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十字架 レンブラントの 描きし絵 |
今日は金曜日である。先週の金曜日もこの絵を見ていた。いや、五十五年間、この絵を見てきた(と言っても過言ではない)。それほどこの絵は強烈であった。十字架からイエス・キリストを取り降ろす場面を描いたレンブラントのエッチングである。何よりも印象的だったのは、画面中央の梯子段上から、こちらを凝視するかのような男の表情である。
その表情には、悲しみ、怒りを、見る者に与えるかの感があり、いつもそこだけに捉えられていた。それはレンブラント自身を描いているのだと思っていた。その見方は多分間違っていないと思うが、それは他者に向かうより、自己を凝視する視線だと今回思うようになった。そしてイエス・キリストの生身のからだのやわらかさが何よりも印象的で場違いであるように思わされた。
この絵(絵葉書)は55年前の今日、東京の国立博物館で手にしたものである。暦を調べてみると1968年の4月14日はイースター(復活祭)の日であった。その日、私は25歳になる足利商業高校の新米の教師であったが、2年目にして担任となり、その一週間後初めて訪れた日曜日、休みの日だというので、東京のレンブラント展にまで出かけ、入手した絵葉書の一つである。
絵葉書の裏面は、手紙となり「(前略)こちらは毎日充実した生活を送っていて幸福です。クラス担任になるとやはりやりがいがあります。それでも一週間ばかり前はあれやこれやで精神的に参る日々を送っていたんですから、ぼくの生活力も大したものだと自惚れています。聖書は最近読んでいません。教会へはずっと前、行きましたが、どうもああいう雰囲気に偽善めいたものを感じて足が遠のいています。その代わりプレーヤーを買ってバッハの曲を欠かさず聞いています。昨日はレンブラント展を見てきたのですが、もうなんていうか僕がするべきことは方向は決まっているし、レンブラントという天才でさえああいうふうに人生を送らねばならなかった(特に自画像の移り変わり)という祈りめいたものを感じました。(後略)」と今も変わらぬ私の字で綴られていた。
その日がイースターであることも知らず、一端(いっぱし)の考えを生意気にも吐露している。その私が、二年後の1970年には結婚して、キリスト者として家庭を持つようになり、レンブラントの目をとおしてイエスさまを知るだけでなく、聖書そのものからイエスさまの十字架降下を考えるように変えられたのだから、今となってはこれすべて不思議なことだ。そして、気がついてみると、すでに50年以上経過している。
果たせるかな、今年は新たに、『暗い雲の下』と題する以下の文章を通して、十字架が主イエスさまにとっていかなる苦しみであったかを改めて覚えることができた。煩を厭わず転記して見たい。
それは聖金曜日の十二時でした。
これまでイエスはいつも人々の間におられました。彼は今三時間も十字架にかかっておられましたし、九時から三時間の間に、はじめて三つの言葉を言われ、敵のために祈られ、母を慰められて、悔い改めた強盗を救われました。
しかし今、彼はあたかも人々と手をお切りになったように見えました。くちびるをつぐんで、彼はあらゆるものや、あらゆる人から退いておられます。
聖書はこのことを短い数言で述べています。ただ、それにつづく、ひるの十二時から午後三時までの三時間が、それ自体区分を作ることが、きわめて明らかになっています。
それは別として、それに伴う驚くべきしるしーーイエスの受難に伴った自然のしるしーーだけが語られています。太陽は暗くなって、もはや光を放ちませんでした。にぶい鉛の円盤のように、赤っぽい灰色の空にかかっていて、息詰まるようなやみが、すべてのものをおおいました。最も不敵なあざけり人たちの舌をも拘束する、おしつけるような沈黙がありました。まるで夜になったように、小鳥たちは黙りこみ、小さい春の草花は頭をたれ、花びらを閉じました。人々はこの奇跡をも「説明」しようと努めてきたではありませんか。かれらは、それがこの時「偶然に」起こった日食だった、と推測し、その日食が、それを目撃した迷信的な土着民たちには、そうではなかったにしても、私たち、現代の大いに文化の進んだ教養ある人々にとって、本当に事件全体を「自然」にしたのです。しかし、悲しいかな、この「説明」はあたっていません。私たちは、イエスの死が過越の祭の時に起こったことと、過越の祭はいつも満月の時に来ることを、知っています。しかし天文学は、日食が新月の時にしか起こらないと、私たちに教えているのです。
