2025年12月30日火曜日

小学校教育の重要さ

写生大会参加 昭和26年(1951年)彦根市護国神社前(※1)
 前回、同郷の誼(よしみ)である妻との会話を話題にしたが、この機会にふとしたことを75年ぶりに思い出した。それは高宮小学校一年生の時の担任の先生が二年生の時持ち上がらず(普通は一年、二年と持ち上がるのが通例であるのに、その先生は何と妻の入学する予定の隣の町の甲良東小学校へと転勤して行ったのだが)、そのために別の先生に変わったことである。その時の漠然とした不安を思い出したのだ。しかし、それが束の間に終わったことも同時に思い出した。いや逆に私はその新たに担任となった先生に二年どころか三年、四年と都合三年間受け持ってもらって、今にして思うが、終生の私の恩師となった。その先生とは森千恵子先生であった。

 母は一人息子の私を何とか一人前の人間として養育したいと考えていたのだろう。情操教育の一つとして絵画を選び習わせた(母は音楽がからきし駄目だったので、絵なら自分も何とか相手できるのでないかと考えて)。小学校に入る直前だと思うが、絵の先生のもとへ習いにやらせた。そこで初めて与えられた題材は高宮神社の境内の「森」を描くことであった。目の前に見える森の緑、一面緑一色の森、土や樹木の茶色を前にして私は一瞬どのように表現するか困った、しかしそれ以上に表現する楽しさに埋没していった記憶がある。そして、私が不安を抱いた二年生の担任が何とその森先生であった。

 森先生は私にとって名伯楽であった。二年生から四年生の間、私はこの先生の図工教室に放課後になると入り浸り、クレヨンではあるが、絵を一心不乱、無心に描いた(※2)。当時、郡展、県展とあり、その先、全国規模の絵の展覧会があったが、いずれも突破して入賞した。アンデルセンの童話をもとに、アヒルの絵や近くの牛小屋にいる牛の姿を描いてはそれぞれ入賞し、当時の小学校学年雑誌の後ろにもその作品が載せられたことがある。頂点は四年生の時、森永母の日を記念する展覧会で金賞をいただいたことだ。母が台所で井戸のつるべから水を汲み大根を洗っているシーンを描いた作品である(※3)。この時、その森先生と一緒に作品を送る荷造りを済ませたことは昨日の如くしっかり覚えている。

 この期間、母は教育熱心で、絵だけでなく、当時盛んに奨励されていた、「研究発表」にも私を駆り立てた。柿の種類ごとに異なる生育を調べる研究であった。この研究も県レベルまで行った。それやこれやで昔はその表彰式が全校集会で行われるが、その都度私の名前が呼ばれては褒美をもらうのであり、副賞が素晴らしかった。メダルはもちろんのこと本箱などがあった。当然、皆に羨ましがられた。「ひいき」「ひいき」と同級生にも言われて、特に口さがない父兄からの声には正直参った。確かにその面があったからである。そのような中で母と森先生はそれぞれ、私を支えてくれた。母は生身の人間として様々な思いを私にぶつけてきたが、森先生はそんな母を上手に相手しながら、私の「人格」を擁護して感情的にならず導いてくださった。後年、母が亡くなり大学受験に失敗した私は、八百屋さんの店頭で、買い物かごをさげ、決して先生には見せたくなかった惨めな自分の姿を曝け出しながら、森先生と小学校卒業以来6、7年ぶりにお会いし、短い会話を交わさせていただいた。この時が先生との生前の最後の別れとなった。

 そのような私も五年六年と担任も森先生から別の先生に代わるだけでなく、私自身がそれまでの喜びをもって無我夢中で描いた絵から、何としても上手に描きたいという思いが高じてきたり、また新たな転校生がやってきて彼の描く宇宙人を思わせる空想画に太刀打ちができなくなった。ちょうどクレヨンから絵の具への転換時期が重なり、私はもはや絵を描かなくなった。辛うじて小学校卒業のおり、教頭先生が書いてくださった色紙の「浩さんは将来絵描きになりますか、それとも科学者になりますか」という命題が残るのみであった。

 私は絵の世界は無理、科学者の世界ならコツコツと努力すれば可能なのではないかと考え、中学、高校と一路その方面に舵を切り変えた。振り返ってみると教頭先生の過分な餞(はなむけ)の言葉はそれ以後の私の人生の指針になった思いがする。

