした一人の若者がいた。人々はこの若者も捕らえようとしたが、彼は最後の被いまでも捨てて、これまた闇の中へ姿を消してしまうのである。かくして、イエスは敵の手中に唯一人、残される。主に対する私たちの信仰は、全くあてにならない。それに反して、私たちに対する主のまことの心は、決してそこなわれることがないのである。)

2022年12月1日木曜日

ゲッセマネの祈り(5)

また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。(マルコ14・40)

 『ひどく眠けがさす』カタバルヲーの字は聖書にここの他には一回も用いられてない。『非常に重くなる』という意味の字で、彼らは全く疲れ果てていたのである。御受難週の毎日は実に不眠不休であったのでは無かろうか。

 水曜日の記事が無いので、あるいはマルタの家で御休息になったのであろうと推測する人もあるけれども、イエスは一日でもぼんやり休息されるお方ではないのと、木曜日の夜にこのようにまで弟子らが疲れていたのを見ると、公の仕事をなされなかった水曜日にも弟子らに最後の教訓を与えるために夜もろくに休まずに語り合ったのではなかろうか。

 とにかく11人が11人ともこのようにまで、疲れ果てていたのには相当の理由がなくてはならぬ。徹夜の祈祷とか、断食または減食の祈祷とか、疲れ果てるまでの奉仕とか、何か肉体を苦しめるまでに精進するのは今日の私たちには必要がないだろうか。

祈祷
主よ、あなたは血の出る御一生を私どもに与えて下さいました。私どもにも血の )出るほどの祈りと奉仕とをさせて下さいませ。弱い私どもには毎日それは出来ないでしょうが、時々でも出来るようにして下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著335頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌227https://www.youtube.com/watch?v=YkgDX7P-SzQ 

以下は、クレッツマンの『黙想』の昨日の続きである。

 三度もイエスはその親しい天の父に祈って、苦しい胸の中をうち明け、もしできることなら、全能の父がこの杯をとり去って、この時を過ぎ去らせてくださるようにといたましげに祈られた。それでも彼は、全く従順に、ご自身の意志を天の父の意志にまかせられた。時の立つにつれて、彼は弟子たちが御自身にもたらしてくれる慰めのことはあまり考えなくなり、むしろ彼らの心の平安の方に深く思いを寄せられた。彼らは、身に襲いかかって来る試練と誘惑とに打ち負かされないように、ただ目を覚まして、祈りさえすればよかったのである。ところが、あのペテロでさえも、主みずから、親しく求められていながら、共に一時間も目を覚ましていることができなかったのだ。憐み深く、主はその愛する弟子の心が熱していることをお認めになったが、その肉体の弱さを悲しまれた。彼らはみんなひどく眠かったので、口の中でつぶやかれた返事の言葉は意味をなさなかっただろう。

 とうとう、主は弟子たちを、夜を徹しての祈りに参加させようとする試みを、ことごとく断念され、彼らを呼び起こして、御自身が備えられる運命の時が迫ったことを告げられる。主は人の子が、神を畏れぬ敵の手に渡されることをご承知だったのである。)

2022年11月30日水曜日

ゲッセマネの祈り(4)

   満面に 祝福あり バラの花(※)   
「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。』(マルコ14・37〜38)

 主と共に目を覚まし祈ることが出来たならばペテロ及び他の弟子はあんな見苦しい逃走はしなかったであろう。一二時間前に『ごいっしょに死ななければならないとしても』と言ったのではなかったか。しかしこれがペテロであり、弱い人間である。
 如何に自ら恃んでも『肉体は弱く』して力の及ばないことがたくさんある。さればイエスはペテロを咎めなかった。むしろ『心は燃えて』いることを認めて、諒とし給うた。イエスはこのような時にさえも御自分の立場からでなく、ペテロの立場に入って御覧になった。
 私どもの人に対する不平や悪しき感情の多くは、その人の立場に立って見ることが出来ないで、自分の立場からのみその人を見、あるいはその人の態度や行為を、自分に対する角度からのみ考えるからである。

祈祷
主イエス様、あなたは必死の時にも弱い傍人に同情する余裕を保っておられます。願わくは私にもあなたがペテロになされたように、常に自己の立場よりしないで、隣人の立場からその人を見ることができるようにさせてください、アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著334頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 326 https://www.youtube.com/watch?v=G5thRCkXCyo
以下は、昨日に続く、クレッツマンの『黙想』の各論である。

