2019年8月18日日曜日
ゆるし2(罪なき者と認められる)
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。(ローマ4:25)
次に、イエスが父なる神に、「彼らをおゆるしください」と祈っておられることは、イエスに罪をゆるす権威がなかったからであろうか。先述の「人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」(マタイ9:6、マルコ2:10、ルカ5:24)とのイエスのことばは、単なる誇示ででもあったのであろうか。「もし人が人に対して罪を犯すならば、神が仲裁される。しかし、人が主に対して罪を犯すならば、だれが、そのとりなしをすることができようか」(サムエル上2:25)。人に対する実罪も神に対する原罪も、これをゆるすことのできるのは、神だけであると言う律法学者の主張は正しい。人が人に対して犯す罪も、それは神に対してであるからである(ルカ15:18、21)
それで神は世の初めから、神に代わり、神の権威をもって罪をゆるしてくださるかたの像を、預言者たちのことばをとおし、または礼拝の祭儀において、すなわち、犠牲の小羊をとおして、旧約聖書にその予表をしておられる(ヘブル1:1〜2)。この預言と犠牲による象徴は、神が人となった罪なきイエスの十字架上の死と復活という仲介のわざをとおしてのみ、罪のゆるしが完成するということである。この預言と犠牲の意義を信じていた洗礼者ヨハネは、イエスを迎えて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ
1:29)と、イエスに対する信仰を告白した。のちに石に打たれて殉教の死をとげたステパノも、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください」と、主イエスにとりなしの祈りをささげながら、父なる神のみもとに召された(使徒7:60)。ふたりとも主イエスに罪のゆるしの権威があることをみとめているが、これがただ一つの、神が人の罪をゆるしてくださる道である。神の側からおりてきて、人の罪をゆるしてくださったのである。
「まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれた。
彼はみずから、こらしめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのである。
彼が自分を、とがの供え物となすとき、
その子孫を見ることができ、
その命をながくすることができる。
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、
また彼らの不義を負う。
しかも、彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした」
(イザヤ53:4〜12)
実に、この預言の完成のための祈りが、「父よ、彼らをおゆるしください」の、ひとことにあらわれている。イエスは口先だけでこの祈りをされたのではない。責任をとって、ご自身が十字架にかかり、その苦しみの真っ最中に祈られたのである。人間の罪のゆるしのためのいっさいの責任と損失と犠牲とを、罪のないご自分が受けて、父なる神のみ前において、人間が罪なき者として認めていただくためである。罪のゆるしは、こうして初めて可能なのである。イザヤの預言のとおり、イエスは人間の病を、ご自分の病として負い、悲しみも不義も、これをご自分のものとして受け、ご自分はそのためにこらしめを受けて砕かれ、ご自分を愆祭(けんさい)の犠牲の小羊とされて死なれた。その傷によって彼らも、私たちもいやされ、平安が与えられ、神のみ前に義なる者とされているのである。これが罪のゆるしであって、これが復活において証明されている。
(『受難の黙想』6〜9頁より引用)
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