 先ごろ東京新聞朝刊の12月9日の記事に「小学校教員離れが加速」というショッキングなニュースが報じられていた。日本政治の右傾化が急速に進む中、他方で子どもたちの未来の可能性を切り開く先生のなり手がいないというこの矛盾も看過できないと思う。私の五年六年の担任の先生は、お身体が悪かったこともあったのだろう、自由放任のスタイルで教室では生徒に学校放送を聞かせて、自習が多く、よく級長の私に同級生の勉強の様子を見るようにという指図があったことを思い出す。そのような中でも世の風潮は「再軍備反対」「教え子を二度と戦場に送るな」「ああ、原爆ゆるすまじ」と校外の声は自我意識の芽生えとともにその後の私の確かな判断力の指針であった。これは戦後民主主義教育運動の成果であったかもしれない。

※1 写生大会参加のため高宮小学校の派遣チーム(?)四年生から一年生になる混成集団。森先生は画面中央にいる先生。筆者は画面右端の少年。

※2 その図画工作室で私は画板に向かっていたが、疲れると床面に寝っ転がったりして、森先生のところに押しかけては、言い寄ってくる男先生の姿などを、自然に見聞きする中で、大人の心の機微にも触れざるを得なかった。もちろん森先生は無心に描いている少年の心にどのようなことが起こっているかはご存知なかったと思うが・・・。私にとってはその図画工作の部屋は密かな人生の学舎(まなびや)でもあった。

※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2023/05/blog-post_23.html
大根を洗うシーンも描いたが難しく、何個かの試作の末、このような絵になった。

若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。(旧約聖書 箴言22章6節)

2025年12月27日土曜日

窓外の景色を見遣る

山茶花の 満開目指す 寒中
 今朝は猛烈に寒い。それでもまだまだ序の口だろう。朝起きて、窓外のつばき(実は山茶花なのだが、妻は往年の識別力は失っており、こちらも何とも思わなかったが、別の北側に椿の花があり、こちらは今「つぼみ」だ。したがって俳句も変えた12/28追記)を見ながら、妻がつぶやいた。「よおー、咲いとるなあー、こんなに寒いのに」「『つばき』って、木篇に春って書くのね」互いにうなづきあった。妻が漢字を当てはめて、「つばき」を感じていることを知って心の中がほんのりと暖かくなった。

 このところ寒く、昨日などは風が強くとても古利根川にまで足を伸ばせないのだが、先日も妻がその古利根川で、鴨の群れを眺めながら、「よー、いとるわ。さむうないのかしら」と独言(ひとりごち)した。お互いに、同じ方言を使っての会話。何となく共に温泉に入っている心地だ。

 昨日、次男がパリから、その故郷の様子を記したyou tubeを送ってきた。その中に一枚の写真があった(※)。私の小学校一年の時の写真だ。教室をバックに左端に担任の先生が立ち、教室の内外にクラスの子どもたちが、それぞれ思い思いの表情・姿態でカメラマンの方を見て写っていた。昭和25年、75年前の写真だ。田舎の子どもたちの着ている服装にも戦後すぐの生活が色濃く滲み出ている写真だ。その中にもちろん私もいる。窓ガラスに顔を押しつけている。その気質は今の私とそんなに変わらない。

 後年、結婚してびっくりしたことがある。3歳下の妻の小学校一年の担任がまさしく私の一年の時のその担任の先生とまったく同じ先生だったからである。私の町と妻の町は互いに隣接しているが当然、互いの小学校は違う。確か、私が2年になる時、どこかに転勤なさった。転勤先が妻の町であったのだろう。私の町は宿場町で妻の町は完全な郷村である。だから若干言葉が違う(と、思い、私は妻を田舎者〈いなかもん〉扱いすることが多い)。しかし、「よおる」とか「いとる」とか、いずれも「居る」の変形言葉だが、他の地域の人が使う言葉とは明らかに違う方言だ。

