2019年8月29日木曜日

やみの中を歩いても

ドイツ・フュッセン近郊の湖(?) 2005.10.21

なぜならば、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。(コリント人への第二の手紙4:17)

 パウロの生涯の大部分は、重く患難がのしかかっていましたけれども、彼は歌っています。だれもパウロのたたえの歌の中に、悲嘆をみつけることはできません。パウロの讃美の歌には不協和な音はありません。苦難にあっても、パウロは喜んで言っています。「なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして希望は失望に終わることはない。なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。

 聖書は、わたしたちが人生においてぶつかる患難について、いろいろと言っています。一つには、苦難はわたしたちを正しくするものであると教えています。「主は愛する者を訓練し」、すなわち、神はわたしたちの人生の歩みにおいて、わたしたちを鍛錬なさるのです。

 聖書はまた、患難は、キリストに従ってわたしたちが負う十字架のようなものであると言っています。すべての苦難が十字架ではありません。なぜなら、病気や不幸や苦しみは、キリストを信じない者にもわざわいだからです。しかし、わたしたちが負う十字架は、わたしたちの主のために耐えて負うものです。幼な子のような信仰をもってキリスト者が苦難を忍ぶとき、それは、救いの主に従って喜びと希望と忍耐をもって負う十字架となります。

 これらの患難は、多くの場合悲痛です。パウロも「肉体の一つのとげ」と言っているように、彼のからだをさいなむ、痛いものです。このような苦しみは、よくわたしたちを恐れさせます。そしてわたしたちは神が不公平だと思い、しばしばいらだったり、不満になります。わたしたちはこれまでにどれほど神の恵みをいただいたかを忘れ、またこれから先の栄光を見失ってしまうのです。

 患難は悲痛なものですけれども、パウロはこれを「軽い」と言っています。というわけは、この苦しみは今だけのことであり、物的なこの世の中だけのことであるからです。この苦しみや困難は、わたしたちから福音の与える祝福も希望も奪いとることはできません。また天国の栄光も永遠の命の恵みも、わたしから奪うことはできないのです。ですからパウロは「このしばらくの」ということを強く言っているのです。

 確かにこのような苦難が一生続くこともしばしばありますが、永遠の時に比べれば、人の一生は「このしばらくの」時でしかありません。けれども苦しみの時はとても長く思われれます。むすこの事故の詳しい知らせを待つ母親には、数分間が数日のように思われます。しかし、むすこがピクニックなどに行って楽しく過ごしていると、一日などはまたたくままにたってしまうのです。未来に待つ永遠の栄光を待ち望むならば、パウロが言うように、患難も軽く、またしばらくの間のことです。

 ですからわたしたちは、この世から目をあげて永遠を見つめるべきです。まだ見ぬ輝かしい約束にわたしたちは目を向けなくてはなりません。そうすればわたしたちはどんなものにも比較できないほどの永遠のたまものに囲まれていることに気づくでしょう。この世の今ぶつかっている苦労や困難も、永遠の宝と比べればとるにたりないほど軽いものなのです。

 しかし、もしわたしたちが未来に待つ栄光に目を向けるならば、当然神のみことばの中に表わされている神の約束に注意をはらうでしょう。人生のどんな困難にも試練にも耐え、喜んで忍ぶことができるのは、キリストを信じる者たちだけです。なぜならば、わたしたちの主、イエス・キリストに表わされた神の愛を、何者も奪うことができないということを知っているからです。人生のすべての苦しみや悩みにかこまれても、キリスト者は救世主のうちに力と希望とを見いだします。ですからパウロは「わたしに力を与えるイエス・キリストを通してわたしはすべてのことができるのである」と言っているのです。

 わたしは「いさおなきわれを」(讃美歌271番)というあの美しい讃美歌を書いたシャーロット・エリオットがもしも病気でなかったならば、けっしてあの歌を書けなかったであろうと信じています。病人用の車の付いたいすから立ちあがれないからだであっても、心にイエス・キリストをいだくならば、人生は暗やみではないことを学んだのでした。身動きもできない彼女は、こう書いています。

  苦しみと疑いのあらしに、うちとそとの戦いとおそれに、
  わたしはうちたたかれ、おののく。
  おお、神の小羊よ、いさおなきわれは、みもとに行く。

    祈り 

 おお主よ、この世の労苦と試練の戦いに疲れはて、わたしは力を失い、失意にうなだれています。どうぞあわれみ深い主よ、わたしの心をゆるがぬ信仰と大いなる満足と、大きな希望でみたしてください。どうぞわたしに日々あなたがじゅうぶんな力を与えてくださることを信じさせてください。そして神の子らには限りない栄光が与えられている真実を、わたしの心に覚えさせてください。信じる心で、「みこころのままに」と言うことができる者とさせてください。

 天の父よ、わたしは鏡の前に立ってもはっきりと見ることができず、なぜこれらの苦しみがわたしに与えられるのか、理解することができません。けれども、わたしはあなたを信頼し、あなたの約束を疑わず、わたしとわたしの家族にその約束が実現されることを確信いたします。静かな、休養の日をお与えください。わたしの罪をゆるして、わたしの信仰を強めてください。わたしを救うために十字架の苦しみを耐えて負ってくださった、わが主、わが救い主、イエス・キリストによってこれらのことを祈ります。 アーメン


(『いこいのみぎわ』A.ドーフラー著松尾紀子訳65〜70頁より引用。)

2019年8月22日木曜日

ゆるし6(ゆるす者とされ)

いじめられたり わるくちをいわれたときも
ともだちのために かみさまに
おいのりして ゆるしてあげなさい

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。(1ペテロ4:7〜9)

 ゆるすことは愛することとの関係によって、よく説明できよう。「愛を求める人は人のあやまちをゆるす」(箴言17:9)。「少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」(ルカ7:47)「互いにゆるし合え」。これは「わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている」(第一ヨハネ4:7)とのことばに相当する。この「愛する」ということと、「ゆるす」ということとを、ほとんど同じ内容に聖書では使っている。

 更に第一ヨハネ4章のことばを続けよう。「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛(ゆるし)が明らかにされたのである。・・・わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛(ゆるし)がある。愛する者たちよ、神がこのようにわたしたちを愛して下さった(ゆるして下さった)のであるから、わたしたちも互いに愛し合う(ゆるし合う)べきである」(8〜11)。

 私たちは、この最後のことばに注意しなければならぬ。私たちが互いに愛し合うのは、「神がこのようにわたしたちを愛して下さったので」であって、「神がわたしたちを愛しておられるように」ではない。私たちが互いにゆるし合うのも、神がキリストの十字架上の死によって、ゆるされたようにではなく、キリストの死によって、ゆるされたからである。この愛と、このゆるしとは、神からのものであって、人間からのものではない。生まれながらの人間は、この愛も、このゆるしも知らない。人を愛するといっても、自分に利益があり、損をしないときであり、人をゆるすといっても、自分に損がなく、かえって、それによって、人にあがめられ、自分の面子が保たれているかぎりにおいてである。実にただ、キリストの十字架によって啓示したもうた愛とゆるしを、わたしのものとして経験し、これによって新しく生まれかわらされた者だけが、互いに愛しあい、敵をもゆるすことができる。「あなたがたは、実に、そうするように召されたのである。キリストもあなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」(第一ペテロ2:21)

