(Edinburgh Castle) |
神が打ち立てられる際に確信しておられる権威に、わたしたちは服従する際に確信すべきです。もし間違いがあるとしたら、それはわたしの間違いではありません。それはその権威の間違いです。主は、すべての人はその上のもろもろの権威に従うべきであると言われます。困難は神の側よりもわたしたちの側にさらに多いのです。神が人にゆだねておられるなら、わたしたちもゆだねることができます。神がその委託について確信しておられるなら、わたしたちはさらに確信すべきです。
イエスは、・・・、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、彼ら(=弟子たち)に言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。・・・」(新約聖書ルカ9:47~48)
主が御父を代行することに何の問題もありません。なぜなら、父は主にあらゆるものを託されたからです。わたしたちが主を信じることは、御父を信じることです。しかし主の目には、これらの子どもたちでさえ主を代行しています。主はこれらの子どもたちにご自身を託すことができます。こういうわけで主は、これらの子どもたちを受け入れることは主を受け入れることであると言われたのです。
ルカによる福音書第10章16節で主は弟子たちを遣わし、彼らに言われました。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。」弟子たちの言葉、命令、決定、意見は、すべて主を代行しました。主はすべての権威を弟子たちに託したことに、とても確信がありました。彼らが主の名の中で語ったことは何であれ、主は承認されました。弟子たちを退けることは、主を退けることでした。主は全き平安をもって彼らにご自身を託すことができました。主は、彼らがその言葉に注意すべきであるとか、出て行って語る際には失敗をすべきではない、などとは言われませんでした。主は彼らが失敗をして何かが起こるとしても少しも気にかけませんでした。主には、弟子たちに確信をもって権威を渡す信仰と勇気がありました。
しかし、ユダヤ人たちはそのようでありませんでした。彼らは疑い、言いました、「どうしてこんなことがあり得ようか。あなたが言ったことがみな正しいとどうして知ろうか、わたしたちはもっと考える必要がある!」。彼らはあえて信じようとはしませんでした。彼らは非常に恐れました。
仮に、あなたがある会社で一管理職として働いているとします。そしてあなたは一人の人を派遣して次のように言うとします、「あなたの最善を尽くしてしっかりやりなさい。あなたが行なうことは何であれ、わたしは承認します。人々があなたの言うことを聞くとき、それはわたしの言うことを聞くのです」。もしこうであるなら、あなたはおそらく彼に、毎日その仕事の報告をすることを要求するでしょう。それは、何かの間違いがあるといけないからです。
しかし、主はその代理者であるわたしたちに任せることができます。これは何と大きな信任でしょう!主がご自身の代理権威にそれほど信頼されるとしたら、わたしたちはさらに一層そのような権威に信頼すべきです。
ある人は、「もしその権威が間違いをしたらどうしますか?」と言うかも知れません。もし神が代理権威とした人たちに信頼されるとしたら、わたしたちはあえて服従します。その権威が間違いかどうかは、その人が主の御前で直接責任をとらなければならない問題です。権威に服従する者たちは、絶対に服従することだけが必要です。たとえ彼らが服従したことで間違いを犯したとしても、主はそれを罪と見なされません。主はその罪の責任を代理権威に問われます。
不従順は、背くことです。このゆえに、服従する者は神の御前で責任を持たなければなりません。この理由により、人間的要素は、服従とは何の関係もありません。もしわたしたちが人に服従しているだけなら、権威の意味は失われます。なおまた、神はすでに彼の代理権威を立てた以上、神はこの権威を維持しなければなりません。他の人たちが正しいか正しくないかは、彼らのことです。わたしが正しいか正しくないかは、わたしのことです。すべての人は主に対して自ら責任を負わなければなりません。
(『権威と服従』86~89頁の「わたしたちは代理権威に服従することに確信をもつべきである」より抜粋引用 )