 だから、二人で交わす言葉にはお互いにキリスト者である共通点がある上に、生まれが同じという親近感がいつもある。まして今妻は認知症が進行している毎日である。その妻が漢字を引っ張り出して窓外の景色を見遣りながら、田舎言葉で話しかける。75年前、クラスの半分近くが外に出て先生と一緒に並んでいるのに対して、室内に残った者は窓を開け、乗り出したりしているが、一方、顔を窓に押しつけて私のようにみんなの仲間入りをしようとしている者もいる。

 75年前の窓外を見やる私と、今窓外を妻と見やっている私は同じ私である。

※一月前であったろうか、次男が帰国し、私の郷里に入った。偶然市の出張所で出会った方と会話を交わしたようである。その方がパリに「故郷」の様子を描写したものをメールで送ってきてくださった。

主は羊毛のように雪を降らせ、灰のように霜をまかれる。主は氷をパンくずのように投げつける。だれがその寒さに耐ええようか。主が、みことばを送って、これらを溶かし、ご自分の風を吹かせると、水は流れる。(旧約聖書 詩篇147篇16〜18節)

2025年12月25日木曜日

クリスマスとルターの子どもたち(下)

つましいクリスマスの備え(※)
 突然、ハンスは、「あっ、見てごらん」と大声を出しました。木の間を動いている一つの影を見たのでした。「おとうさんだわ!」。レナは窓の所から飛び降りながら叫びました。そして壁に掛かっていたオーバーを取るなり、大きなとびらを思い切りあけて、おとうさんを迎えるために寒い戸外の、雪かきされた道に走り出しました。

 「まあ、おとうさん、よかったわ。手伝っていただきたいのよ」。おとうさんに抱き締められながら、レナは言いました。「どうしたんだね。何かぐあいの悪いことでもあったのか」とマルティン・ルターは尋ねました。彼は大きく、かっぷくのよい人で、あごの張った鋭い目の人でした。「おうちがクリスマスらしく見えないの」とレナは訴えました。「ほかのものはみんなクリスマスだけのものなの。あしたはみんなで教会に行くし、ごちそうもたくさんあるし、贈り物の箱もできているのだけれど、おうちだけがいつもとちっとも違っていないんだよ」と、ハンスも口を添えました。「外は、クリスマスのためにおけしょうしているみたいだね」。幼いマルティンは、星が一つずつ輝きはじめた暗い夜空を見上げました。

 子どもたちの物足りなさそうな顔をながめていたルターの額に、二つの深いしわが寄りました。そして、雪をかぶったもみの木と、またたく星をながめました。すると、急に額のしわが消え、「ハンス、早くおのを持って来なさい」と言ったのです。「はあい」とハンスは返事をしながら、家の方へ去って行きました。レナとマルティンは胸をわくわくさせて、「何をするの?」と尋ねました。「まあ、待て待て。黙って見ていなさい」。ルターは満足そうにひとりで笑いながら、回りの木を一つ一つ見て回りました。

 ハンスがおのを持ってもどって来た時、ルターは、小さいけれどまっすぐに立っている一本のもみの木の前に立っていました。そしておのをじょうずに使って、それを切り倒しました。それから、笑いはしゃいでいる子どもたちを従え、木をかついで家の方へ行きました。戸口で立ち止まり、枝の雪を振り落としながらレナに言いました。「レナ、おかあさんに、ろうそくを何本かもらって来なさい」。

 「はい、おかあさんも、もう起きていらっしゃるでしょう」レナは元気よく廊下を走って台所へ行きました。「おかあさん、おとうさんがおうちをクリスマスのためにきれいにするので、ろうそくをくださいって」。「それはいいことね」。明るい丸顔をしたおかあさんのケートはこう答えると、大きな戸だなをあけて、ろうそくを何本か取り出しました。レナはそれを受け取り、また元気よく居間に走って行きました。

 ルターはすでに、ほかの子どもたちといっしょに、かわいい木をへやのまん中に立たせていました。
「ろうそくを木につけよう」。
「はあい」。
子どもたちは声をそろえて返事をし、ていねいに木の枝にろうそくをつけました。ルターがろうそくに火をつけた時、子どもたちは思わずつばを飲みました。光は木のしっかりした緑の枝の間に、明るく光りました。

 「ああ、おとうさん、きれいだわ。おとうさんの考えは、世界でいちばんすばらしいわ」。レナは手をたたきながら言いました。

 ルターは、愛情をこめてレナをなでながら、「神さまがお造りになった木だね。イエスさまに対するわたしの信仰のように、冬でも生き生きしている木で、クリスマスにおうちを飾るのにいちばんよい木だよ」と言いました。

