ドイツ・フュッセン近郊の湖(?) 2005.10.21 |
なぜならば、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。(コリント人への第二の手紙4:17)
パウロの生涯の大部分は、重く患難がのしかかっていましたけれども、彼は歌っています。だれもパウロのたたえの歌の中に、悲嘆をみつけることはできません。パウロの讃美の歌には不協和な音はありません。苦難にあっても、パウロは喜んで言っています。「なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして希望は失望に終わることはない。なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」。
聖書は、わたしたちが人生においてぶつかる患難について、いろいろと言っています。一つには、苦難はわたしたちを正しくするものであると教えています。「主は愛する者を訓練し」、すなわち、神はわたしたちの人生の歩みにおいて、わたしたちを鍛錬なさるのです。
聖書はまた、患難は、キリストに従ってわたしたちが負う十字架のようなものであると言っています。すべての苦難が十字架ではありません。なぜなら、病気や不幸や苦しみは、キリストを信じない者にもわざわいだからです。しかし、わたしたちが負う十字架は、わたしたちの主のために耐えて負うものです。幼な子のような信仰をもってキリスト者が苦難を忍ぶとき、それは、救いの主に従って喜びと希望と忍耐をもって負う十字架となります。
これらの患難は、多くの場合悲痛です。パウロも「肉体の一つのとげ」と言っているように、彼のからだをさいなむ、痛いものです。このような苦しみは、よくわたしたちを恐れさせます。そしてわたしたちは神が不公平だと思い、しばしばいらだったり、不満になります。わたしたちはこれまでにどれほど神の恵みをいただいたかを忘れ、またこれから先の栄光を見失ってしまうのです。
患難は悲痛なものですけれども、パウロはこれを「軽い」と言っています。というわけは、この苦しみは今だけのことであり、物的なこの世の中だけのことであるからです。この苦しみや困難は、わたしたちから福音の与える祝福も希望も奪いとることはできません。また天国の栄光も永遠の命の恵みも、わたしから奪うことはできないのです。ですからパウロは「このしばらくの」ということを強く言っているのです。
確かにこのような苦難が一生続くこともしばしばありますが、永遠の時に比べれば、人の一生は「このしばらくの」時でしかありません。けれども苦しみの時はとても長く思われれます。むすこの事故の詳しい知らせを待つ母親には、数分間が数日のように思われます。しかし、むすこがピクニックなどに行って楽しく過ごしていると、一日などはまたたくままにたってしまうのです。未来に待つ永遠の栄光を待ち望むならば、パウロが言うように、患難も軽く、またしばらくの間のことです。
ですからわたしたちは、この世から目をあげて永遠を見つめるべきです。まだ見ぬ輝かしい約束にわたしたちは目を向けなくてはなりません。そうすればわたしたちはどんなものにも比較できないほどの永遠のたまものに囲まれていることに気づくでしょう。この世の今ぶつかっている苦労や困難も、永遠の宝と比べればとるにたりないほど軽いものなのです。
しかし、もしわたしたちが未来に待つ栄光に目を向けるならば、当然神のみことばの中に表わされている神の約束に注意をはらうでしょう。人生のどんな困難にも試練にも耐え、喜んで忍ぶことができるのは、キリストを信じる者たちだけです。なぜならば、わたしたちの主、イエス・キリストに表わされた神の愛を、何者も奪うことができないということを知っているからです。人生のすべての苦しみや悩みにかこまれても、キリスト者は救世主のうちに力と希望とを見いだします。ですからパウロは「わたしに力を与えるイエス・キリストを通してわたしはすべてのことができるのである」と言っているのです。
わたしは「いさおなきわれを」(讃美歌271番)というあの美しい讃美歌を書いたシャーロット・エリオットがもしも病気でなかったならば、けっしてあの歌を書けなかったであろうと信じています。病人用の車の付いたいすから立ちあがれないからだであっても、心にイエス・キリストをいだくならば、人生は暗やみではないことを学んだのでした。身動きもできない彼女は、こう書いています。
苦しみと疑いのあらしに、うちとそとの戦いとおそれに、
わたしはうちたたかれ、おののく。
おお、神の小羊よ、いさおなきわれは、みもとに行く。
祈り
おお主よ、この世の労苦と試練の戦いに疲れはて、わたしは力を失い、失意にうなだれています。どうぞあわれみ深い主よ、わたしの心をゆるがぬ信仰と大いなる満足と、大きな希望でみたしてください。どうぞわたしに日々あなたがじゅうぶんな力を与えてくださることを信じさせてください。そして神の子らには限りない栄光が与えられている真実を、わたしの心に覚えさせてください。信じる心で、「みこころのままに」と言うことができる者とさせてください。
天の父よ、わたしは鏡の前に立ってもはっきりと見ることができず、なぜこれらの苦しみがわたしに与えられるのか、理解することができません。けれども、わたしはあなたを信頼し、あなたの約束を疑わず、わたしとわたしの家族にその約束が実現されることを確信いたします。静かな、休養の日をお与えください。わたしの罪をゆるして、わたしの信仰を強めてください。わたしを救うために十字架の苦しみを耐えて負ってくださった、わが主、わが救い主、イエス・キリストによってこれらのことを祈ります。 アーメン
(『いこいのみぎわ』A.ドーフラー著松尾紀子訳65〜70頁より引用。)