 私たちは山上の垂訓に、そして、日々の祈りの主の祈りに、自分に罪を犯す者をゆるすことを教えられ、そして、そうすることができるようにと、神に助けを求めている。しかし、自分に犯された小さな罪をゆるしたとしても、私たちはその小さなわざを、あたかも自分の偉大な功徳ででもあるように誤信し、人もそう評価しがちである。そのため私たちは、ゆるしてやった人に会うたびごとに、そのことを思い出し、恩にきせがちである。それではまだ、その人の罪をゆるしたことにはならない。神のゆるしは、その罪を全く忘れて、罪のないものとして対してくださるのである。

 私たちも、自分の行なう罪のゆるしの小さなわざが、いつ、どこで、だれに行なったかも、ことさらに自覚しないほどに、キリストのゆるしの中にあって、ごく自然に行なわれるようになりたい。いま、受難節にあたり、十字架のことばを瞑想するとき、わたしたちに、そして、家庭に、社会に、国家間に欠けているのは、この「ゆるし」ではなかろうか。このゆるしの福音に生きず、また宣べ伝えることにも怠慢な罪を、どうか、おゆるしくださいと、祈らざるをえない。

(『受難の黙想』20〜22頁より引用。以上で名尾耕作氏の「ゆるし」の引用は終わる。なお、ほとんどこの文意にもとづいて今週の日曜日多くの方を前に話をさせていただいた。)

2019年8月21日水曜日

ゆるし5(主に託された財産)


あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです。これは私たちが神にそむいたからです。(ダニエル9:9)

 わたしたちはイエスがだれであり、何をなさったのかを知っている。それで、何を私たちはしなければならないのだろうか。

 「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身につけなさい。互いに忍びあい、もし互いに責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい」(コロサイ3:12〜13)

 「主も、このようなはずかしめを受けて、私たちをゆるして下さったのだから、私たちも互いにゆるし合わなければならない」。単にイエスによる罪のゆるしを信ずるだけではなく、互いにゆるし合わなくてはならない。私たちは自分に犯された罪をイエスがなさったように、ゆるすことができるであろうか。それはできそうもない。しかし、それをやりなさいとイエスは命じておられる。ペテロでさえ、イエスに、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」と問うている。イエスはこれに対し、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」と答えて、あの有名な一万タラントの負債ある者が、自分がゆるされたのに、自分に百デナリ負債ある者をゆるさなかった話をされている。

 この話の重点は、主人が負債あるしもべを「あわれに思って」、彼をゆるしたことである。だから、「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」(マタイ18:21〜35)。あわれみがあって、ゆるすことができる。私たちが人をゆるすことができないのは、神のキリストをとおしてのあわれみとゆるしとを私のものとして経験していないからである。私たちが他人の罪をゆるすのは、私がゆるすのではなく、私の罪をゆるしてくださったイエスによって、ゆるしていただくのである。ステパノが祈っているように、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と。

 私たちは、さきの一万タラントの負債をしていたしもべと同じである。私たちは神に対して、自分がどんなことをしても払うことのできない負債をもっていたのであるが、あわれみとゆるしに富みたもう神(ダニエル9:9)は、私たちの負債をゆるしてくださったのである。私たちの財産といえば、このゆるされた負債である。人が私から借りる金は、この財産からである。この財産は自分のものとなっているが、さきに負債がゆるされているからである。この意味で、他人の負債をゆるすことのできるのは、自分の負債がゆるされている者だけである。神のあわれみを、その身に味わった者だけが、ほんとうに人をゆるすことができる。それは自分が獲得した財産によってではない。

(『受難の黙想』18〜19頁より引用)

2019年8月20日火曜日

ゆるし4(過越の小羊イエス)

主よ、感謝します!
わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしなさい。(ルカ22:8) 

「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう」
     (詩篇130:3〜4)

 不義に対する神の刑罰を恐れるのが自然であるが、ここでは、かえって、その不義をゆるしてくださるので、神を「おそれかしこむ」と言っている。刑罰は人を殺し、ゆるしは人を生かす。私たちが神を愛し、神を恐れるのは、義なる神が、その義をキリストの贖罪の死によって私たちに与えられたからである。「父よ、彼らをおゆるしください」。ここに神の厳しい義の成就を見る。ここには、ごまかしとか妥協などはない。この「恐れ」は、律法を完成するための「おそれ」ではなく、私たちが、キリストの罪のゆるしによって、義とされ、聖とされたことに対する「恐れかしこみ」であり、恐怖ではなく、むしろ、神へのおそれ多い感謝そのものである。

 「彼らをおゆるしください」との祈りは、キリストが自分の権利を主張なさるのではなく、かえって、ご自分の権威と位を放棄されるのである。神の子であり、救い主であるかたが、人間の罪をご自分の罪として負い、罪びとのひとりに数えられるのである。罪のゆるしは体面をつくろう律法の世界にのみ生きている者にはとうてい理解できない。ゆるしは自分の「面子」(めんつ)をつぶすことであるから。

 「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、
 威厳もなく、
 われわれの慕うべき美しさもない」
                (イザヤ53:2)

 実に、他人の罪をゆるすその姿は、その人の面子も、まるつぶれであり、威厳もない者のようにならなくてはならない。イエスを十字架につけて、この祈りを聞いた者たちですら、「彼は他人を救った。もし、彼が神の子キリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」、「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」と叫んでいる。人の罪をゆるすため、侮辱され、つばきされ、打たれ、傷つけられて、十字架につけられているこのみすぼらしい姿のイエスを見て、彼らはイエスがだれであるのか、イエスが何をなさっているのか、わからずにいたのである。

 このことは、イエスの方から言えば、「彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」であり、また、ある写本にあるように、「彼らは何であるかを知らないのです」と言うことができる。イエスとわたしたちとの関係がはっきりするとき、わたしたちの存在も明らかとなる。いまここでは、「彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」とのことばについて考えたい。

 彼らがイエスを十字架につけたその時は、ちょうど、過越の祭の始まる日であった。この日の夕刻、つまり日没から、ユダヤ人の三大祭の一つである過越の祭が始まる。過越の祭りを守る目的は、当時から約千三百年前、彼らの先祖たちがエジプトで奴隷であったとき、神はモーセをとおして彼らをエジプトから救い出し、約束の国カナンに導かれるに際し、ユダヤ人とエジプト人に対して、十の災害の奇跡を与えられた。この過越の祭りの起源の一つとユダヤ人によって伝えられている災害の奇跡は、その最後のものであった。

 それは、一歳の雄の小羊で傷のないものを選び、ニサンの月の十四日の夕刻、これをほふり、その血を家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗ったのである。それは、モーセをとおして命ぜられた神のみことばどおりにすることであった。そのとおりにした家だけは、人とけものとのういごが打ち殺されるという災害からまぬかれた。すなわち、災害が過ぎ越したのである。それで過越の祭りを守る一つの目的は、小羊の血によって災害が、まぬかれたということを記念することであり、もう一つの目的は、その小羊の肉はもちろん、その頭も足も内臓も火に焼いて、家族の者たちが食べてしまうことにより、神と一つになることを記念するためであった。過越の祭りとパン種を入れないパンを食する除酵祭とが一つにして守られるようになったが、私たちは今ここでは、過越の祭りがこの傷のない小羊の血による救いを記念することにあったという点に注意したい。