 「でも、おとうさん、ろうそくはなんのためなの」とレナが尋ねました。
 「それはね、最初のクリスマスの夜の星空と、はかせたちをキリストに導いたあの一つの輝く星を思い出させてくれるものだよ。さあ、おとうさんはね、新しいクリスマスの讃美歌を作ったんだよ。イエスさまのことを思っていっしょに歌ってみよう」。

 ルターは三人の子どもを前にして、彫刻のしてある、自分の大きなひじかけいすにすわりました。そして、一節ずつ、讃美歌を教えたのです。

 いずこの家にも  めでたきおとずれ
 伝うるためとて  天よりくだりぬ
 マリヤのみ子なる 小さきイエスこそ
 み国にこの世に  つきせぬ喜び

 子どもたちが歌っている間、もみの木の枝につけられたろうそくは、明るく燃えて、ルターの家を、いかにもクリスマスにふさわしく見せていました。

(『アルフレッドとベード先生』ドロシィ.C .ハスキン著有賀英子訳30〜34頁から引用)

※もうかれこれ5年以上前になるが、ベック宣教師宅で見かけた造作物。左側のオレンジ色のものはろうそくだろう。こうして、クリスマスはイエス様が我が心の中にいらっしゃるか、確かめ、かつ賛美する日。

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(新約聖書 ルカの福音書2章11節)

2025年12月24日水曜日

クリスマスとルターの子どもたち(上)

ブローニュの森 2006.11.28(※)
 クリスマスの前日、夕方近くのことでした。ルターの子どもの上の三人、ハンス、マグダレナ、マルティンは、ドイツのウイッテンベルクにある家の居間に集まっていました。三人は窓から外を見ながら、おとうさんの帰りを今か今かと待っていたのです。

 それは1538年、マルティン・ルターがカトリック教会と戦った時のことでした。「人は教会に行っていることによって天国に行けるというのではなく、ひとりひとりの心にキリストが生まれなければならない」というのがルターの主張でした。そのために、クリスマスの守り方も前と変わってきました。それぞれの家庭でクリスマスをどう過ごすか決めなければならなかったのです。

 ルターの三人の子どもたちは、貧しい人たちへの贈り物を箱に詰め終わったところでした。ハンスとマルティンは喜んではしゃいでいましたが、レナと呼ばれているマグダレナはゆううつでした。台所からはこうばしいにおいがただよって来ます。ハンスは鼻にしわを寄せながら、「なんてよいにおいなんだろう。きょうがクリスマスだといいんだがなあ」と言いました。「そうだね」。おとうさんと同じ名まえのマルティンはそう言いながら、ふと気がつき、「どうしてそんなにゆううつなの」とおねえさんのレナに尋ねました。

 レナは、鏡のはめ込んである高い壁、彫刻のある天井、あらい板の床を見回して、ため息をつきました。へやはきれいに掃除され、みがきたてられていたのですが、いつもと少しも変わっていません。「うちのどこを見ても、あしたがクリスマスだということを表わすものがないから悲しいのよ」とレナは言いました。「そんなことはないよ。あしたはみんなで教会に行くし、おかあさんは特別なごちそうを作っているじゃないか」。ハンスがこう言うと、マルティンも「それから、おとうさんはこの贈り物の箱をみんなにくれるよ」と、不服そうに言いました。

 「わたしが言っているのは、そんなことじゃないの。おうちにだれかが尋ねて来たとき、あしたがイエスさまのお誕生日だということを思い出させてあげるものがないということなのよ」。「じゃあ、どうすればよいかおかあさんに聞いてみよう」。そう言いながらハンスは立ち上がり、奥のへやの方へ歩き出しました。「でも、おかあさんは今、やすんでいらっしゃるから、心配かけては悪いわ」。レナは、一日じゅう忙しく働いていたおかあさんのことを考えて言いました。

