2019年8月6日火曜日

私たちに必要な墓守とは?

滔々と 渇きを満たし 流れ行く 古利根川べり 主の血の愛
(手前が下流です)
血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(ヘブル9:22)

 人々が、神の怒りを理解していないと、身代わりとしてのキリストを必要としなくなります。キリストの血なくして、勇敢にも聖所にはいろうとします。この点、キリストの代償的わざを無益にしようとして、強い力が働きかけたことは不思議ではありません。神の教会は、キリストのあがないの死の、この真理の上に、その救いを建てているのです。ゴルゴタは、教会の聖壇であります。ここに不純なものが見られるならば、神の全聖所は、けがされるでありましょう。十字架はキリスト教の逆説であります。キリスト教信仰の、つまずく石です。この理由で、多くの人々は、キリスト教をもっと魅力的にし、現代に適したものにするために、十字架を取り除こうとします。

 しかし、わたしたちは、キリストのあがないの死についての、啓示された神の真理に関しては、毛頭も、これを譲歩しようとは決していたしません。神の教会は、これなくしては生きていけません。これ以外のところに、わたしたちの救いの望みを建てようとも思いません。わたしたちは「イエスの血によってのみ」、勇敢に聖所にはいるのであります。ゴルゴタが陳列場になるには、あまりに恐ろしすぎます。キリストの死の成果を、ただの展覧にするにはあまりにも栄光に輝きすぎます。

 罪に関する項目で、人間性の堕落と、その全き無力を見てきましたが、今やその考えに戻らなければなりません。人間はそれ自身、善であると信ずることは、聖書の教えと全く相反することをみてきました。「人間のうちにある神」の教理は、邪教であり、罪と人間性の全堕落に関するキリスト教の教理と、相反します。

 しかし、人間性の中の「神の像の痕跡」について考える場合、わたしたちは、聖書がゆるす以上に、また生まれかわっていない人間に実際に見られる以上に、この表現に立ち入らないよう、十分警戒しなければなりません。

 罪への堕落によって、人類は全く滅びたのであります。生まれながらの人間の中には、神をよろこばす、いかなる性質もないのです。堕落ののち、人間に残ったものは、神がおられるはずであったところの、せいぜい空虚くらいなものであります。生まれながらの人間が、どんな神を渇望するかについて、多くのことが言われていますが、それは、盲目のうちに、神に帰る道を見いだそうとしているのです。聖書は「神を求める人はいない」(ローマ3:11)と言っています。神を、全く真実に求めることは、神の霊の働きの成果であります。
   (中略)
 したがって「神の像の痕跡」は、否定を意味します。つまり、神がそこにいないということです。「人間の敬虔さは、彼が神を必要とすることにある」(ブルンナー)。現実に、これと同じ思想をアウグスティヌスの有名なことばの中に見いだします。「人は神のために創造されている。それで、彼が神のうちに憩うまでは、憩いがない」。「生まれながらの人は、神の霊の賜物を受け入れない。それは彼には愚かなものだからである。また聖霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」(第一コリント2:14)。「肉にある者は神を喜ばせることができません」(ローマ8:8)。

 義人はいない。ひとりもいない。
 悟りのある人はいない。
 神を求める人はいない。
 すべての人が迷い出て、
 みな、ともに無益な者となった。
 善を行なう人はいない。
 ひとりもいない。(ローマ3:10〜12)

 このことばを読めば、この世界は、善人のいないからっぽになります。「いな、ひとりもいない」とくり返されていることばは、人間の善性に対する古くからの信仰を、埋葬している墓守のようであります。

(『聖霊を信ず』45〜48頁より抜粋引用。家の前の看板聖句に「あなたは、赦しの神。われらの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。われらの神、主は聖である。」詩篇99:8〜9と書いた。数日前、通りがかりの人が、私の姿を認めながらも、柏手を打つようにしてその看板聖句のことばに敬意を表した。その方に一冊の小冊子「主は生きておられる」51号をお渡しした。願わくば、ともに、善性を葬り去って手を取り合って流された血潮を感謝する間柄、兄弟とならせていただきたいものだ。) 

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