いや、この自然のしるしも、何かもっと高いものを暗示しているようです。クリソストムも「太陽は主の不名誉を見ないように顔を隠した」と言っています。そのとき(旧約聖書)ヨエル2章31節のこういう言葉が成就しました、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり」またイザヤ書50章3節「わたしは天をやみでおおい、荒布をそのおおいとする」また特にアモス書8章9節〜10節「その日にはーー神である主の御告げ。ーーわたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたのすべての歌を哀歌に変え、すべての腰に荒布をまとわせ、すべての人の頭をそらせ、その日を、ひとり子を失ったときの喪のようにし、その終わりを苦い日のようにする。」
そして、やみがゴルゴタの上にたちこめたとき、それは精神的なやみ、神に見捨てられているやみの姿で、その中にイエスはこの三時間はいっておられました。何びとも、そこで起こったことを根底まで、最も深い真実の中に見ることはできません。というのは、もしも私たちにできたとしたら、私たちの胸は張り裂けたことでしょうから。私たちは、神の聖さの輝く白さ、罪に対する神の激しい怒りを、のぞきこむことに耐えられないし、イエスの受けられた地獄の苦しみの奥底を、のぞきこむことにも耐えられません。
ただこのこと、この三時間のうちに、あがないの偉大な永遠の救いのわざが、なし遂げられた、ということだけを、私たちは知っています。そのとき、あなたや私が神の名誉の輝かしい盾を汚した、あらゆる無数の罪とがのために、刑罰を要求する神の聖さと、清い罪のない血で私たちの罪を洗い去られた、イエス・キリストに現れた神の愛との間に、大いなる和解が起こりました。(『受難の七日間』348頁〜351頁)
この暗黒の三時間に、どんなにイエスさまが、私たち罪人の身代わりとなって父なる神様から捨てられ、全くの孤独、地獄に突き落とされる孤独を経験されたかを、著者のフィビガーは更にくわしく考察しているが、残念ながら今日は省略せざるを得ない。それこそ、イエスさまが父なる神様から引き離された孤独の三時間の実相であり、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という叫びであったとだけ付け加えて置こう。
さて、今朝、何気なしに一通のメールが入っているのに気づいた。まさに55年前に私が初めて担任となった時の生徒さんからのものであった。ほぼ一週間前の4/6のブログでその生徒さんたちが私にくださった愛の奉仕のわざを思い出し、紹介したが、それと同時に、そのうちの一人の住所は分かっていたので手紙を出し、53年ぶりにお礼を筆に認めることができた。ところがその彼からの応答は昨日までなかった。
それもそのはず、同君はその4/6から4/13の昨日まで海外に出ており、帰国するなり私の手紙を見て、すぐメールされたのであった。そこには来年四月の皆既日食の調査のことが書いてあった。私はそのあまりにも絶妙なタイミングの良さに内心驚かされた。なぜと言って、ほぼ2000年前の受難週中の聖金曜日について、昼間の三時間全地は真っ暗になったが、その日は皆既日食の日ではあり得ない、とフィビガーは先述のように、それは「偶然」でも「自然」でもなく、「預言の成就」だと述べていたからである。
一方、掲出の絵は1633年オランダでレンブラントが残した『十字架から降ろされるキリスト』と題したエッチングである。390年前の我が日本は折しもキリシタン禁制下、同時に鎖国令が本格化する時でもある。しかもそれにもかかわらず日本が通商を認めていた相手国はオランダであった。果たして、レンブラントのこの絵は当時の日本人の知るところではなかったのか。これまた尽きない興味が湧いてくる。
一枚の絵、一通のメール、さまざまな人と人との出会いを残して歴史は進行する。しかし、そこには揺るぎない神の御意志(愛)のみが貫かれているのではないだろうか。それこそが、イエス・キリストの生涯であり、その集約はまさしく「十字架」と「復活」である。終わりに、ふたつのみことばを確認しておきたい。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(新約聖書 1コリント人への手紙1章18節)
主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。(新約聖書 ローマ人への手紙4章25節)