 他の弟子たちを園の入口近くに待たせておいて、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネとを、御自身の苦難の証人としてばかりでなく、共に目を覚まして祈るようにと、ともなって行かれた。世の罪のおいめはーーそのためにイエスは今まさに、偉大な苦難を始められようとしていたのであるがーー重く、苛酷なものだったので、弟子たちのもたらすわずかばかりの人間的な同情や祈りの助けでさえも、深く身にしみるものとして受けとられたのだ。イエスの心は、「悲しみのあまり死ぬほど」だったからである。私たちが垣間見ることを許されているこの悲しみと苦痛の深さは、私たち人間の理解力をはるかに越えている。

※ 昨日は闘病中のSご夫妻をおたずねし、親しいお交わりをいただいた。玄関先にこの花があった。導かれるままに「死」を恐れる私たちは1コリント15・55〜56、ミカ7・8を互いにあじわい、限りあるいのちの中で今主イエス様の愛を身に受けて生かされている平安を思うことができた。それもこれもすでにイエス様のゲッセマネの祈りに組み込まれていることを思う。今日は今日で家内の診察をしてくださったお医者さんが「寿命」の範囲内で治療しましょうと言われた。「余命」と言おうが、「寿命」と言おうが、主ご自身は私たちのいのちを救うために「贖い」となってくださったのだから、すべて主の命〈めい〉のまま歩みたいと思った。)

2022年11月29日火曜日

ゲッセマネの祈り(3)

『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。』(マルコ14・36)

 イエスのこの祈りは聴かれたのであるか、聴かれなかったのであるか、との疑問が昔から残っている。私は聴かれたのだと思う。ヘブル書5章7節に『キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。』とある。

 だから前にも述べた通りこの祈りが聴かれて、天使が降り来たりイエスに力を添えなかったならば、ゲッセマネで死なれたのであろう。それでは折角過越の小羊として十字架の上に屠られる御予定が狂うのである。どこまでも旧約の預言を成就し、正式に贖罪の死を遂げ給うたのである。

 さればこの祈りは非常時に際しての非常な祈祷の良き見本である。天父の意を熟知しておるイエスですらこのような大切な場合において『わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください』と祈ったのは私どもに何を教えるだろうか。

祈祷
必ず聴かれると信じつつも『みこころのままを』と祈られた主よ、非常時に際してはたびたび天の父に命令せんとするような私たちの不遜を改めてあなたのように恭順な祈りをささげることをお教えください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著333頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌293

過去三日間、David Smithの文章によりまさに『The Days of His Flesh』の一部始終を見たが、一方、クレッツマンはそのことを黙想して、マルコ14・32〜52に次のような表題をつける。

34 主は、ひとり心を尽くして神に祈られる

例によりまず総論である。

 オリーブの樹の小さな園、ゲッセマネは、まことの信仰者にとっては、永久に神聖な場所として追憶される。ここでは土そのものまでが、かつてこの地上に足跡をしるした唯一人の罪なきおかた、しかも神に呪われたあのおかたの、聖なるひたいから流された血の滴によって清められたのである。もはやパラダイスと呼ぶに値しないもう一つの園では、最初の人間が罪を犯し、そのすべての子孫に死をもたらした。一方、この園では、罪なき神の子が肉体をもった人間の姿の中に身を低めて、罪やサタンや死や冥府の力と戦い、しかもなお、聖なるおかたのままであられて、そのあがないの恵みを信ずる者の胸の中に、義と平和が支配するパラダイスをかちとってくださったのである。)

2022年11月28日月曜日

ゲッセマネの祈り(2)

ゲッセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。・・・ここを離れないで、目をさましていなさい。」(マルコ14・32〜34)

 贖罪の大苦痛の時に当たって、イエスが弟子らの同情を求められたことは注意する価値があると思う。神が人を救い給うのに人間の同情や手伝いが要るかと冷ややかに論ずる人もあるかも知れぬ。しかしイエスの人間らしさに、私は大きな魅力を感ずる。否、神の人格の内容には人間らしさがあると知って一層神が慕わしい。

 人間の同情を受け得ないような神は人間を救う神ではない。つまらぬ弟子が『ここですわって』いるだけ、『目をさましている』だけで、幾分の慰めを感じ給うた主は、私どものあるかなしかの信仰や、役にも立たぬ小さな奉仕の中に、何か役に立つものを見出して下さることを信じてそこに救いの妙味を感ずる。

祈祷
主よ、あなたの愛は深いです。あなたが私たちを必要としなさるほどに私たちを愛して下さることを讃美申し上げます。私たちのあなたに対する同情によって慰められなさるほどに私たちを愛して下さることを感謝申し上げます。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著332頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 233https://www.youtube.com/watch?v=m8lBq-RDM5E 

David Smithの『The Days of His Flesh』の昨日の続きの部分である。熟読玩味したい!