 「おとうさんが帰って来れば、何か名案があるかもしれない」とマルティンが言いました。「そうだわ。きっと何か考えてくださるわ」。これを聞いたレナはうれしそうでした。おとうさんはなんでもできることをレナは思い出したのです!そして高い窓にのぼって、外をのぞいてみました。沈んで行く太陽の最後の光が、真っ白に雪でおおわれた庭にさし込んできました。家の回りには、これまた枝の一つ一つに雪を積もらせたもみの木が並んでいます。救い主をお迎えするために特別に整えられたような美しいきよい世界でした。

 まもなく、おとうさんが、雪に深い足跡を残しながら、木の間の小道を帰って来ました。おとうさんなら、クリスマスを完全なものにするのに、どうすればよいか知っていらっしゃる、とレナは確信していました。

 レナはおとうさんが大好きでした。そして、おとうさんが偉い人だということも知っていました。おとうさんは、だれでも読めるように、聖書をドイツ語に訳し、また、よい生活を送って天国に行くにはイエスさまを信じなければいけないと教えた人です。

 「ぼくは、一年じゅうで、クリスマスがいちばんいいと思うなあ」とハンスが言いました。「そうね。クリスマスは、神さまがわたしたちのためにしてくださるすばらしいことのいちばん初めだって、おとうさんがおっしゃったわ」。レナは相づちを打ちました。そして、最初のクリスマスについて、おとうさんのしてくれた楽しいお話を思い浮かべて目を輝かせました。弟たちもまじめそうにうなずきました。彼らもその話を聞いていたのです。

(『アルフレッドとベード先生』ドロシィ.C .ハスキン著有賀英子訳26〜30頁から引用)

※前々回から掲載した二枚の写真と今日の写真は同じところで撮ったものだが、二十年前のものでうろ覚えでリュクサンブール公園としたが、どうも「ブローニュの森」が正解のようだ。

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(新約聖書 ヨハネの福音書3章3節)

2025年12月23日火曜日

一大ハプニングとその顛末

リュクサンブール公園で 2006.11.28※1
  12月になって最初の土曜日に、近江八幡からわざわざ東京まで同期会に出席するために上京した方と偶然ホテルに同時に着いたことはすでに”2025年の「東京36会」(上)”で触れておいた。その時、私は自分自身がすでに次週には近江八幡のキリスト集会の礼拝に出席すると決めていたので、その同期生の方には「来週、私は(逆に)近江八幡に行くんですよ」と言ったが、果たして、その方がどの程度心に留められたか。

 私の場合、その近江八幡に行くには、毎回郷里の彦根市高宮町の家に泊まってから翌日出かけることにしている。そのためには、先ず東京まで出て、そこから新幹線で米原に行き、あとは在来線で行くのが常である。ところで、不思議なことに、その一週間前には私の家から新橋に行くには電車所要時間が一時間とキリのいい時間であったが、今度、東京へ行く時間を調べたら、何と最寄駅を9:17分に出れば、10:17分に東京に着ける、これまた一時間きっちりなのだ。幸先良い前触れだと思わずにはいられなかった。

 ところが豈(あに)図(はか)らんや、前日の金曜日に、翌日の近江八幡行きを断念せざるを得ないと覚悟した一大ハプニングが起こってしまった。妻が午後4時ごろ近くのお店に自転車で買い物に出たが、中々帰って来なかった。道がわからなくなって帰るに帰れなくなったのだ。やむを得ず、警察に電話して大変お世話になり、最後は妻が午後7時ごろ道中のとある営業所に入り、道に迷ったことを告げ、自分の住所と電話番号を知らせた。そのことをきっかけにして一挙に居場所がわかり、警察の車で急行し妻と再会できた。

 当日日没が何時だったか、4時半ごろだと思う。暗い夜道で、元々方向音痴の妻に取り、大変だったに違いない。短期記憶ができない妻にとって瞬間瞬間の判断力だけが頼りだった。都合三時間あまり、どこをどう自転車を走らせたのか、その距離は直線距離にしておよそ12キロメートルの西方へと自転車を走らせてしまったが、今となってはわからない。とにかく無事だったのでホッと胸を撫で下ろし、翌日の近江八幡行きも妻を同道させて実行できた。

