2019年8月3日土曜日

あなたは十字架をどのように受け取っていらっしゃいますか


十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(1コリント1:18)

 十字架は、人間の理性に訴えるのでなく、人間の心と生活とに訴えるのであります。それは、贖罪の果実が味わわれ、その力が経験されるためであります。人間が十字架を必要とする程度に従って、十字架の力を知り、贖罪の神秘の深さを見ることがゆるされています。

 信仰者の愛は、イエスの十字架を、バラの花輪で飾り、それを聖なる神秘でかこみました。今日では十字架は、着物や、祭壇や、家庭または教会の飾りとなっています。これは十字架を装飾とするのは愛でありますから、たぶんその習慣には誤りはないでしょう。

 しかしわたしたちは、十字架が、この世で最大の恐怖を意味していることを、決して忘れてはなりません。十字架は、罪の地獄の威力について、神の怒りの嵐について、憎しみと釘と血について語っています。十字架は、最も恐ろしいものの啓示であります。十字架においてこそ、最も恐ろしき地獄を瞥見するのであります。ここにこそ、他のいかなる場所よりも罪が公然とその悪魔性を発揮しているのです。十字架において、天はその最大の犠牲の血をもたらし、十字架において、地はふるい、地獄の王は、その致命傷をうけたのであります。

 十字架を、審美的に考えてはなりません。十字架上の血のしたたる死は、すべて審美的なものと、全く反するものであります。決して十字架について無意識に語ってはなりません。十字架は、非常に神聖なるものでありますから、深い意味なしに、これをスローガンとしたり、ときの声として使用してはなりません。十字架は非常に恐ろしいものでありますから、これを軽々しい調子やえみをたたえて歌うべきではありません。十字架のことばを、決して、陳腐、空虚な無意義なものとしてはなりません。十字架のことばは、ただ深い畏敬と、聖なる熱心と、うち砕けたる心と、まじめな感謝をもってキリスト者の唇に語られなければなりません。

 救うかたは、「十字架にかかりたもうおかた」であって、十字架ではないことを、決して忘れてはなりません。十字架には、何も魔術的な力はありません。十字架それだけを飾ったり、礼拝してはなりません。価値あるものは「小羊」であって、彼こそ礼拝され、あがめられ、讃美さるべくほふられたもうたのであります。

 神を信じ、神にたよる心にとっては、十字架につけられたもうたかたが、完成されたわざを、いつも瞑想することは、何ものにも増してたいせつなことであり、効果の多いところであります。なぜなら、彼のうちに、その心は、救いと生命とをもっているからであります。
  死の矢がわれをおそうとも
  わが命はキリストの血のうちにある
  全世界われにそむくとも
  この慰めこそわれを強む
  そは失望に痛める魂をいやし
  苦難の思いに沈めるときに新しき勇気を与う
  風の吹くがごと、多くの思いわが心を乱す時も
  われ知る彼の血は、信仰のよりどころなるを(パウル・ゲルハルト)
 「わたしたちの主イエス・キリストのみ傷を、常に絶えず思うほど、わたしたちの良心の傷をいやすに効果のあるものは他にない」(クレアボーのベルナルド)

 「非常に偉大にして測り知れない一人格者が、ひとりの人に会い、彼のために苦しみ、死んだとしたら、口に言い表わすことのできない堪えがたい真剣さがあるにちがいありません。またあなたが、神の子ー父の永遠の知恵ー彼ご自身が苦しみたもうことを厳粛に考えるときには、あなたは恐れおののくにちがいありません。そしてそうすればするほど、あなたは、このことを真剣に考えることでしょう。それゆえ、あなたがキリストにこの苦しみを負わしたのであるとの事実を、深く心に銘じなければなりません。あなたがキリストのみ手にさされている釘を見る時、そのとき、これはあなたのなしたわざであることを十分に、しかと信じなさい。あなたが、彼のいばらの冠を見る時、そのとき、これはあなたの悪の思いであることを信じなさい」と、ルターは言っています。

(『聖霊を信ず』フレデリック・ヴィスロフ著名尾耕作訳38〜40頁より引用。この書物もA牧師の愛用の書物であったようだ。もう10数年前に読んだものだが、今回はA牧師がどんな思いでこの書物を読まれたか味わいながら読んでいる。名著の一つだと思う。本の帯でヴィウロフはハレスビーらの下で研鑽を積んだと紹介されていた。)

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