8 イエスの憂悶

 この惨憺たる時期に際してイエスは同情を要求せられ、忠誠を献ぐる三人に対して、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです』と仰せられ『ここを離れないで、わたしといっしょに目を覚ましていなさい』と訴えられた〈詩篇42・5〜11、43・5)斯くして彼らよりも石を投ぐるほどの距離に行って、その顔を伏せ、霊魂の憂悶に高く叫びつつ祈られた。聖音は静かな夜の空に澄んで彼らの耳に聞こえて来た。曰く『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください』との祈祷であった。斯くてほとんど一時間地にひれ伏さられたが、三人は疲労と悲愁に打たれてついに眠った〈マタイ26・40、マルコ14・37〉。やがてイエスは彼らの傍に来て彼らを呼び覚まし、主のためにはその生命をも惜しまずと公言したペテロを叱って『あなたがたは、そんなに一時間でも、わたしといっしょに目をさましているlことができなかったのか。。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。と言い、さらに柔らかに彼らの弱きを宥恕〈ゆうじょ〉して『心は燃えていても、肉体は弱いのです』と励まされた。後再び行きて、この度はその救いを求めず、天父の聖旨に全く身をゆだねつつ『わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください』と祈られた。その後帰り来たって彼らの眠っているのを見られたが、彼らは容易に醒むべくも見えなかった。恥ずかしい様を見られつつも、イエスはこの度は彼らを起こさず、天父の聖旨に従うべき祈祷を繰り返された。同時にイエスは多くの人々の足音を聞き、また明滅する炬火〈たいまつ〉や、輝く冑を樹の間隠れに見られたので、急ぎ弟子たちの傍に来られて、悲調を帯びた反語をもって『では、ぐっすり眠って休んでいなさい〈欄外別訳による〉。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました』と仰せられた。)

2022年11月27日日曜日

ゲッセマネの祈り(1)

ゲッセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスが深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」(マルコ14・32〜34)

 イザヤの預言によればメシヤは『悲しみの人』(53章3節)である。イエスはメシヤとして立たれた時から人の罪を身に負うて苦しみ給うたのである。が、この時には実に全世界の罪の苦しみがイエスの霊魂に押し迫って来たのであろう。

 弟子らの見た目にも、未だかつて見たことのない『恐れ』と『もだえ』がイエスの御容貌に窺われた。あれほどに強い御方が『死ぬほど』だと仰せられるほどの御苦痛であった。ルカ伝にあるように(22章43節)『御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた』ことがなかったならば、十字架に上るを待たずしてこの時に心臓が破裂してしまったのであろうと拝察される。

 罪に慣れている私たち罪人には、罪の圧力がわからない。罪なき御方が罪を負うて下さる時に罪の恐るべき力が、火と硫黄の地獄のようにその真相を現わすのであろう。イエスはゲッセマネの園から既に陰府に降り始めたのである。ゲッセマネとは『油を搾る』との意味で、オリーブ油を搾取する場所がここにあったのである。イエスが血と脂汗とをここで絞り給うたのも奇縁である。

祈祷
主イエス様、あなたは私のためにすべての罪を担い、その刑罰の一切を受け給いましたことを思い、『感謝する』という語では甚だ不足していることを感じます。ただありがたく御礼を申し上げます。どうかこの御恵みの深さを悟らせ、覚えさせてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著331頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 122https://www.youtube.com/watch?v=TuBUtl2JJXg 

さて、David Smithの『The Days of His Flesh』は第46章 ゲッセマネの就縛 と言う題名で、およそ20頁にわたりその詳細を聖書に沿って記述していると前回〈11/24[「ゲッセマネへの道〉で書いたが、今日の個所はその続きの箇所である。(邦訳880頁、原書456頁)