 その後徐々にわかってきたことは、妻がペダルを一足一足踏むごとに、「イエス様、助けてください!」と祈りながらの自転車走行であったということだった。当時、私は気も動転するばかりで、祈るどころか、(妻は携帯電話を所持していなかったため)唯一の手掛かりとなった財布内に忍ばせてあった「紛失物防止タッグ」(※2)のGPSが刻々と知らせてくれる、その情報を恨めしげに眺めては、止まらず走り続ける妻をどうすることもできず、地団駄を踏むばかりであった。

 妻が認知症を患っているため、ここ一、二年健康時に妥当することは一切通じなくなった。でも段々その行動に慣れてきた。認知症は徐々に進行するが治らない病気だと言うのが今日の常識のようだ(※3)。いかにそれを受け入れて周りの者が接するのかが大切であると自分に言い聞かせている。

 今回の騒動を通して慰められたのは、先ず、春日部から浦和方面に向かって三時間あまりの彷徨の中で、交通事故に会うことがなかったこと。次に当時、一切の記憶がない妻だったが、二、三日するうちに少しずつ自分の行動を語り出したことである。浦和方面に行くには、元荒川を越え、関越高速道路の下を潜らなければならないが、「高速道路の下をくぐった、まわりは田んぼだらけだった」と語ることができたこと。最後に長女から電話で「お母さん、不安でなかった?」と聞かれて、「イエス様、助けてください!」と祈り続けたと答えたことである。

 この最後のことばほど私にとって最大の慰めになったことばはない。そしてその背後に家族全員の取りなしの祈りがあったことも後に知る。私は小心者である。心配事は万と抱え込む。これからもどんな目に遭うかもしれない。しかし、下記のみことばはいつまでも忘れられない。これが一大ハプニングの顛末である。

※1 前回のイチョウの枯葉をリュクサンブール公園と記したが、本当はどこかわからない。念のためパリ在住の次男に問うたが、「枯葉」だけではわからない(笑)と返事を寄越した。今日のこの写真はとりあえずリュクサンブール公園としたが、「枯葉」と同じ公園である。その公園をサイクリングで颯爽と走っている人がいるのが印象的だった。ほぼ二十年前のフランス・パリで見聞きしたことだ。その方の肩越しに元気だった妻が少し顔を覗かせているのも面白い。

※2 何週間か前に三男が購入して妻に持たせておいたもの

※3 妻がお世話になっている先生の本に『認知症そのままでいい』(上田諭著ちくま新書2021年刊行)がある。同じく『「認知症」九人の名医』(東田勉著ブックマン社2024年刊行)という本には上田先生も九人の一人として紹介されている。

あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(新約聖書 1ペテロ5章7節)

2025年12月9日火曜日

2025年の「東京36会」(下)

パリ市内のリュクサンブール公園で 2006年11月28日
  現在、東京36会に登録されている同期生は合計で34名である。先週の土曜日に集まったのは16名だから、出席率は50%をすでに切り、47%である。年々この数字は低下していく一方であろう。今回も2名の方が亡くなられ、欠席の方々はいずれも体の不調や連れ合いの病気などで出席できない方々ばかりであった。

 私自身も妻が認知症を患い、外出にも気を配らねばならない日々を送っている。しかし、そのような試みのうちにも、主なる神様のことばである聖書を毎日、妻と輪読しては大いに慰めと励ましと将来への希望に満たされている。私自身、27歳に至るまでは、無神論者で「信仰」というものをもっとも忌諱していた張本人である。いや27歳と言わず、この数ヵ月前まで「信仰」に正しい位置を与えていなかった。

 その考えに大いなる訂正を求められたのが今回同期会の方々のどなたかにお渡ししたいと思い制作したこのブログの記事より構成した以下の四編だった。
 1 キリスト教とその疑問(私の宗教迷論)※1
 2 東京36会 ※2
 3 この日は我が自戒の日なり ※3
 4 救いの道 ※4
この1はかつての出身高校の新聞に当時高校2年生であった滝本さんが投稿された記事をそのまま抜粋して写させていただいたものである。滝本さんがその後どのように人生を送られたかは公の記事以外は知る由もないが、ここまで真剣にキリスト教を考えておられることに大変感嘆している。