 彼らユダヤ人は、今日でも、モーセをとおして与えられた神の命令を忘れてはいない。「あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。あなたがたは主が約束されたように、あなたがたに賜わる地に至るとき、この儀式を守らなければならない。もし、あなたの子供が『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」(出エジプト12:24〜27)。

 彼らユダヤ人は、この日、この過越の祭りを守るために、彼らの罪のきよめのための罪祭としての過越の小羊、すなわち、神との和解(神と一つになる酬恩祭)の犠牲としての小羊を殺さねばならなかった。それが、今、彼らがイエスを十字架につけた同じ日であり、同じ時刻であったということは何という皮肉であろう。

 「彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。実に彼らは、先祖代々、過越の傷のない小羊を殺し、その血によるあがないを信じてきたのであったが、それが、今、彼らが十字架につけている罪のないイエスの血によるあがないの予表であったことに気がつかなかったのである。後でパウロは「わたしたちの過越の小羊であるキリスト」(第一コリント5:7)と言っているが、イエスを今、十字架につけているユダヤ人たちは、イエスを罪のあがないのための汚れなき小羊としてみることなく、かえってイエスを、神を冒瀆したにくむべき大罪人として処刑していたのである。

(『受難の黙想』13〜17頁より引用)

2019年8月19日月曜日

ゆるし3(律法の成就)

おとうさんは おとうとを しっかりと だきしめました

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)

 このように罪のゆるしは、罪の負債を帳消しにするだけではなく、その負債を補って、負債のないものとすることである。百万円の借金をしている者が、それを返済することができないとき、その借金を帳消しにすれば、その人は借金はなくとも、まだ百万円は事実上、たりないのである。だから、この百万円を補ってやれば、その人は完全に満ちたりて生きて行ける。つまり、その負債に対して、二倍のものを与える。これが罪の負債のゆるしである。

 終末的預言と私は解釈するイザヤ40:2に、これがはっきり述べられている。
 
   「ねんごろにエルサレムに語り
    これに呼ばわれ、
    その労苦は終わり
    そのとがはすでにゆるされ、
    そのもろもろ罪に対して
    二倍のものを、
    主の手から受けた」

 この二倍のものは、「二倍の刑罰」ではない。原典に、「刑罰」ということばはない。それで、かえって、「恵み」と解釈できる。罪のゆるしの恵みである。これは同じくイザヤ61:7の、

   「あなたがたは、さきに受けた恥にかえて、
    二倍の賜物を受け、
    はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ」と同じである。

 旧約聖書の中で最も感動的な事件は、ヨセフが自分を売った兄弟たちをゆるす物語である。ヨセフが父ヤコブの年老いての子であり、ヤコブの愛妻ラケルの子であったので、彼は特に父に愛せられていた。そのため、彼の腹ちがいの兄弟たちは彼を憎み、彼をなき者にしようとして、彼をエジプトに奴隷として売った。彼はある時は投獄されたが、神のまもりによってエジプトの首相の地位につくようになった。後にエジプトをはじめ近隣諸国に、ききんがあったとき、カナンの地にいた自分の兄弟たちは、ヨセフが首相にまで出世しているとはつゆ知らず、彼に穀物を売ってくれるように頼みに来る。ヨセフの方では、彼らが、自分の兄弟であることに気づき、彼らが自分の兄弟に対して、どのような変化をきたしているかを、ためしてのち、彼らに自分自身の身をあかしした。兄弟たちは驚き、そして彼を売った罪のゆえに罰せられることを恐れた。しかし、ヨセフは彼らの罪をゆるし、「わたしをここに売ったのを嘆くことも、悔やむこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです」(創世記45:5)と言って、彼らを責むることもせず、かえって、彼ら兄弟と父ヤコブをエジプトに迎えるために多くの贈り物をなし、彼らにエジプトでも最良の土地を与え、彼らを優遇したのである。

 あの放蕩息子の場合もそうである(ルカ15:11〜32)。父は彼が帰って来たとき、責むることもなく、かえって、父の方から遠くはなれている彼のところに走り寄り、その首をだいて接吻した。それどころか、彼のために最上の着物を出して着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせ、肥えた子牛をほふって祝宴をはった。これが罪のゆるしである。兄弟たちの罪を忘れてしまうだけではない。放蕩息子の浪費を、帳消しにするだけではない。彼らの罪に対する二倍も三倍も、いや、それ以上の恵みをもって彼らをいやし、生かしてやることである。

 この事は、律法を破り、律法を廃棄するかのように思われる。目には目、歯には歯というのが律法のおきてである。または、矯正のためと、みせしめのために、罪に対する相当な刑罰が定められている。罪のゆるしは、これが実は福音の中心であるが、この福音は律法を無視するかのように見える。しかし、そうではなく、かえって、律法の完成である。律法は罪でもなく、律法そのものは聖なるものであって、正しく、かつ善なるものである(ローマ7:7〜12)。罪のゆるしは、その罪に対する刑罰の律法を無視することではなく、また、大目に見て見のがしてやるというのでもない。キリストによる罪のゆるしは、その刑罰をキリストが受けられたことによってゆるされるのであって、キリストが律法を完成してくださったことによる。私たちは罪のゆるしの福音の恵みに、あまえてはならない。「律法のもとにではなく、恵みのもとにあるからといって、わたしたちは、罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない」(ローマ6:15)。

 父なる神は、わたしたちの小さな罪も見のがしになるおかたではない。これに対する刑罰は、ご自分がお与えになった律法に従って、これを行使される。しかし、今や、それをキリスト・イエスをとおして遂行されているのである。

(『受難の黙想』9〜13頁より引用)

2019年8月18日日曜日

ゆるし2(罪なき者と認められる)


主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。(ローマ4:25)

 次に、イエスが父なる神に、「彼らをおゆるしください」と祈っておられることは、イエスに罪をゆるす権威がなかったからであろうか。先述の「人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」(マタイ9:6、マルコ2:10、ルカ5:24)とのイエスのことばは、単なる誇示ででもあったのであろうか。「もし人が人に対して罪を犯すならば、神が仲裁される。しかし、人が主に対して罪を犯すならば、だれが、そのとりなしをすることができようか」(サムエル上2:25)。人に対する実罪も神に対する原罪も、これをゆるすことのできるのは、神だけであると言う律法学者の主張は正しい。人が人に対して犯す罪も、それは神に対してであるからである(ルカ15:18、21)

 それで神は世の初めから、神に代わり、神の権威をもって罪をゆるしてくださるかたの像を、預言者たちのことばをとおし、または礼拝の祭儀において、すなわち、犠牲の小羊をとおして、旧約聖書にその予表をしておられる(ヘブル1:1〜2)。この預言と犠牲による象徴は、神が人となった罪なきイエスの十字架上の死と復活という仲介のわざをとおしてのみ、罪のゆるしが完成するということである。この預言と犠牲の意義を信じていた洗礼者ヨハネは、イエスを迎えて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ
1:29)と、イエスに対する信仰を告白した。のちに石に打たれて殉教の死をとげたステパノも、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください」と、主イエスにとりなしの祈りをささげながら、父なる神のみもとに召された(使徒7:60)。ふたりとも主イエスに罪のゆるしの権威があることをみとめているが、これがただ一つの、神が人の罪をゆるしてくださる道である。神の側からおりてきて、人の罪をゆるしてくださったのである。

