2019年8月5日月曜日
Nobody Knows De Trouble I've Seen
彼によって神の怒りから救われる(ローマ5:9)
わたしはかつて、黒人の婦人が、十字架についての歌をうたうのを聞いたことがあります。「彼らは彼を十字架につけたり、されど彼もだして物いいたまわず」深い単調なアルトで、彼女はこの句を繰り返し繰り返し歌いました。このことばと曲は、聖金曜日の劇・その苦しみと恐怖とを、わたしたちの眼前に描くかのようでありました。これを聞いたものは、みな、十字架のもとにおかれたようでありました。
彼女が歌い終わると、嵐のような拍手が起こりました。熱狂した聴衆は、荒々しく拍手をしました。それは芸術でありました。すばらしい芸術でした。わたしは前にかがみ、わたしの手をできるだけ耳に強くあてて、ふさいでしまいました。これらすべての拍手は、わたしにとっては、神を冒瀆する嘲笑としか思えませんでした。しかしわたしは、自分の心に奥深く「主よ、なんじの苦しみに感謝したてまつる」と言わざるをえませんでした。
十字架のことばは、単に人を楽しませるために語られたり、歌われてはなりません。これはあまりにも聖であり、おそるべきものであるので、人を楽しませ、人の人気を得るために用いられてはなりません。十字架がキリストに対して何であったかを、わたしたちは全力を尽くしても述べることはできませんし、またそれだけ理解もできません。しかし聖書の次の句は、この一端を知らしてくれます。
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」(第2コリント5:21)キリストはただに人間とされたばかりでなく、また罪びととなされ、罪であるとさえなされたのであります。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなった」(ガラテヤ3:13)。
キリストはみずからを、罪深い人類のひとりと等しくせられました。人間が自分たちの罪によって積み上げたすべてののろいを、彼はそれをご自分のものとされ、その結果を味わわなければならなかったのです。彼はみずからの罪と等しくされました。まことに彼は、すべての罪の人格化そのものになられたのです。
それゆえ、すべての神の怒りは、キリストの十字架にそそがれたのであります。彼は、わたしたちの身代わりとして死にたもうたのです。彼は、わたしたちの罪の結果として、当然受くべきすべての苦難をあますところなく苦しまれたのであります。十字架上の最も深刻な苦悩は「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)のことばに表現されています。
ああ世界はここにかかっている
彼の愛のみ手は差し出されている
なんじの救い主は、十字架上に
いのちの君は望んでおられる
苦しみ、侮辱、喪失にたえ
すべての義が成就することを(パウル・ゲルハルト)
キリストの十字架から、「完了した(口語訳:すべてが終わった)」(ヨハネ19:30)との大勝利の勝鬨が、絶えず叫ばれています。
憎しみが、十字架で、一時は、勝利を得たかのごとく公然と示されたが、しかし、まさしく同じ場所でそれは敗北しました。愛は降参することによって、勝利を得ます。自己犠牲においては、愛は征服できないものです※。憎しみが、勝利を得るように見えれば見えるほど、それだけその敗北は確かであります。それゆえ、十字架の成果は、完成された救い、贖罪の神、開けられたる天であります。「人の子が来たのが・・・多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである」(マタイ20:28)多くの著名な人々は、なぜ自分たちがきたのであるか、また自分たちの計画を大言壮語しますが、だれも自分は〈死ぬ〉ためにきたと言ったものはありません。
「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです」(第二コリント5:14)。キリストの死は、すべての時代、すべての国民に有効なものであります。「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9:12)、「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです」(ヘブル10:14)。
(『聖霊を信ず』40〜42頁より引用。文中の※「自己犠牲においては、愛は征服できないものです」が何度読んでもストンと落ちてくるようで落ちてきません。どなたか教えていただけると幸いです。標題はあえてNobody Knows De Trouble I've Seenにしました。https://www.youtube.com/watch?v=wCQyqnldBQQを視聴してみました。)
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