それに対して、2、3は詰まらない私の雑文を載せたものであるが、最後の4「救いの道」こそ今回私が同期生の方々に是非読んでいただきたいと思い、編集した文章である。

 先に「信仰」に正しい位置を与えていなかったという私の述懐は偽らぬ私の気持ちである。形の上では信仰生活55年にわたる生活を送っていたにもかかわらずである。何も信仰生活に時間がかかると言おうとしているのでない。素直な幼児の心さえあればいつでも「信仰」は持てる。そのことを是非同期生の方々に味わっていただきたいと、今回長編になるが、この「救いの道」を加えさせていただいた。

 同期会は午後3時前には解散した。次回は40回目で早々と幹事の方も決まった。新幹事は浩君ともう一人の方に決まったが、この方は常連の方だが、まだ一度も個人的にお話ししたことはない。しかし互いに奇縁(血縁、地縁)がある。来年、互いに健康であれば、67年目にして交わりが許されることであろう。

 小冊子5冊は浩君と私の右隣に座られた方と、前々からその救いを祈っている方お二人と、新たにかつて同期会で「道中記」を紹介してくださった方にお渡しすることができた。

※1 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/05/blog-post_28.html
なお、文中に登場するマッソン宣教師は私よりも早く信仰を持った高校の同級生の方が公私ともにお世話になった方であった。

※2 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2013/12/blog-post_9.html

※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/11/blog-post_30.html

※4 この文章は8回シリーズで長編だが、第一回目が、2013年の2月19日で、その後3月15日から3月21日まで合計7回連続して載せている。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2013/02/blog-post_19.html

https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2013/03/blog-post_4889.html 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(新約聖書 ヨハネの福音書3章16節)

2025年12月8日月曜日

2025年の「東京36会」(中)

オランジェリー美術館を前にして 2006.11.24
 果たせるかな、小冊子をとおして私は福音を届けることができるのであろうかと不安があった。けれども、私にとっては出発間際まで時間ギリギリいっぱい掛けて仕上げた作品であった。どなたにお渡しができるか、当てがあるわけではないが、取り敢えず五部だけ持参した。

 会場に着いたのは開始時刻の11時半少し前だった。ホテルに私が入るとほぼ同時に、駆け込むようにして入って来られた方がいた。田舎者の私にとってホッとした瞬間であった。と同時に彼女が近江八幡から来たことに思い至った。聞いてみると近江八幡を8時に出たということであった。彼女は何かと世話をしてくれている「東京36会」の常連である。

 高校時代、一度も一緒のクラスになったことはなかったが、数少ない女生徒として、通学途中に見かけることのできたスタイルの良い颯爽とした姿はいつも眩(まぶ)しい存在であった(※1)。会場入り口にはすでに幹事のお二人が案内がてら会費の徴収をしてくださっていた。結局、当日の参加者は16名(男性14名、女性2名)であった。

 いつもの立食スタイルとちがい、フランス料理のフルコースであり、私にとっては落ち着いて互いに歓談する絶好の機会となった。私の前には、一年、三年と同じクラスであり、名前が同じ「浩」君が座り、じっくりと話ができた。名前の由来を尋ねると、「浩然の気を養う」からだと言う。まったく我が両親が名づけた理由と同じだった。会社経営をなさっている浩君は高校時代そのままで若さいっぱいの好青年の趣を今になっても残している嬉しい存在である。彼が「趣味は何か」と問うので、「聖書、神のことばを毎日食べている、そればっかり」と申し上げた。全員の挨拶の中で、彼は何と「向上心を持ち続けたい」と言った。彼がいつまでも健康であれと願わずにはいられなかった。

 一方、私の右横の席に着かれた方からはズバリ「君はキリスト教徒と聞いているが、何派なのか」と直裁に聞いて来られた。私は、何派も、クソもない、イエス・キリストがすべてで信仰者にとってはそういうことは問題ではないと言おうとしたが、中々うまく説明はできなかった。ただ小冊子として作成した「キリスト教とその疑問」(※2)という表題の作品はその方の質問に答えるのにはうってつけだと思ったので、ああ、主なる神様はこのようにして、私の「東京36会」への出席を導いてくださっているのだと思わざるを得なかった。その方とはさらに共通の知人との話で盛り上がった(※3)。

 終わり頃になって、左横に座っている方が、一年の時、同じクラスであったことを朧(おぼろ)げながら思い出した。高校一年の時にも話したことはなかったが、66年目にしてお互いに話を交わすことができた。そのことだけでも齢80歳をとうに越えてしまった今、もっともっと命を大切にしなければならないと思わされた。