 「まことに彼はわれわれの病を負い、
  われわれの悲しみをになった。
  彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
  われわれの不義のために砕かれた。
  彼はみずから、こらしめをうけて、
  われわれに平安を与え、
  その打たれた傷によって、
  われわれはいやされたのである。
  彼が自分を、とがの供え物となすとき、
  その子孫を見ることができ、
  その命をながくすることができる。
  彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
  義なるわがしもべはその知識によって、
  多くの人を義とし、
  また彼らの不義を負う。
  しかも、彼は多くの人の罪を負い、
  とがある者のためにとりなしをした」
         (イザヤ53:4〜12)

 実に、この預言の完成のための祈りが、「父よ、彼らをおゆるしください」の、ひとことにあらわれている。イエスは口先だけでこの祈りをされたのではない。責任をとって、ご自身が十字架にかかり、その苦しみの真っ最中に祈られたのである。人間の罪のゆるしのためのいっさいの責任と損失と犠牲とを、罪のないご自分が受けて、父なる神のみ前において、人間が罪なき者として認めていただくためである。罪のゆるしは、こうして初めて可能なのである。イザヤの預言のとおり、イエスは人間の病を、ご自分の病として負い、悲しみも不義も、これをご自分のものとして受け、ご自分はそのためにこらしめを受けて砕かれ、ご自分を愆祭(けんさい)の犠牲の小羊とされて死なれた。その傷によって彼らも、私たちもいやされ、平安が与えられ、神のみ前に義なる者とされているのである。これが罪のゆるしであって、これが復活において証明されている。

(『受難の黙想』6〜9頁より引用)

2019年8月17日土曜日

ゆるし1(神の子とせられる)


「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)

 これはイエスの十字架上の七ことばの、最初のとりなしの祈りである。ここにイエスがこの世に来られた目的と、聖書全体が告げ知らせる罪のゆるしの福音が語られている。また、このことばのゆえに、イエスが十字架につけられたのである。

 イエスが安息日に、三十八年のあいだ病気で歩けなかった者をいやされたとき、ユダヤ人のある者たちは、イエスが安息日のおきてを破られたと非難した。そこでイエスは、「わたしの父は、今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(ヨハネ5:1〜18)と答えられた。すると、ユダヤ人たちは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたとして、イエスを殺そうと計った。この同じことば「父よ」との呼びかけを、今ここでも最初に神に対して呼びかけておられる。

 また、イエスが中風の者をいやされたとき、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。すると律法学者たちは、「神を汚すことを言うこの人は、いったい、何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と言って、また、イエスを非難した(マルコ2:7、ルカ5:21)。こうして、イエスを十字架につけた理由は、イエスが罪のゆるしの権威を持っておられたがゆえにであった(マタイ9:6、マルコ2:10、ルカ5:24)。これはユダヤ人にとっては、神を汚す冒瀆罪として死に値した。この同じことばを、今また十字架上で言っておられる。「彼らをおゆるしください」。

 ご自分が非難され、処刑される理由のことばを、受肉のイエスの最後のことばの最初に言っておられるのは、イエスがこのために来られたからである。神を父と呼ぶことのできないほど、全く神と絶縁の状態にある罪びとを、神を父と呼ぶことのできる神の子らとするために(ガラテヤ4:4〜7)、今、イエスは十字架上で、「父よ、彼らをおゆるしください」と祈りつつ、ご自分が罪びとの罪を負い、罪びととして処刑されておられるのである。

 神を父と呼ぶことが、なぜ、神を冒瀆することであろうか。それは神と人間とが、通俗的な表現をとれば、血縁関係にあることを言っているからである。しかし、神は神であって、人ではない。人間にとっては絶対他者である。創造者と被創造物とのあいだには、血縁関係は全くない。だからイエスを単なる一個の人間とみるユダヤ人にとっては、イエスが神を父と呼ばれることによって、ご自分が神の子であることを示されたのであるから、神を冒瀆するものとして、非難したのである。

 旧約聖書の中で、神を父と呼んでいる個所がいくつかある(申命記32:6、イザヤ63:16、マラキ2:10など)。これらはイスラエルの民に対して、父性愛とでもいう関係で述べられたのであり、またヤハウエを自分たちの神とするイスラエルの民を神の子として述べている個所(ホセア1:10、詩篇29:1、創世記6:2など)も、そういう意味で用いられており、個人的に神を自分の父として呼んでいる個所はない。しかし、メシヤ的預言と言われているサムエル下7:14、歴代上22:10では、メシヤと神との関係が、「彼はわが子となり、わたしは彼の父となる」と預言され、イエスと神との関係が明記されている。ユダヤ人が攻撃するのは、また、この点であって、イエスが神を父と呼ばれることによって、ご自分が、あのメシヤであり、まことの神の子であることを言っておられるからである。

 旧約聖書に預言され、約束されておられたメシヤとして、この世に来られたイエスが、その目的を完成されるとき、神に対して「父よ」とお呼びになることは最も適切であり、これ以外に、神を呼ばれることばは、ほかにない。あの放蕩息子が言ったように、「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません」(ルカ15:21)という状態にある人間を、神の子と呼ばれるようにし、その神を父と呼ぶ関係に入らしめるために、いま、十字架にかかっておられるのである。そのとき、神をお呼びになるのに、いったい、どのような呼びかたがあるであろうか。わたしたちが神を父と呼ぶことのできるのは、このイエスのとりなしの祈りによるものであり、この祈りが実現するために、イエスは十字架にかかっておられるのである。わたしたちは、このイエスの贖罪の死、それによる、神とのとりなしをぬきにしては、神を父と呼ぶことはできない。また、絶対他者である神との関係にはいることも、神を知ることもできない。

(『受難の黙想(十字架上のことば)』聖文舎1963年刊行。7人の方が書かれている。今日から6回にわたって引用するものはその中のお一人名尾耕作さんの文章である。名尾さんはかつて何度もこのブログで紹介してきた『聖霊を信ず』ヴィスロフ著の訳者でもあられる。)

2019年8月9日金曜日

神の家を支える二つの支柱

Calendar by Keiko Murakami

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。(ローマ4:5)

 今日最もひどく攻撃されているキリスト教会での二つの支柱は、生まれながらの人間の罪に関するキリスト教の教理と、キリストにある、功なくして得られる神の恵みの教理とであります。この支柱のいずれかが破損されても、神の教会は崩壊するでしょう。その一つだけでは、神の家を支えることはできません。人間の堕落を認めずしては、神の恵みは無意味であります。また神の恵みなしには、生まれながらの人間は絶望的に失われます。しかし人間の堕落が十分に認められるところで、恵みだけが救うことができます。もし人間が全く無力であれば、そのとき彼の全き救いは、ただ恵みによるのみです。

 恵みは他に助け手を必要としません。恵みのみであるか、恵みが無いか、いずれかです。キリスト者の真理は、信仰のみによる義認の教理によって立つか、倒れるかであります。「キリスト者の心から、罪のゆるしをとりだせば、諸君は、キリスト教信仰から心をとったことになる」(H・G・ストゥブ)

