おとうさんは おとうとを しっかりと だきしめました |
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)
このように罪のゆるしは、罪の負債を帳消しにするだけではなく、その負債を補って、負債のないものとすることである。百万円の借金をしている者が、それを返済することができないとき、その借金を帳消しにすれば、その人は借金はなくとも、まだ百万円は事実上、たりないのである。だから、この百万円を補ってやれば、その人は完全に満ちたりて生きて行ける。つまり、その負債に対して、二倍のものを与える。これが罪の負債のゆるしである。
終末的預言と私は解釈するイザヤ40:2に、これがはっきり述べられている。
「ねんごろにエルサレムに語り
これに呼ばわれ、
その労苦は終わり
そのとがはすでにゆるされ、
そのもろもろ罪に対して
二倍のものを、
主の手から受けた」
この二倍のものは、「二倍の刑罰」ではない。原典に、「刑罰」ということばはない。それで、かえって、「恵み」と解釈できる。罪のゆるしの恵みである。これは同じくイザヤ61:7の、
「あなたがたは、さきに受けた恥にかえて、
二倍の賜物を受け、
はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ」と同じである。
旧約聖書の中で最も感動的な事件は、ヨセフが自分を売った兄弟たちをゆるす物語である。ヨセフが父ヤコブの年老いての子であり、ヤコブの愛妻ラケルの子であったので、彼は特に父に愛せられていた。そのため、彼の腹ちがいの兄弟たちは彼を憎み、彼をなき者にしようとして、彼をエジプトに奴隷として売った。彼はある時は投獄されたが、神のまもりによってエジプトの首相の地位につくようになった。後にエジプトをはじめ近隣諸国に、ききんがあったとき、カナンの地にいた自分の兄弟たちは、ヨセフが首相にまで出世しているとはつゆ知らず、彼に穀物を売ってくれるように頼みに来る。ヨセフの方では、彼らが、自分の兄弟であることに気づき、彼らが自分の兄弟に対して、どのような変化をきたしているかを、ためしてのち、彼らに自分自身の身をあかしした。兄弟たちは驚き、そして彼を売った罪のゆえに罰せられることを恐れた。しかし、ヨセフは彼らの罪をゆるし、「わたしをここに売ったのを嘆くことも、悔やむこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです」(創世記45:5)と言って、彼らを責むることもせず、かえって、彼ら兄弟と父ヤコブをエジプトに迎えるために多くの贈り物をなし、彼らにエジプトでも最良の土地を与え、彼らを優遇したのである。
あの放蕩息子の場合もそうである(ルカ15:11〜32)。父は彼が帰って来たとき、責むることもなく、かえって、父の方から遠くはなれている彼のところに走り寄り、その首をだいて接吻した。それどころか、彼のために最上の着物を出して着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせ、肥えた子牛をほふって祝宴をはった。これが罪のゆるしである。兄弟たちの罪を忘れてしまうだけではない。放蕩息子の浪費を、帳消しにするだけではない。彼らの罪に対する二倍も三倍も、いや、それ以上の恵みをもって彼らをいやし、生かしてやることである。
この事は、律法を破り、律法を廃棄するかのように思われる。目には目、歯には歯というのが律法のおきてである。または、矯正のためと、みせしめのために、罪に対する相当な刑罰が定められている。罪のゆるしは、これが実は福音の中心であるが、この福音は律法を無視するかのように見える。しかし、そうではなく、かえって、律法の完成である。律法は罪でもなく、律法そのものは聖なるものであって、正しく、かつ善なるものである(ローマ7:7〜12)。罪のゆるしは、その罪に対する刑罰の律法を無視することではなく、また、大目に見て見のがしてやるというのでもない。キリストによる罪のゆるしは、その刑罰をキリストが受けられたことによってゆるされるのであって、キリストが律法を完成してくださったことによる。私たちは罪のゆるしの福音の恵みに、あまえてはならない。「律法のもとにではなく、恵みのもとにあるからといって、わたしたちは、罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない」(ローマ6:15)。
父なる神は、わたしたちの小さな罪も見のがしになるおかたではない。これに対する刑罰は、ご自分がお与えになった律法に従って、これを行使される。しかし、今や、それをキリスト・イエスをとおして遂行されているのである。
(『受難の黙想』9〜13頁より引用)
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