ある日の福音伝道の場 1982.11.14 |
ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」(新約聖書 ヨハネ1・46)
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。(旧約聖書 イザヤ書9・2)
昨日の酒枝氏の『クリスマスとスカルの井戸』のクリスマス・メッセージ(1962年12月)を読んでいて、疑問を持たれた方も多かったのではないだろうか。それは御子イエスがガリラヤに生まれたと書いてあったからである。引用者としても疑問を持たざるを得なかった。言うまでもなく、イエス様はエルサレム近郊のベツレヘムにお生まれになっているからであって、エルサレムから160㎞北方のガリラヤ地方・ナザレではないからである。それでは酒枝氏はなぜそのように書かれたのであろうか。何冊かの本を調べてみたが、以下の鍋谷堯爾氏の記事が参考になるのではないかと思う。
私たちがイエスの生涯を理解する場合に持っている錯覚の一つは、イエスの生涯をエルサレムを中心にした地域を背景にして考えがちなことです。福音書は、イエスの三十数年の生涯のうち、最後の一週間の受難と死に三分の一もの頁をさいているので、そのような錯覚が生じるのです。また、約二年の公生涯に三分の二頁がさかれており、それまでの私的な生涯については全体の数パーセントの頁がさかれているのみです。
私たちがパレスチナの地図を開いてまず知っておくべきことは四国ほどの広さのパレスチナがエスドラエロンの平野で二分され、南のサマリヤからユダにかけての山岳地域と、北のゼブルン、ナフタリの地域とは風土が全く異なっていることです。イエスがその生涯の大部分を過ごされたナザレは、気候温暖で、緑したたる風光明媚の地であり、北にはヘルモンの雪を眺め、東にガリラヤ湖、西には地中海、南にはタボル山を越えてエスドラエロンの平野を望む南面の地でありました。野心や使命がなければ誠実な大工として生涯を送るためにナザレの村はもっとも恵まれた環境の一つだったのです。
私たちは聖書が十分な紙面をさいていないだけに、ナザレに育ち、山野をかけめぐる少年イエスを、そこで村人に愛されつつ誠実な大工業に励む青年イエスの日常生活を、たとえば、ルカの福音書二章五二節の背後に読み取るのです。バプテスマのヨハネに次いで、宣教を開始され、約二年の公生涯に入られたイエスの活動の中心も、南のエルサレムではなく、ナザレ村からは北東にあるガリラヤ湖畔のカペナウムでした(マタイ4・13)。それはイザヤの預言が成就するためでした(イザヤ9・14〜16)
イザヤの警告を無視し、大国アッシリヤに助けを求めたアハズ王の要請にティグラテ・ピレセル大王は敏速に行動しました。前733年にイスラエルを侵略したアッシリヤ軍はガリラヤとヨルダン以東の地を攻め取り、住民を追放し、数多くの町々を破壊しました。ゼブルンとナフタリの地は極度の辱めを受け、人々はやみと死の淵に投げ込まれたのです。
(『鷲のように翼をかって』鍋谷堯爾著1984年刊行60〜61頁「やみに輝く光」より引用。今日の冒頭の写真はキャプションに少し書いたが、山中為三氏が福音宣教のために貸家を提供された家族三人に福音を伝えておられる場面である。かつて若き日「ナザレから何の良いものが出るだろう」と思っておられたであろう京都の神官の家の出である山中氏は「来て、そして、見なさい」とのクリスチャンの方の勧めに素直に従われたのではないだろうか。このようにして福音は山中氏に根づき、その後、半世紀の時を経て遠く日本海の沿岸の山形県酒田の地に住んでおられたT氏家族にまで伝わり、根を下ろした。そのT氏が東京に出られ、30数年が経つと言う。そして先週信じられない私との出会いとなった。山中氏はその後米国に帰られたらしい。詳細はわからないが、T氏からそのように先週教えていただいた、そして一週間のちの昨日、今度はこの写真を拝借できた。誌上ではあるがT氏に感謝したい。)