 ルターは「ここに、重要な信仰箇条と、福音の基礎がある」と言い、スクリーヴァーは「神の前における罪びとの義認の教理は、キリスト教の主要信仰箇条である。この教理は、まことの天の太陽でもある。これなくしては、すべては暗黒である」。

(中略)

 義とされるとは、いかなる意味でしょうか。
 ポントッピダンは、次のように答えています。「義認(義とされる)とは、次のことから成立している。すなわち神は、恵みによって、キリストの義を、悔い改めた者または信仰ある罪びとに帰すること、そして神は、彼の罪とその刑罰とを彼から免除し、キリストにあって、彼をあたかも彼が罪を犯さなかったかのようにみなしたもうこと」。

 義認とは、実際は、法律上の概念であります。これは、裁判の判決の意味からなっています。天のみ国において、神は罪びとを名ざして呼ばれ、彼を義であると、宣告されるのです。罪びとの側には、何もなされていないのです。このことは、生まれかわりにおこるのです。義認は、罪びとが自由であるとの、恵み深い宣言であります。
 
 だれがわたしを罪に定めようとするのか
 イエスの血に浸っているものを
 国々を治めたもう神は
 判決をくだす裁判官だ
 このもの、彼は自由になった
 イエスの血に清められたと
 青ざめたサタンよ、罪よ、死よ
 だれがわたしを罪に定めようとするのか(ブロールソン)

(中略)

 「罪は地獄である。罪のゆるしは天である」(スクリーヴァー)「諸君の価値は、諸君に助力を与えない。諸君の無価値は、諸君を害さない。水の一滴が、大洋と比較されるがごとく、わたしの罪が、キリストにある神の測り知られざる恵みと比較される」(アーント)

 「ゆるすことは、免除することと異なっている。神は罪を免除されない、神はそれをゆるしたもう。ゆるしは、純粋な恵みを含んでいる」(ロセニウス)。「恵みと平安は、キリスト教のすべてを含んでいる。恵みは罪をゆるし、平安は良心に憩いを与える。罪のゆるしなくして、良心の平安はない。しかし罪は、恵みによってゆるされ、取り去られる」(ルター)。
 
 こうして、今やすべての疲れた罪びとは、その目をあげ、キリストを見ることができます。だれも、汚れの中にあって、洗っても清くなることはできません。だれも、自分の病気のまわりをかけめぐっても、丈夫にはなりません。だれも、自分自身を見つめても、救われません。しかしキリストの内に、いやしと救いと祝福とが、信仰によって、彼を見るすべての人のためにあります。信仰によって見ることにより、人は自分に起こりうる最大の奇跡を経験します。信仰によって見ることは、すべてのことにまさって、些細で、取るに足りないように思われましょうが、しかしそれは、ラザロを、その墓から呼び出すことよりも、大きい力ある奇跡を成就するのです。

 あなたが、この世の旅路を終わって後、救いを得ようとして、自分のすべての罪のために、後悔の苦行の道を続ける必要はありません。神の子キリストが、あなたに代わって、苦難の道を歩かれたのです。あなたは、自分の罪を自分であがなうことはできません。あなたの罪のための贖罪は、すでになされているのです。あなたのなすべきことは、ただ、「ありがとうございます」ということだけです。そうしたならば、すべてのものは、あなたのものです。

(『聖霊を信ず』55〜59頁抜粋引用。長らく連載したこのヴィスロフの文章も一先ず今日で終わりにする。この一連の文章は彼の同書の第3章「聖霊と世界」の中の2、「聖霊が罪人をキリストに追いやるとき」からの引用であった。それにしても結局、神の家を支える二つの支柱とは何なのか、つねに覚えたいことでなかろうか。なお、今日のカレンダーは愛する方の労作である。記して感謝申し上げる。)

2019年8月8日木曜日

信仰とは生まれたての嬰児のようなもの

センスある暑中見舞い状
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。(ヨハネ3:6〜7)

 罪の非行についての深い悲しみを、ほんとうに知っている人は、古い生活を身につけたまま、神の国にもぐり込もうとはしません。罪に対する正しい悲しみは恵みを正しく自分のものにする、確かな保証であります。心の内のこの同じ悲しみが、魂からすべての悪だくみを追い出します。もし、悲しみがはいってくれば、悪だくみは出て行かねばなりません。

 福音は学びとられるものではありません。魂がそのみじめさに苦悶し、途方に暮れてしまうとき、すべての暗記していた教訓が、ただの文字と言語になります。今まで読んでいた聖書の章句も、ただ音のみの空虚なことばとなります。しかし、聖霊が光を照らし始め、魂がその光に従順に従うとき、その時になって、初めて、今まで見たことのないものを、不思議にも感じ始めるのです。彼が子供の頃からもっていた知識が、生々と、力強く彼に語りかけます。彼の耳にひびく聖書の章句は、福音の光栄のおとずれとなります。すべてがキリスト中心になります。聖霊は、おおいをとり除き、彼にキリストを示します。

 かなしみの涙で、充血したまなこに、よろこびの涙が輝き、深刻な苦悶が解放されて、歓喜となり、心の「わざわい」が、天の「祝福」に代わり、罪の宣告は、放免されて無効となり、シナイ山がゴルゴタの丘に席を譲らなければならない。このような場合、だれがこのことが、あわれな罪びとに意味を持つかを、十分に描写しうるでありましょうか。この世では、この福音にくらぶべきものは何もありません。何ものも、すべてが、人間的なものと相反するものは他にありません。何ものも、かくも不合理で、理解しえないものは他にありません。何ものも、このように全く神聖にして、光栄あるものは他にありません。

 何ものも、天において、神のひとり子より、価値あるものは他にありません。何ものも、聖金曜日より、この世を恐ろしき恐怖でみたしたものは他にありません。何ものも、その君が致命的打撃をうけたことより、ひどく地獄を震い動かしたものは他にありません。しかしまた、何ものもこのような喜びで、天をみたしたものは他にありません。福音の力が、ひとりの罪びとをかち得るたびごとに、天使の立琴は、讃美の歌をかなでたのであります。

「義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行くからである」。

 義の基礎となるものは、キリストが救いを完成して後、そして罪と、死と、悪魔に完全に勝利を得られて後、彼の父のもとに行かれるということであります。今や彼は、父のみ前にあって、わたしたちの罪のための、彼の犠牲を、有効なものとなしておられるのです。聖霊が罪びとに示すものは、このキリストにある完全な救いであります。罪びとは、これが、自分のためになされていることを知るのであります。「わたしのために、彼の愛の心は裂けた。これは全く、わたしのためであることを思え」。

 しかし信仰とは何でしょうか。信仰は、わたしの救いに必要であります。しかし信仰は、どこから来るのでしょうか。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」(ヘブル11:6)。ここでもまた、救いが徹頭徹尾、神のわざであることを知るのであります。魂がこれを明瞭に理解しなかったときに、聖霊は信仰を賜物として与えられたのです。「人生における最大の芸術は、キリストを信ずることである。その芸術は、ただ聖霊の学校でのみ学ばれる」(スクリーヴァー)。

 フィリップ・メランヒトン※は、そのアウグスブルク信仰告白弁証論の中で「義とする信仰は、単に歴史的知識ではなく、罪のゆるしと恵みによる義についての、神の約束を信ずる信仰である」といっています。

