Calendar by Keiko Murakami |
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。(ローマ4:5)
今日最もひどく攻撃されているキリスト教会での二つの支柱は、生まれながらの人間の罪に関するキリスト教の教理と、キリストにある、功なくして得られる神の恵みの教理とであります。この支柱のいずれかが破損されても、神の教会は崩壊するでしょう。その一つだけでは、神の家を支えることはできません。人間の堕落を認めずしては、神の恵みは無意味であります。また神の恵みなしには、生まれながらの人間は絶望的に失われます。しかし人間の堕落が十分に認められるところで、恵みだけが救うことができます。もし人間が全く無力であれば、そのとき彼の全き救いは、ただ恵みによるのみです。
恵みは他に助け手を必要としません。恵みのみであるか、恵みが無いか、いずれかです。キリスト者の真理は、信仰のみによる義認の教理によって立つか、倒れるかであります。「キリスト者の心から、罪のゆるしをとりだせば、諸君は、キリスト教信仰から心をとったことになる」(H・G・ストゥブ)
ルターは「ここに、重要な信仰箇条と、福音の基礎がある」と言い、スクリーヴァーは「神の前における罪びとの義認の教理は、キリスト教の主要信仰箇条である。この教理は、まことの天の太陽でもある。これなくしては、すべては暗黒である」。
(中略)
義とされるとは、いかなる意味でしょうか。
ポントッピダンは、次のように答えています。「義認(義とされる)とは、次のことから成立している。すなわち神は、恵みによって、キリストの義を、悔い改めた者または信仰ある罪びとに帰すること、そして神は、彼の罪とその刑罰とを彼から免除し、キリストにあって、彼をあたかも彼が罪を犯さなかったかのようにみなしたもうこと」。
義認とは、実際は、法律上の概念であります。これは、裁判の判決の意味からなっています。天のみ国において、神は罪びとを名ざして呼ばれ、彼を義であると、宣告されるのです。罪びとの側には、何もなされていないのです。このことは、生まれかわりにおこるのです。義認は、罪びとが自由であるとの、恵み深い宣言であります。
だれがわたしを罪に定めようとするのか
イエスの血に浸っているものを
国々を治めたもう神は
判決をくだす裁判官だ
このもの、彼は自由になった
イエスの血に清められたと
青ざめたサタンよ、罪よ、死よ
だれがわたしを罪に定めようとするのか(ブロールソン)
(中略)
「罪は地獄である。罪のゆるしは天である」(スクリーヴァー)「諸君の価値は、諸君に助力を与えない。諸君の無価値は、諸君を害さない。水の一滴が、大洋と比較されるがごとく、わたしの罪が、キリストにある神の測り知られざる恵みと比較される」(アーント)
「ゆるすことは、免除することと異なっている。神は罪を免除されない、神はそれをゆるしたもう。ゆるしは、純粋な恵みを含んでいる」(ロセニウス)。「恵みと平安は、キリスト教のすべてを含んでいる。恵みは罪をゆるし、平安は良心に憩いを与える。罪のゆるしなくして、良心の平安はない。しかし罪は、恵みによってゆるされ、取り去られる」(ルター)。
こうして、今やすべての疲れた罪びとは、その目をあげ、キリストを見ることができます。だれも、汚れの中にあって、洗っても清くなることはできません。だれも、自分の病気のまわりをかけめぐっても、丈夫にはなりません。だれも、自分自身を見つめても、救われません。しかしキリストの内に、いやしと救いと祝福とが、信仰によって、彼を見るすべての人のためにあります。信仰によって見ることにより、人は自分に起こりうる最大の奇跡を経験します。信仰によって見ることは、すべてのことにまさって、些細で、取るに足りないように思われましょうが、しかしそれは、ラザロを、その墓から呼び出すことよりも、大きい力ある奇跡を成就するのです。
あなたが、この世の旅路を終わって後、救いを得ようとして、自分のすべての罪のために、後悔の苦行の道を続ける必要はありません。神の子キリストが、あなたに代わって、苦難の道を歩かれたのです。あなたは、自分の罪を自分であがなうことはできません。あなたの罪のための贖罪は、すでになされているのです。あなたのなすべきことは、ただ、「ありがとうございます」ということだけです。そうしたならば、すべてのものは、あなたのものです。
(『聖霊を信ず』55〜59頁抜粋引用。長らく連載したこのヴィスロフの文章も一先ず今日で終わりにする。この一連の文章は彼の同書の第3章「聖霊と世界」の中の2、「聖霊が罪人をキリストに追いやるとき」からの引用であった。それにしても結局、神の家を支える二つの支柱とは何なのか、つねに覚えたいことでなかろうか。なお、今日のカレンダーは愛する方の労作である。記して感謝申し上げる。)
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