2019年8月21日水曜日
ゆるし5(主に託された財産)
あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです。これは私たちが神にそむいたからです。(ダニエル9:9)
わたしたちはイエスがだれであり、何をなさったのかを知っている。それで、何を私たちはしなければならないのだろうか。
「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身につけなさい。互いに忍びあい、もし互いに責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい」(コロサイ3:12〜13)
「主も、このようなはずかしめを受けて、私たちをゆるして下さったのだから、私たちも互いにゆるし合わなければならない」。単にイエスによる罪のゆるしを信ずるだけではなく、互いにゆるし合わなくてはならない。私たちは自分に犯された罪をイエスがなさったように、ゆるすことができるであろうか。それはできそうもない。しかし、それをやりなさいとイエスは命じておられる。ペテロでさえ、イエスに、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」と問うている。イエスはこれに対し、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」と答えて、あの有名な一万タラントの負債ある者が、自分がゆるされたのに、自分に百デナリ負債ある者をゆるさなかった話をされている。
この話の重点は、主人が負債あるしもべを「あわれに思って」、彼をゆるしたことである。だから、「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」(マタイ18:21〜35)。あわれみがあって、ゆるすことができる。私たちが人をゆるすことができないのは、神のキリストをとおしてのあわれみとゆるしとを私のものとして経験していないからである。私たちが他人の罪をゆるすのは、私がゆるすのではなく、私の罪をゆるしてくださったイエスによって、ゆるしていただくのである。ステパノが祈っているように、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と。
私たちは、さきの一万タラントの負債をしていたしもべと同じである。私たちは神に対して、自分がどんなことをしても払うことのできない負債をもっていたのであるが、あわれみとゆるしに富みたもう神(ダニエル9:9)は、私たちの負債をゆるしてくださったのである。私たちの財産といえば、このゆるされた負債である。人が私から借りる金は、この財産からである。この財産は自分のものとなっているが、さきに負債がゆるされているからである。この意味で、他人の負債をゆるすことのできるのは、自分の負債がゆるされている者だけである。神のあわれみを、その身に味わった者だけが、ほんとうに人をゆるすことができる。それは自分が獲得した財産によってではない。
(『受難の黙想』18〜19頁より引用)
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