 知識の信仰を、救いの信仰にするものは、魂の苦悩であります。苦悩する魂の痛みを通して、信仰は、聖霊によって生まれるのです。しかし魂は普通、あまりにも、その苦痛に占領されてしまって、何が生まれつつあるかを知らないものです。しかしながら信仰が生まれているのです。「信仰とは、生まれたての嬰児のようなものだ。それは裸で、着物を着ずに、その救助者、救い主の前に立つ。そして彼からすべてのもの、義と、あわれみと、聖霊を受ける」(アーント)

(『聖霊を信ず』52〜54頁引用。※ルターの協力者、ただいろんな見方ができる人物のようだ。さて、昨日の某氏の結婚の発表、嬰児の誕生の予告、いずれもおめでたいことだが、私たちは手放しで拍手喝采するわけにはいかない。今日の文章の冒頭部分に注意いただきたい。「罪の非行についての深い悲しみを、ほんとうに知っている人は、古い生活を身につけたまま、神の国にもぐり込もうとはしません。」と言っています。一方、「報道ステーション」は大々的にトップニュースで報道しましたが、今朝の東京新聞では26面、14面扱いです。このくらいが妥当ではないでしょうか。「劇場民主主義」に飲み込まれないようにしたいものです。)

2019年8月7日水曜日

聖霊が罪びとをキリストに追いやるとき

夏盛り 夾竹桃 涼しげに 白さも白し 毒性ありて  

義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。(ヨハネ16:10)

 救いは、徹頭徹尾神のわざであります。生まれながらの人間の、凍った畑の中の、氷の最初の一辺がとけるのは、神の恵みの太陽のわざであります。春のしっけた土地からのぞく、最初の植物は、神の恵みの暖かさと、光によって生み出されたのです。最初の漠然とした、不明瞭な、不確かな、神への切望は、人間の内での、神の霊の働きであります。心の不安、罪の重荷、神なき生活における疲れ、これはすべて、神の霊の活動の成果であります。慰め主「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。(口語訳:世の人の目を開くであろう)」(ヨハネ16:8)

 聖霊の任務とその恵み深き目的は、キリストを人間の生活の中に、もたらすことであります。しかしこのことは、人が自分の心の極度の罪と堕落とを見るまで、できないことです。この理由で、聖霊は義を示す前に罪をあらわにします。人が神の恵みを必要と感じない前に、キリストの恵みを説教することは、石に香油をそそいでいるようなものです。人はキリストの栄光を見ることができる前に、自分自身の魂の醜悪を見なければなりません。まず彼は、傷つけ、それからこれを癒したまいます。まず彼は、殺し、そしてこれを生かしたもうのです(申命記32:39)。まず彼は、罪をあらわにし、それから義をあらわしてくださいます。まず罪びと、それからキリスト。

(中略)

 聖霊は、ただ罪を示すばかりでなく、もちろんこれをなすが、または、ただに罪がなんであるかを、私たちに証明するばかりでなく、もちろんこれもなすが、聖霊は罪の判決を下すのであります。有罪の宣告をうけた人は、もう弁論の必要はなく、弁解も言いのがれもありません。また自分の罪のために口実をもうけたり、弁解をこころみる魂は自分の罪を悟っていないのです。自分の罪を認めた罪びとは、神が正しいことを認めます。彼の口がふさがれ、彼が「神のさばきに服している」ということは、彼について正しく言っていることです(ローマ3:19)。特に罪びとの口をふさぐものは、彼が、すべての罪のうちに罪の本質を見ることであります。「罪とは、彼らが、わたしを信じないことである」。

 否定することは罪であります。恐ろしい罪であります。しかし信じないことも、また罪であります。まことにこれが全人類の根本的罪であります。すべての一般的罪は、不信にその根をもっています。不信は、すべての罪の母であります。ルターは、不信を「最も悪い精神的悪徳」と呼んでいます。彼のローマ人への手紙の序言に「不信は、すべての罪の根であり樹液であり、主力である」と言っています。神なき生活は、あなたの生活の根本的重大な罪であります。人がさばきに服しているということは、特にこの罪のゆえであります。また聖霊の光によって覚醒された魂が見るようになるのは、この罪であります。

 この聖霊の働きは、決して楽しいものではありません。なぜなら、これは罪びとを最もひどい苦悩、罪に対する苦悩、に導くことを意味するからであります。罪びとが、魂の苦悩のうちから「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」(イザヤ6:5)と叫ぶほど深刻なうめきは、この地上におこりません。しかしながら、この悲痛な叫びは、天使を動かし、神のみこころそのものを動かし、限りなき喜びが与えられるのであります。(ルカ15章)。

 聖霊のこの痛ましい働きは、終着点ではありません。それは手段にすぎません。今や聖霊は、もしその働きを続けることがゆるされるならば、その魂のなかで、彼の働きを続けます。「義についてと言ったのはわたしが父のみもとに行き・・・」(ヨハネ16:10)。このことは、祝福された神の霊でさえ、なすことを許されなかった、最も祝福されたわざであります。今や聖霊が、罪びとにキリストを啓示するのであります。なんとこの二つのことが、密接に、聖書に示されていることでしょう。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」「あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。イザヤはこのように経験したのです。

 あるいは、パウロも同様であります。「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない」(ローマ7:24と8:1)福音の祝福は、苦難の苦痛を通してのみ、知ることができます。この死のからだに対する苦闘に苦悶する者のみが、キリストにあって、自由にされるとの意味を、正しく知ることができます。「神にある喜びは、悲しみのうちに生まれる。神聖な悲しみは、神聖なる喜びの先駆者である」(スクリーヴァー)

(『聖霊を信ず』ヴィスロフ著名尾耕作訳49〜52頁より、抜粋引用。昨日ハレスビー、ヴィスロフと同じノルウエー人の作家イプセンの戯曲『野鴨』を読む機会を得た。ヴィスロフが、今日引用した文章の少し前のところで『野鴨』に触れているところがあったからだ。イプセンは「『理想』っていう気取った言葉は、使わんことにしましょうや、『嘘』っていう便利な言葉があるんでね、ーーそれで充分。」(岩波文庫版原千代海訳193頁)と劇中の人物に語らせているが、それを巧みに用いて、「人間の自然的善を信ずる宗教的理想主義は、人間を虚偽に導きます」と警告し、今日の引用文に至っている。ノルウエーの人々の人間観の深さに福音が及ぼしている影響、イプセンにもそれがあったのではないかと秘かに推量した。それはともかく、読者の中でまだこの戯曲を手にしておられない方がおられ、興味関心を示される方がおられるなら、是非一読をお勧めしたい。)

2019年8月6日火曜日

私たちに必要な墓守とは?