7 主の教訓

 時はすでに更けたので、弟子たちはしきりにその外衣にくるまって眠りたく思ったことであろう。しかしイエスは全く異なった心を抱いておられた。『わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい』と宣いつつ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを伴って、別の所へ赴かれた。あたかも他の弟子の聴き得られざる所まで来られるや否や、三人に打ち明けられたが。彼らは寸刻の前までは、平和に勝利を握っておられた彼らの主が、憂悶の怒濤に襲われ給う他ことを感得した。斯くイエスを苦しめたものは果たして何であろうか。死の恐怖にあらざるはもちろんである。これすでに制服せられた所である。かつ楼上の客室において歓喜をもって向かわれた光景が、たちまち覆って、恐怖をもってイエスの聖眼が眩まれたとは思うを得ないのである。贖い主の霊魂を揺るがしたものはさらに凶暴なある事実であった。すなわち贖罪の苦悶がすでに始まったのであった。すでに十字架上のイエスを包んだ黒雲が覆い始めたのであった。『十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました』〈1ペテロ2・24〉この究極の危機に当たって、永遠の神の子が如何なる経験を有せられたかは我らの悟り難き所である。悟り難き所には唇を噤んで沈黙を守るの外はない。

Deep waters have come in, O Lord!
All darkly onThy Human Soul:
And clouds of supernatural gloom
Around Thee are allowed to roll

ああ主よ、暗澹たる数々の艱苦は
人なる汝の霊に漲り来たり
世に見るべくもなき憂悶の雲は
汝の四囲に叢り起きるに任されぬ。

And Thou hast shuddered at each act
And shrunk with an astonished fear,
As if Thou couldst not hear to see
The loathsomeness of sin so near

身近く寄する罪悪の醜状、
見るに堪えざる如く
駭然恐怖に戦き
度経る毎に汝は身震い給いぬ。

 このゲッセマネの園中において、その暴虐のつむじの第一陣は、イエスの霊魂に殺到した。聖マタイは『悲しみもだえ始められた』と言い、聖マルコは『深く恐れもだえ始められた』と言っている。

※詩文は英文を併記したが、冒頭の詩文など詩篇69篇を想起させる。それはさておき、日高善一氏が如何に苦心してその和訳を敢行しておられるか深く味わいたい。)

2022年11月26日土曜日

ゲッセマネへの道(下)

すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マルコ14・29〜31)

 悲劇である。人生の悲劇である。ペテロは一生涯この記憶に苦しめられたことであろう。私たちは自分の弱さを本当に知り得ないものである。

 つい先刻は自分たちの弱さを心配して、主を売らんとする者は「私ですか」と言い得たほどに謙遜であった人たちが急に腰が強くなって、主の言明に反対してまでも自信のある態度を示した。これがいけない。

 自信というものはある程度まで必要であるけれとも、神の前に立っては自らの弱さを知ることが大切である。パウロも『私が弱いときにこそ、私は強い』と言っている。私たちにとって自信は神を信ずることでなければならない。

 自信が主の御言葉にまで反対するようになったら、それは失敗の前兆であることを忘れてはならぬ。たといその動機はペテロのように順であっても。

祈祷
主イエス様、私たちの弱さを悟らせて下さい。常にあなたを売る者は『私ですか』と問う謙遜をお与えくださって『たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません』との傲慢に陥ることなく、ただひたすら聖旨をのみ仰ぐ者として下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著330頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。讃美歌 528https://www.youtube.com/watch?v=Lr6rsKrN0yU 

引き続き、クレッツマンの『聖書の黙想』より

 ここで頼りないペテロの心弱さが暴露される。彼は多少、自慢げに、他の者が主につまずくおそれのあることは十分考えられることだが、自分に関する限りは、決してそんなことにはならないと言い張ったのである。イエスはペテロがまさにその当夜、主を三度否定することになるだろうと、はっきり予告されたにもかかわらず、この弟子は愚かな自信にとらわれて、自分は主と共に死ぬ覚悟さえあるのだと、力いっぱい宣言したのである。ペテロ以外の人々も、こんな軽率な宣言をする他に、何ができただろうか。

 自負することをやめて祈ること、高ぶらず謙虚に神に信頼すること、これは試みの時に私たちを助けるものとなるだろう。

クレッツマンの祈り

主よ、
もし、私たちの心がおごりたかぶって、愚かになる時がありますなら、そして、もし、私たちが魂を悩ます危険を、軽んずるようなことがありますなら、お赦しください。
 その上、さらに大切なことですが、こんな裏切りや偽りも、私たちをあなたの救いの愛から引き離すことがありませんようにお助けください。そして、何よりも、あなたの変わらぬまことの心の啓示であるみことばと礼典の中に、常に新しい慰めと力づけとを見出すことができますようにお導きください。 アーメン 

※クレッツマンの文章は11/21『最後の晩餐』から飛び飛びに載せさせていただいたが、彼はマルコ14・17〜31までを一区切りにして33「ユダの裏切り、イエスの誠の心、ペテロの不実の心」と題していたことを、彼の祈りの言葉を転写するにつけて思い出した。)