※1 彼女については一度、本ブログで書いたことがあることを思い出した。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/12/blog-post_6.html

※2 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2015/05/blog-post_28.html

※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2020/05/blog-post_5.html 
この文章中に出てくる吉田精一さんのご子息が、私たちが存じ上げている共通の知人であった。もっともご子息とは言っても私どもより一回り上の先人で、人生の先輩にあたる方である。

私たちの齢は70年、健やかであっても80年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。それゆえ、私たちに、自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(旧約聖書 詩篇90篇10、12節)

2025年12月7日日曜日

2025年の「東京36会」(上)

オペラ座(パリ) 2006年11月22日(※1)
  昨日は一年ぶりに、原則として毎年12月の第一土曜日に開催される高校の同期会に出席できた。いったい何人の人が集まるのかわからなかった。年々少なくなっているのだが、前回は21名だった(※2)。その折り、すでに来年は来れないと言う方もおられたので、少ない人数であることは覚悟していた。

 会場は新橋の第一ホテル東京のレストランであった。11時半開始と案内にはあった。二、三日前から落ち着かず、何を着て行くか?から始まって、どのようにして行けば良いのか、昨年の経験は忘却の彼方にあり、面倒だと思い始めた。いっそのこと、電話で出席をキャンセルしようかと弱気になり始めていた。それでもお会いしたい方もおられるしと、気を取り直した。

 電車時刻を調べてみると、私の最寄駅を10:07分に出れば、新橋へは何と11:07分につけることがわかった。ジャスト一時間で行けるとは覚えやすい時刻であった。前日の金曜日になり、「お前は何のために行くのか?」という内なる促しの声が聞こえてきた。もちろん、グッドニュース(福音)を届けたいという思いが強くあっての同期会出席である。神道の言葉を借りて言えば、そのことは、天地神明に誓ってそう言える。問題はそのために何ができるか、というのが大きな課題であった。

 ごく平凡に考えれば、福音に関する小冊子を持参して関心のある方にお渡しできれば、それで良しというのがこれまでのスタイルであった。ところが39回に及ぶ(伝統ある?)同期会にはこれまで5、6回しか出席していない。同期会の常連の出席者からすれば、極めてマイナーな部類に属し、私自身まだまだ良く存じ上げていない間柄の方が多い。

 そうした中で、このブログ(※3)でも書いたことのある、同姓同名の方の奥様から主人が4月に亡くなりました、という喪中のお葉書をいただいた。同君とは高校時代には全然面識がなく、少ない同期会の出席の中で、初めてお会いした間柄であったが、幹事を11年前の2014年に一緒にやらせていただいた。もちろん当時彼にグッドニュースを届けたつもりだ。しかしその後、互いに安否を問おうとはしていなかった。その彼が亡くなったのだ。自分が友の救いのためにどれだけ真剣であったか問われる思いだった。

 考えてみれば、10月には三男の舅さんが75歳で亡くなった。この折もほぞをかむ思いだった。イエス様の救い(罪・咎の死からの救い)を知ってその恵みの中にいるお前は何をしているのか、お前の肉声で「わたし(主イエス・キリスト)の救い」を語れないのか、という内なる思いが前日の金曜日に湧き上がってきた。そしてこのブログの存在に思い至った。

 何しろこのブログにはこの16年間の間に総数で1960件の投稿をしている。すべて書き殴りに等しく振り返っていない文章ばかりだが、
泉あるところ
とはどんなところかを案内しているのがこのブログの特徴である。そして思い立った。このブログから選んで同期生の方に読んでもらえないだろうかという気づきである。そうして36頁の作品に仕立て上げて、「東京36会」に臨んだ。

※1 今となっては懐かしいパリ・オペラ座の光景である。昨日第一ホテルの吹き抜けの間では、結婚式が行われようとしており、2階からその様子を、写真にも撮ったが、プライバシーの観点からブログに載せるわけにもいかず、遠い昔2006年のこの写真を思い出し、載せた。

※2 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2024/11/blog-post_30.html

※3 https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/11/blog-post_16.html

いのちの泉はあなた(主イエス・キリスト)にあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。(旧約聖書 詩篇36篇9節)