滔々と 渇きを満たし 流れ行く 古利根川べり 主の血の愛
(手前が下流です)
血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(ヘブル9:22)

 人々が、神の怒りを理解していないと、身代わりとしてのキリストを必要としなくなります。キリストの血なくして、勇敢にも聖所にはいろうとします。この点、キリストの代償的わざを無益にしようとして、強い力が働きかけたことは不思議ではありません。神の教会は、キリストのあがないの死の、この真理の上に、その救いを建てているのです。ゴルゴタは、教会の聖壇であります。ここに不純なものが見られるならば、神の全聖所は、けがされるでありましょう。十字架はキリスト教の逆説であります。キリスト教信仰の、つまずく石です。この理由で、多くの人々は、キリスト教をもっと魅力的にし、現代に適したものにするために、十字架を取り除こうとします。

 しかし、わたしたちは、キリストのあがないの死についての、啓示された神の真理に関しては、毛頭も、これを譲歩しようとは決していたしません。神の教会は、これなくしては生きていけません。これ以外のところに、わたしたちの救いの望みを建てようとも思いません。わたしたちは「イエスの血によってのみ」、勇敢に聖所にはいるのであります。ゴルゴタが陳列場になるには、あまりに恐ろしすぎます。キリストの死の成果を、ただの展覧にするにはあまりにも栄光に輝きすぎます。

 罪に関する項目で、人間性の堕落と、その全き無力を見てきましたが、今やその考えに戻らなければなりません。人間はそれ自身、善であると信ずることは、聖書の教えと全く相反することをみてきました。「人間のうちにある神」の教理は、邪教であり、罪と人間性の全堕落に関するキリスト教の教理と、相反します。

 しかし、人間性の中の「神の像の痕跡」について考える場合、わたしたちは、聖書がゆるす以上に、また生まれかわっていない人間に実際に見られる以上に、この表現に立ち入らないよう、十分警戒しなければなりません。

 罪への堕落によって、人類は全く滅びたのであります。生まれながらの人間の中には、神をよろこばす、いかなる性質もないのです。堕落ののち、人間に残ったものは、神がおられるはずであったところの、せいぜい空虚くらいなものであります。生まれながらの人間が、どんな神を渇望するかについて、多くのことが言われていますが、それは、盲目のうちに、神に帰る道を見いだそうとしているのです。聖書は「神を求める人はいない」(ローマ3:11)と言っています。神を、全く真実に求めることは、神の霊の働きの成果であります。
   (中略)
 したがって「神の像の痕跡」は、否定を意味します。つまり、神がそこにいないということです。「人間の敬虔さは、彼が神を必要とすることにある」(ブルンナー)。現実に、これと同じ思想をアウグスティヌスの有名なことばの中に見いだします。「人は神のために創造されている。それで、彼が神のうちに憩うまでは、憩いがない」。「生まれながらの人は、神の霊の賜物を受け入れない。それは彼には愚かなものだからである。また聖霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」(第一コリント2:14)。「肉にある者は神を喜ばせることができません」(ローマ8:8)。

 義人はいない。ひとりもいない。
 悟りのある人はいない。
 神を求める人はいない。
 すべての人が迷い出て、
 みな、ともに無益な者となった。
 善を行なう人はいない。
 ひとりもいない。(ローマ3:10〜12)

 このことばを読めば、この世界は、善人のいないからっぽになります。「いな、ひとりもいない」とくり返されていることばは、人間の善性に対する古くからの信仰を、埋葬している墓守のようであります。

(『聖霊を信ず』45〜48頁より抜粋引用。家の前の看板聖句に「あなたは、赦しの神。われらの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。われらの神、主は聖である。」詩篇99:8〜9と書いた。数日前、通りがかりの人が、私の姿を認めながらも、柏手を打つようにしてその看板聖句のことばに敬意を表した。その方に一冊の小冊子「主は生きておられる」51号をお渡しした。願わくば、ともに、善性を葬り去って手を取り合って流された血潮を感謝する間柄、兄弟とならせていただきたいものだ。) 

2019年8月5日月曜日

Nobody Knows De Trouble I've Seen


彼によって神の怒りから救われる(ローマ5:9)

 わたしはかつて、黒人の婦人が、十字架についての歌をうたうのを聞いたことがあります。「彼らは彼を十字架につけたり、されど彼もだして物いいたまわず」深い単調なアルトで、彼女はこの句を繰り返し繰り返し歌いました。このことばと曲は、聖金曜日の劇・その苦しみと恐怖とを、わたしたちの眼前に描くかのようでありました。これを聞いたものは、みな、十字架のもとにおかれたようでありました。

 彼女が歌い終わると、嵐のような拍手が起こりました。熱狂した聴衆は、荒々しく拍手をしました。それは芸術でありました。すばらしい芸術でした。わたしは前にかがみ、わたしの手をできるだけ耳に強くあてて、ふさいでしまいました。これらすべての拍手は、わたしにとっては、神を冒瀆する嘲笑としか思えませんでした。しかしわたしは、自分の心に奥深く「主よ、なんじの苦しみに感謝したてまつる」と言わざるをえませんでした。

 十字架のことばは、単に人を楽しませるために語られたり、歌われてはなりません。これはあまりにも聖であり、おそるべきものであるので、人を楽しませ、人の人気を得るために用いられてはなりません。十字架がキリストに対して何であったかを、わたしたちは全力を尽くしても述べることはできませんし、またそれだけ理解もできません。しかし聖書の次の句は、この一端を知らしてくれます。

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」(第2コリント5:21)キリストはただに人間とされたばかりでなく、また罪びととなされ、罪であるとさえなされたのであります。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなった」(ガラテヤ3:13)。

 キリストはみずからを、罪深い人類のひとりと等しくせられました。人間が自分たちの罪によって積み上げたすべてののろいを、彼はそれをご自分のものとされ、その結果を味わわなければならなかったのです。彼はみずからの罪と等しくされました。まことに彼は、すべての罪の人格化そのものになられたのです。

 それゆえ、すべての神の怒りは、キリストの十字架にそそがれたのであります。彼は、わたしたちの身代わりとして死にたもうたのです。彼は、わたしたちの罪の結果として、当然受くべきすべての苦難をあますところなく苦しまれたのであります。十字架上の最も深刻な苦悩は「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)のことばに表現されています。

 ああ世界はここにかかっている
 彼の愛のみ手は差し出されている
 なんじの救い主は、十字架上に
 いのちの君は望んでおられる
 苦しみ、侮辱、喪失にたえ
 すべての義が成就することを(パウル・ゲルハルト)

 キリストの十字架から、「完了した(口語訳:すべてが終わった)」(ヨハネ19:30)との大勝利の勝鬨が、絶えず叫ばれています。

 憎しみが、十字架で、一時は、勝利を得たかのごとく公然と示されたが、しかし、まさしく同じ場所でそれは敗北しました。愛は降参することによって、勝利を得ます。自己犠牲においては、愛は征服できないものです※。憎しみが、勝利を得るように見えれば見えるほど、それだけその敗北は確かであります。それゆえ、十字架の成果は、完成された救い、贖罪の神、開けられたる天であります。「人の子が来たのが・・・多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである」(マタイ20:28)多くの著名な人々は、なぜ自分たちがきたのであるか、また自分たちの計画を大言壮語しますが、だれも自分は〈死ぬ〉ためにきたと言ったものはありません。

 「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです」(第二コリント5:14)。キリストの死は、すべての時代、すべての国民に有効なものであります。「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9:12)、「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです」(ヘブル10:14)。

(『聖霊を信ず』40〜42頁より引用。文中の※「自己犠牲においては、愛は征服できないものです」が何度読んでもストンと落ちてくるようで落ちてきません。どなたか教えていただけると幸いです。標題はあえてNobody Knows De Trouble I've Seenにしました。https://www.youtube.com/watch?v=wCQyqnldBQQを視聴してみました。)

2019年8月3日土曜日

あなたは十字架をどのように受け取っていらっしゃいますか


十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(1コリント1:18)

