2019年8月17日土曜日
ゆるし1(神の子とせられる)
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)
これはイエスの十字架上の七ことばの、最初のとりなしの祈りである。ここにイエスがこの世に来られた目的と、聖書全体が告げ知らせる罪のゆるしの福音が語られている。また、このことばのゆえに、イエスが十字架につけられたのである。
イエスが安息日に、三十八年のあいだ病気で歩けなかった者をいやされたとき、ユダヤ人のある者たちは、イエスが安息日のおきてを破られたと非難した。そこでイエスは、「わたしの父は、今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(ヨハネ5:1〜18)と答えられた。すると、ユダヤ人たちは、イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたとして、イエスを殺そうと計った。この同じことば「父よ」との呼びかけを、今ここでも最初に神に対して呼びかけておられる。
また、イエスが中風の者をいやされたとき、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。すると律法学者たちは、「神を汚すことを言うこの人は、いったい、何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と言って、また、イエスを非難した(マルコ2:7、ルカ5:21)。こうして、イエスを十字架につけた理由は、イエスが罪のゆるしの権威を持っておられたがゆえにであった(マタイ9:6、マルコ2:10、ルカ5:24)。これはユダヤ人にとっては、神を汚す冒瀆罪として死に値した。この同じことばを、今また十字架上で言っておられる。「彼らをおゆるしください」。
ご自分が非難され、処刑される理由のことばを、受肉のイエスの最後のことばの最初に言っておられるのは、イエスがこのために来られたからである。神を父と呼ぶことのできないほど、全く神と絶縁の状態にある罪びとを、神を父と呼ぶことのできる神の子らとするために(ガラテヤ4:4〜7)、今、イエスは十字架上で、「父よ、彼らをおゆるしください」と祈りつつ、ご自分が罪びとの罪を負い、罪びととして処刑されておられるのである。
神を父と呼ぶことが、なぜ、神を冒瀆することであろうか。それは神と人間とが、通俗的な表現をとれば、血縁関係にあることを言っているからである。しかし、神は神であって、人ではない。人間にとっては絶対他者である。創造者と被創造物とのあいだには、血縁関係は全くない。だからイエスを単なる一個の人間とみるユダヤ人にとっては、イエスが神を父と呼ばれることによって、ご自分が神の子であることを示されたのであるから、神を冒瀆するものとして、非難したのである。
旧約聖書の中で、神を父と呼んでいる個所がいくつかある(申命記32:6、イザヤ63:16、マラキ2:10など)。これらはイスラエルの民に対して、父性愛とでもいう関係で述べられたのであり、またヤハウエを自分たちの神とするイスラエルの民を神の子として述べている個所(ホセア1:10、詩篇29:1、創世記6:2など)も、そういう意味で用いられており、個人的に神を自分の父として呼んでいる個所はない。しかし、メシヤ的預言と言われているサムエル下7:14、歴代上22:10では、メシヤと神との関係が、「彼はわが子となり、わたしは彼の父となる」と預言され、イエスと神との関係が明記されている。ユダヤ人が攻撃するのは、また、この点であって、イエスが神を父と呼ばれることによって、ご自分が、あのメシヤであり、まことの神の子であることを言っておられるからである。
旧約聖書に預言され、約束されておられたメシヤとして、この世に来られたイエスが、その目的を完成されるとき、神に対して「父よ」とお呼びになることは最も適切であり、これ以外に、神を呼ばれることばは、ほかにない。あの放蕩息子が言ったように、「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません」(ルカ15:21)という状態にある人間を、神の子と呼ばれるようにし、その神を父と呼ぶ関係に入らしめるために、いま、十字架にかかっておられるのである。そのとき、神をお呼びになるのに、いったい、どのような呼びかたがあるであろうか。わたしたちが神を父と呼ぶことのできるのは、このイエスのとりなしの祈りによるものであり、この祈りが実現するために、イエスは十字架にかかっておられるのである。わたしたちは、このイエスの贖罪の死、それによる、神とのとりなしをぬきにしては、神を父と呼ぶことはできない。また、絶対他者である神との関係にはいることも、神を知ることもできない。
(『受難の黙想(十字架上のことば)』聖文舎1963年刊行。7人の方が書かれている。今日から6回にわたって引用するものはその中のお一人名尾耕作さんの文章である。名尾さんはかつて何度もこのブログで紹介してきた『聖霊を信ず』ヴィスロフ著の訳者でもあられる。)
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