夏盛り 夾竹桃 涼しげに 白さも白し 毒性ありて |
義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。(ヨハネ16:10)
救いは、徹頭徹尾神のわざであります。生まれながらの人間の、凍った畑の中の、氷の最初の一辺がとけるのは、神の恵みの太陽のわざであります。春のしっけた土地からのぞく、最初の植物は、神の恵みの暖かさと、光によって生み出されたのです。最初の漠然とした、不明瞭な、不確かな、神への切望は、人間の内での、神の霊の働きであります。心の不安、罪の重荷、神なき生活における疲れ、これはすべて、神の霊の活動の成果であります。慰め主「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。(口語訳:世の人の目を開くであろう)」(ヨハネ16:8)
聖霊の任務とその恵み深き目的は、キリストを人間の生活の中に、もたらすことであります。しかしこのことは、人が自分の心の極度の罪と堕落とを見るまで、できないことです。この理由で、聖霊は義を示す前に罪をあらわにします。人が神の恵みを必要と感じない前に、キリストの恵みを説教することは、石に香油をそそいでいるようなものです。人はキリストの栄光を見ることができる前に、自分自身の魂の醜悪を見なければなりません。まず彼は、傷つけ、それからこれを癒したまいます。まず彼は、殺し、そしてこれを生かしたもうのです(申命記32:39)。まず彼は、罪をあらわにし、それから義をあらわしてくださいます。まず罪びと、それからキリスト。
(中略)
聖霊は、ただ罪を示すばかりでなく、もちろんこれをなすが、または、ただに罪がなんであるかを、私たちに証明するばかりでなく、もちろんこれもなすが、聖霊は罪の判決を下すのであります。有罪の宣告をうけた人は、もう弁論の必要はなく、弁解も言いのがれもありません。また自分の罪のために口実をもうけたり、弁解をこころみる魂は自分の罪を悟っていないのです。自分の罪を認めた罪びとは、神が正しいことを認めます。彼の口がふさがれ、彼が「神のさばきに服している」ということは、彼について正しく言っていることです(ローマ3:19)。特に罪びとの口をふさぐものは、彼が、すべての罪のうちに罪の本質を見ることであります。「罪とは、彼らが、わたしを信じないことである」。
否定することは罪であります。恐ろしい罪であります。しかし信じないことも、また罪であります。まことにこれが全人類の根本的罪であります。すべての一般的罪は、不信にその根をもっています。不信は、すべての罪の母であります。ルターは、不信を「最も悪い精神的悪徳」と呼んでいます。彼のローマ人への手紙の序言に「不信は、すべての罪の根であり樹液であり、主力である」と言っています。神なき生活は、あなたの生活の根本的重大な罪であります。人がさばきに服しているということは、特にこの罪のゆえであります。また聖霊の光によって覚醒された魂が見るようになるのは、この罪であります。
この聖霊の働きは、決して楽しいものではありません。なぜなら、これは罪びとを最もひどい苦悩、罪に対する苦悩、に導くことを意味するからであります。罪びとが、魂の苦悩のうちから「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」(イザヤ6:5)と叫ぶほど深刻なうめきは、この地上におこりません。しかしながら、この悲痛な叫びは、天使を動かし、神のみこころそのものを動かし、限りなき喜びが与えられるのであります。(ルカ15章)。
聖霊のこの痛ましい働きは、終着点ではありません。それは手段にすぎません。今や聖霊は、もしその働きを続けることがゆるされるならば、その魂のなかで、彼の働きを続けます。「義についてと言ったのはわたしが父のみもとに行き・・・」(ヨハネ16:10)。このことは、祝福された神の霊でさえ、なすことを許されなかった、最も祝福されたわざであります。今や聖霊が、罪びとにキリストを啓示するのであります。なんとこの二つのことが、密接に、聖書に示されていることでしょう。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」「あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。イザヤはこのように経験したのです。
あるいは、パウロも同様であります。「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない」(ローマ7:24と8:1)福音の祝福は、苦難の苦痛を通してのみ、知ることができます。この死のからだに対する苦闘に苦悶する者のみが、キリストにあって、自由にされるとの意味を、正しく知ることができます。「神にある喜びは、悲しみのうちに生まれる。神聖な悲しみは、神聖なる喜びの先駆者である」(スクリーヴァー)
(『聖霊を信ず』ヴィスロフ著名尾耕作訳49〜52頁より、抜粋引用。昨日ハレスビー、ヴィスロフと同じノルウエー人の作家イプセンの戯曲『野鴨』を読む機会を得た。ヴィスロフが、今日引用した文章の少し前のところで『野鴨』に触れているところがあったからだ。イプセンは「『理想』っていう気取った言葉は、使わんことにしましょうや、『嘘』っていう便利な言葉があるんでね、ーーそれで充分。」(岩波文庫版原千代海訳193頁)と劇中の人物に語らせているが、それを巧みに用いて、「人間の自然的善を信ずる宗教的理想主義は、人間を虚偽に導きます」と警告し、今日の引用文に至っている。ノルウエーの人々の人間観の深さに福音が及ぼしている影響、イプセンにもそれがあったのではないかと秘かに推量した。それはともかく、読者の中でまだこの戯曲を手にしておられない方がおられ、興味関心を示される方がおられるなら、是非一読をお勧めしたい。)
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