 十字架は、人間の理性に訴えるのでなく、人間の心と生活とに訴えるのであります。それは、贖罪の果実が味わわれ、その力が経験されるためであります。人間が十字架を必要とする程度に従って、十字架の力を知り、贖罪の神秘の深さを見ることがゆるされています。

 信仰者の愛は、イエスの十字架を、バラの花輪で飾り、それを聖なる神秘でかこみました。今日では十字架は、着物や、祭壇や、家庭または教会の飾りとなっています。これは十字架を装飾とするのは愛でありますから、たぶんその習慣には誤りはないでしょう。

 しかしわたしたちは、十字架が、この世で最大の恐怖を意味していることを、決して忘れてはなりません。十字架は、罪の地獄の威力について、神の怒りの嵐について、憎しみと釘と血について語っています。十字架は、最も恐ろしいものの啓示であります。十字架においてこそ、最も恐ろしき地獄を瞥見するのであります。ここにこそ、他のいかなる場所よりも罪が公然とその悪魔性を発揮しているのです。十字架において、天はその最大の犠牲の血をもたらし、十字架において、地はふるい、地獄の王は、その致命傷をうけたのであります。

 十字架を、審美的に考えてはなりません。十字架上の血のしたたる死は、すべて審美的なものと、全く反するものであります。決して十字架について無意識に語ってはなりません。十字架は、非常に神聖なるものでありますから、深い意味なしに、これをスローガンとしたり、ときの声として使用してはなりません。十字架は非常に恐ろしいものでありますから、これを軽々しい調子やえみをたたえて歌うべきではありません。十字架のことばを、決して、陳腐、空虚な無意義なものとしてはなりません。十字架のことばは、ただ深い畏敬と、聖なる熱心と、うち砕けたる心と、まじめな感謝をもってキリスト者の唇に語られなければなりません。

 救うかたは、「十字架にかかりたもうおかた」であって、十字架ではないことを、決して忘れてはなりません。十字架には、何も魔術的な力はありません。十字架それだけを飾ったり、礼拝してはなりません。価値あるものは「小羊」であって、彼こそ礼拝され、あがめられ、讃美さるべくほふられたもうたのであります。

 神を信じ、神にたよる心にとっては、十字架につけられたもうたかたが、完成されたわざを、いつも瞑想することは、何ものにも増してたいせつなことであり、効果の多いところであります。なぜなら、彼のうちに、その心は、救いと生命とをもっているからであります。
  死の矢がわれをおそうとも
  わが命はキリストの血のうちにある
  全世界われにそむくとも
  この慰めこそわれを強む
  そは失望に痛める魂をいやし
  苦難の思いに沈めるときに新しき勇気を与う
  風の吹くがごと、多くの思いわが心を乱す時も
  われ知る彼の血は、信仰のよりどころなるを(パウル・ゲルハルト)
 「わたしたちの主イエス・キリストのみ傷を、常に絶えず思うほど、わたしたちの良心の傷をいやすに効果のあるものは他にない」(クレアボーのベルナルド)

 「非常に偉大にして測り知れない一人格者が、ひとりの人に会い、彼のために苦しみ、死んだとしたら、口に言い表わすことのできない堪えがたい真剣さがあるにちがいありません。またあなたが、神の子ー父の永遠の知恵ー彼ご自身が苦しみたもうことを厳粛に考えるときには、あなたは恐れおののくにちがいありません。そしてそうすればするほど、あなたは、このことを真剣に考えることでしょう。それゆえ、あなたがキリストにこの苦しみを負わしたのであるとの事実を、深く心に銘じなければなりません。あなたがキリストのみ手にさされている釘を見る時、そのとき、これはあなたのなしたわざであることを十分に、しかと信じなさい。あなたが、彼のいばらの冠を見る時、そのとき、これはあなたの悪の思いであることを信じなさい」と、ルターは言っています。

(『聖霊を信ず』フレデリック・ヴィスロフ著名尾耕作訳38〜40頁より引用。この書物もA牧師の愛用の書物であったようだ。もう10数年前に読んだものだが、今回はA牧師がどんな思いでこの書物を読まれたか味わいながら読んでいる。名著の一つだと思う。本の帯でヴィウロフはハレスビーらの下で研鑽を積んだと紹介されていた。)

2019年8月2日金曜日

A牧師の聖書

左手に ブルーベリーを 摘み取りて 笑顔こぼれり 貧者の庭

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。(ルカ13:25)

A牧師のご講義をお聞きしたのは、かれこれ30年以上前で、教会に出席していたころである。それがどのようなテーマであったかも正確には覚えていないが、多分「信教の自由と日本の教会」の講義題名であったのではないだろうか。

 その後、教会を出て、集会に集うようになって、教会時代の反動というか、学ぶことを極度に軽視した信仰生活を送り続け、教会時代にせっせと読み漁った、あるいは読み漁ろうとした本などをほとんど処分してしまった。聖書一冊あれば事足れりという思いであった。

 その後10数年して定年時期がやって来て、再び所蔵本の大量処分を断行した。今考えるとずいぶん貴重な本をたくさん手放してしまった。どっちみち、これらの本は図書館で備え付けるだろうからという見通しがあった。ところが豈図らんや、現在の図書館は古い書物は置こうとしないようだ。あるいは置こうとしても、私とは関心が違うので、ずいぶん当てが外れて、私の所持していた稀観書は残念ながら置いていない。

 それもあって、その後、二、三年経ってからつでを頼って再び古書を買いあさるようになった。そのような折り、冒頭のA牧師の署名入りの聖書を手にした。新改訳の第一版であるが、A牧師の性格そのままをあらわす丁寧な扱い、さては行間にはギリシア語、はてはヘブライ語まで小さな赤字で記入されている代物である。

 当時から興味を持って書棚の一角に並べておいた。ところが現金なもので、その後、親しくしていただいている知人からA牧師にまつわる芳しくない評判を聞いた。それだけがきっかけとなったわけではないが、久しくその聖書はいつの間にか、私の書棚の隅っこに置かれ、押し込まれた形になってしまった。

 ところが歴史はめぐるというか、最近このA牧師の存在が気になり、著書を二冊ほど読んだ(いずれも聖書と一緒に買い求めていたもので)。そして昔知人から聞いた話も誤解ではないかと思い始めるようになった。その挙句、久しぶりにA牧師の聖書を紐解いた。裏表紙には横書きで次のように書いてあった。

キリスト教式結婚式の要件('82.2.1)
1、Mt 19:6 〈神があわせたもうたもの〉がめいかくであること
  牧師はその神の代理者
2、神はどのような人を合わせたもうか
  Ⅱコリント6:14 信仰という基本的なもので一致していること
 以上によらない司式は、牧師の越権行為となる。
 (キリスト教式結婚式自体が成立しない)

 そして右隅には「地獄」という標題のもと以下の聖句箇所が明示してあった。

Rev 20:10(Mt 25:41) Mt 8:12 13:42,50 22:13 24:51 25:30 Lk 13:25 Mk 9:48

(引用者注:Revは黙示録、Mtはマタイの福音書、Lkはルカの福音書、Mkはマルコの福音書)

 私にはA牧師の思いが痛いほど伝わって来た。そこには毅然とした彼の結婚観と死生観、ひいては主を恐れてやまないその信仰が示されていたからである。