昨日の酒枝氏の『クリスマスとスカルの井戸』のクリスマス・メッセージ(1962年12月)を読んでいて、疑問を持たれた方も多かったのではないだろうか。それは御子イエスがガリラヤに生まれたと書いてあったからである。引用者としても疑問を持たざるを得なかった。言うまでもなく、イエス様はエルサレム近郊のベツレヘムにお生まれになっているからであって、エルサレムから160㎞北方のガリラヤ地方・ナザレではないからである。それでは酒枝氏はなぜそのように書かれたのであろうか。何冊かの本を調べてみたが、以下の鍋谷堯爾氏の記事が参考になるのではないかと思う。
私たちがイエスの生涯を理解する場合に持っている錯覚の一つは、イエスの生涯をエルサレムを中心にした地域を背景にして考えがちなことです。福音書は、イエスの三十数年の生涯のうち、最後の一週間の受難と死に三分の一もの頁をさいているので、そのような錯覚が生じるのです。また、約二年の公生涯に三分の二頁がさかれており、それまでの私的な生涯については全体の数パーセントの頁がさかれているのみです。
私たちがパレスチナの地図を開いてまず知っておくべきことは四国ほどの広さのパレスチナがエスドラエロンの平野で二分され、南のサマリヤからユダにかけての山岳地域と、北のゼブルン、ナフタリの地域とは風土が全く異なっていることです。イエスがその生涯の大部分を過ごされたナザレは、気候温暖で、緑したたる風光明媚の地であり、北にはヘルモンの雪を眺め、東にガリラヤ湖、西には地中海、南にはタボル山を越えてエスドラエロンの平野を望む南面の地でありました。野心や使命がなければ誠実な大工として生涯を送るためにナザレの村はもっとも恵まれた環境の一つだったのです。
私たちは聖書が十分な紙面をさいていないだけに、ナザレに育ち、山野をかけめぐる少年イエスを、そこで村人に愛されつつ誠実な大工業に励む青年イエスの日常生活を、たとえば、ルカの福音書二章五二節の背後に読み取るのです。バプテスマのヨハネに次いで、宣教を開始され、約二年の公生涯に入られたイエスの活動の中心も、南のエルサレムではなく、ナザレ村からは北東にあるガリラヤ湖畔のカペナウムでした(マタイ4・13)。それはイザヤの預言が成就するためでした(イザヤ9・14〜16)
イザヤの警告を無視し、大国アッシリヤに助けを求めたアハズ王の要請にティグラテ・ピレセル大王は敏速に行動しました。前733年にイスラエルを侵略したアッシリヤ軍はガリラヤとヨルダン以東の地を攻め取り、住民を追放し、数多くの町々を破壊しました。ゼブルンとナフタリの地は極度の辱めを受け、人々はやみと死の淵に投げ込まれたのです。
マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(イザヤ8・3〜4)の預言は成就し始めたのです。しかし、イザヤは絶望とやみの中から、不思議な預言を残しました。イエスの宣教開始においてその真意は明らかにされたのです。
(『鷲のように翼をかって』鍋谷堯爾著1984年刊行60〜61頁「やみに輝く光」より引用。今日の冒頭の写真はキャプションに少し書いたが、山中為三氏が福音宣教のために貸家を提供された家族三人に福音を伝えておられる場面である。かつて若き日「ナザレから何の良いものが出るだろう」と思っておられたであろう京都の神官の家の出である山中氏は「来て、そして、見なさい」とのクリスチャンの方の勧めに素直に従われたのではないだろうか。このようにして福音は山中氏に根づき、その後、半世紀の時を経て遠く日本海の沿岸の山形県酒田の地に住んでおられたT氏家族にまで伝わり、根を下ろした。そのT氏が東京に出られ、30数年が経つと言う。そして先週信じられない私との出会いとなった。山中氏はその後米国に帰られたらしい。詳細はわからないが、T氏からそのように先週教えていただいた、そして一週間のちの昨日、今度はこの写真を拝借できた。誌上ではあるがT氏に感謝したい。)